帰路
幕が畳まれるあいだ、翼は池のほとりに立っていた。
水の面に松が映っている。朝と同じ形だった。
卯月八日の祭りはこれで終わり。
参列した人たちも、それぞれの帰路へ発っていく。
伯父がやってくる。
「日が落ちます。渡しが止まる前に出ましょう」
「はい」
「翼姫様」
後ろから声がして振り返ると伊波姫だった。
供の女が一人、少し離れて立っている。
伊波姫を近くで見るのは、これが初めてだった。
整った顔だと翼は思った。朝、市で遠くから見たときには思わなかった。派手なところが、どこにも無いからだ。
姫は翼の前まで来て、膝を折り、頭を下げた。深い礼だった。
「お待ちください。そんな」
翼は手を出しかけて、出す先がないので下ろした。
姫が顔を上げた。
「先ほど、私は翼姫に生きる術を教えていただきました。その感謝をと」
「……いき、なんですか」
「生きる術です」
声は、幕の内で聞いたときと同じ調子だった。
「私はずっと、侍の女とは、夫となる者に従い、その命に服することが正しい生き方だと思っていました」
「ですから、私にとって次郎様の言葉は絶対でした。髪を下ろせと言われたら、どんな理由であれそれに従うべきだと――」
翼は口を閉じた。
「でもあなたはあの時、言ってくれました。それはおかしいと。それで、初めて知ったのです」
「そういう生き方があるということを」
「い、いやぁ。そこまで、もの凄い想いがあって言ったわけではないですよ。ただ、ちょっとおかしいなと思ったことを口にしただけです」
「そうなのですか」
「はい。そうです。私はしゃべることが大好きなのです。思ったことを何でも言うんです。これは、私のもやもや解消法で意外と効果があるんですよ」
「そうだ、伊波姫様もやってみて下さい。思ったことをなんでも口にするのです」
「なんでもですか?」
「はい。例えば、伊波姫様のその真っ黒な瞳は美しくて吸い込まれそう。一体どうしてそんなに綺麗で澄んだ瞳なのですか」
「え……ええと……翼姫様」
「ほら。どうですか。楽しそうでしょ」
「……ぷっ。くくくく」
唐突に翼の顔をみて笑い出す伊波姫。
初めて見た笑顔は、思っていたよりも屈託のない普通の少女のものだった。
「わかりました……わ、私も試してみます」
「はい。是非」
「………あの、思ったことを早速口に出しても」
「なんでしょうか?」
「あの……私と、お友達になってくれませんか」
伊波姫は耳まで顔を赤くしながら、翼に告げた。
翼は満面の笑みを浮かべて答える。
「もちろんです――」
名残惜しそうにしながらも伊波姫はもう一度礼をして、寺のほうへ戻っていった。
翼と伯父たち一行は、ようやく鑁阿寺の山門を抜ける。
市の通りからは、朝売られていたたくさんの花はほとんどなくなっていた。
代わりに夜祭りのための酒や食べ物が売られている。どうやら祭りはまだ終わらなさそうだ。
市を抜け、町から出ると、ようやく渡良瀬川の渡し場の河原が見えてくる。
その河原に、男が二人いた。
一人は僧形、もう一人は侍の格好だ。
僧形の男は侍と二、三言、言葉を交わし足利へ向かって立ち去っていく。
先ほど証人に立っていた僧だ。名前は確か随風だったか。
翼たちの馬が河原につく頃には侍が一人で翼たちを迎えた。
「成田の若君」
伯父が声をかけると、成田左馬助は手を挙げた。
「先ほどぶりですね」
翼は笑顔よりも、ふくれ面が前にでてきてしまう。
「あの僧は、誰とも縁がないと言っていませんでしたか」
「違いますね。佐野、長尾、足利の町の者とは縁がないと言っただけ。成田と縁がないとは言っていません」
「ものは言いようですね」
「彼とは旧知の仲で、今回の布の出所を先に調べてもらうように頼んでいたのですよ」
成田左馬助は宴席と同じような笑顔を浮かべた。
「つまり、偶然ではなく、そもそも彼らを見張っていたのですか」
「まあそうなりますね」
「それでは私はあなた方に踊らされていたのですね」
「そんなことはないですよ」
左馬助は言った。
「あなたの最初の行いがなければあの場を変えることは出来なかった。あの場で最も価値ある働きをしたのは、あなただ」
「そっ」
何かを言おうとして口をつぐむ。
「そんなの、わかっています」
さっき伊波姫にも感謝されたことだ。大したつもりはなかったけど価値があると思ってるなら思わせておこう。
「あとですね。今朝の伊波姫が差し出した手のことも、私は気づいていました」
言ってしまってから、子供のような言い方だと思った。
でもあの場で先を越されたことが、ずっと引っかかっていたのだ。
左馬助は頷いた。
「存じております。私が手を挙げたとき、姫殿は膝を立てておられました」
翼は耳のあたりが熱くなった。
「次は、私より先に仰ってください」
それは励ましのつもりで言ったらしかった。
舟が着いた。左馬助は留めていた馬の口を取った。
「いずれまた」
それだけ言って、南へ下っていった。渡良瀬を渡らず、利根川のほうへ抜ける道である。
翼は、その後ろ姿を見ていた。
「むかつくやつ」
「姫様」
「何でもありません」
舟に乗った。馬を先に乗せて、翼と伯父はあとになった。
水の上は風が冷たかった。翼は袖に手を入れた。
指に、まだ甘茶の匂いが残っている気がした。
春を祝う祭り。
春の嵐が過ぎ。
足利の町も野も、空さえも一面真っ白な花びらの世界。




