古戸湊
9/2 2部のあたまにこの章を挿入しました
夜明け前の川に、霧が出ていた。
水は黒く、音もなく流れている。岸の葦は、根元から霧に沈んでいた。
湊は、まだ眠っている。明かりの点いた家は一軒もない。土手の道を行くのは、投網を担いだ漁師二人きりだった。
「きのうは、さっぱりだったなあ」
若いほうが言った。
「水が出たあとだ。二、三日もすりゃ、鮒も戻ってくらあ」
「戻ってもらわにゃ困る。ゆんべなんざ、おっかあが口も利いてくれねえ」
「手ぶらで帰るからだんべ」
「手ぶらで帰って、機嫌のいいおっかあがどこにいる」
年かさのほうが笑った。笑い声は、霧のなかへ吸われて消えた。
それきり、どちらも黙って歩いた。
朝の川は、妙に静かだった。鳥の声ひとつしない。
舟溜りの手前で、若いほうが足を止めた。
「ん」
「どうした」
「……誰か、いねぇか」
若いほうが、霧の先を指さした。
年かさのほうは、目をこすった。
舫い舟が、灰色のなかに並んでいる。その端の一艘の上に、何かが立っていた。
はじめは、立てた棹に濡れ筵でも掛けてあるのかと思った。
違う。人の形をしている。
子供ほどの背丈である。全身が、ずぶ濡れだった。長い髪が顔に貼りついて、目も口も見えない。
身じろぎ一つ、しない。
髪の先から滴が落ちて、舟板を打つ音だけが、静かな水の上をこちらまで渡ってくる。
あれは、うちの舟だ——年かさのほうがそう思ったとき、隣で若いほうが尻餅をついた。
「ひえっ。か、河童じゃ」
「……」
「河童が、舟に乗っとる」
年かさのほうは、目を凝らした。
濡れた髪。細い肩。裾からのぞいているのは、水かきも鱗もない、人の足である。
「いんや」
首を振った。
「ありゃ、童じゃ。……溺れでもしたか」
「な、なんと」
若いほうが跳ね起きた。
「なら、助けにゃ」
二人して、土手を駆け下りた。
「おうい。おうい」
呼ばわる声にも、舟の上の子供は目もくれなかった。
濡れた髪のあいだに、幼い顔がのぞいている。少女である。
怯えてもいない。泣いてもいない。
呆然とした顔のまま、ただじっと、川面を眺めていた。
◆古戸湊 利根川水系の湊です。現・群馬県千代田町付近の古戸が知られ、舟運と漁の拠点でした。




