追放
天文二十一年二月。
「大谷新左衛門。そなたを我らが一党から追放する。そなたはこの旅について来るな」
寒さで凍えそうな真夜中の広間、僅かな蝋燭の灯の中、関東管領上杉憲政は衆目の前で新左衛門にそう言った。
新左衛門は、はじめ聞き違いだと思った。
上座に座る、主君である関東管領上杉憲政は騎乗の装束である。
左右に居並ぶ側近たちも、みな旅支度を終えていた。脛巾を着け、荷を括り、いつでも発てる姿で座っている。広間だけが、いつもの広間だった。
「……恐れながら。どういうことでございましょう」
旅とはおそらくこの平井の城を捨てるということだろう。
今まさに、この城は、小田原から大挙してきた北条氏康の大軍によって、ぐるりと四方を取り囲まれ、兵糧攻めの憂き目にあっている。
敗北は目の前である。
しかしだからといって、城主の上杉憲政本人が、大勢の自軍を振り切って逃亡するとは誰も考えていない。
もちろん新左衛門は聞かされていない。初めて知った。
憲政は答えず、脇に目をやった。
「大膳」
「はっ」
菅野大膳が膝を進めた。言い聞かせる声だった。
「この御旅立ちは、対北条の起死回生の一手にござる。ゆえに殿がお連れなさるのは、選び抜いた少数。いずれも戦上手ばかりでござる」
隣から上原兵庫助が継いだ。
「分かるな、新左衛門。物見遊山ではないのだ」
新左衛門は畳に手をついた。
「畏れながら、新たな御地にも田は要りましょう。米を作らせ、税を集める者が——」
「まだ分からぬか」
菅野の声が変わった。言い聞かせる調子を捨てていた。
「殿は、お前のような役立たずは要らぬと仰せなのだ。分かれ」
「百姓の世話しかできぬ者に、与えられる席はない。それだけのことよ」
上原はそう言うと、それきり新左衛門を見なかった。
広間の誰も、口を開かない。
憲政が立ち上がった。
「すまんな、新左衛門。お前は里に戻れ」
それだけ言うと、家臣を連れて広間を出ていった。衣擦れと足音が遠ざかり、庭のほうで馬がいなないた。
新左衛門は、手をついたまま動けなかった。
暫くその場でじっと床を見つめる。
どれほどそうしていたか。
山の稜線がゆっくりと白みはじめ、夜が開け始めたころ。
廊下を駆けてくる足音がして、若い侍が転がるように入ってきた。
「申し上げます。北条の軍勢、こなたへ攻め寄せて——」
侍は上座を見て、口を開けたまま止まった。
「……あれ。殿は」
「発たれた」
自分の声が、他人の声のように聞こえた。侍はもう一度誰もいない上座を見て、また駆け去った。
一人残された広間で、新左衛門は考えた。
どうして、こうなったのだ。
◆天文二十一年 西暦1552年です。関東では北条氏康の攻勢が強まった時期にあたります。
◆関東管領上杉憲政 山内上杉家の当主です。居城を上野平井に置き、北条氏に圧迫されて越後の長尾景虎(のち上杉謙信)を頼りました。
◆山内上杉 関東管領を世襲した上杉氏の一流です。扇谷上杉と並び関東の二上杉と称されます。
◆平井城 上野国(現・群馬県藤岡市付近)にあった山内上杉の本城です。
◆北条氏康 後北条氏の当主です。本拠は相模小田原。関東へ勢力を伸ばし、山内上杉と抗争しました。
◆小田原 相模国の城下です。後北条氏の本拠として知られます。
◆脛巾 脚に巻く布です。旅装・軍装で用います。




