誣告
「藤兵衛殿。初衣殿」
瑞璵が扇を膝に置いた。
「二つの件が片付きました。どちらも伊波姫には非はない」
「残るは、伊波姫が初衣殿の着物に毒針を仕込まれたという訴えでございます」
「ここまでの経緯を御覧になったうえで、この訴えを続けられるかどうか。いま一度、お二人でお考えいただきたい」
藤兵衛は顔を上げなかった。膝の上の手が、袖を掴んだままだった。
先ほど大きな罪を認めたばかりである。簡単には気持ちは切り替えられないのだろう。
初衣の方は、すぐに切り替えられたのか、少し笑みを浮かべながら声をあげた。
「もちろん、続けます。だって本当に、針が仕込まれていたんです。わたしは指を刺して、それで――」
「初衣殿、お待ち下さい」
瑞璵が、その先を遮った。
「わたしがなぜ、いまさら同じことを問い直したのか。お二人は、お分かりになりますか」
藤兵衛と初衣が瑞璵を見た。どちらも分からない顔だった。
「では、先に申しておきましょう。これから先の話にもなります」
瑞璵は幕の外の方へと扇の先を向けた。そちらには寺の山門が見えている。
「四百年の昔、この町に、偽りの訴えを起こした女がおりました」
「その訴えによって、領主の奥方は身に覚えのない汚名を負われ、自ら命を絶たれました。この寺をお開きになった義兼公の、奥方でございます」
「のちに訴えが偽りであったと知られた義兼公は、その女に誣告の罪を与えられました」
「誣告」
翼が小さく繰り返すと、伯父が答えた。
「無い罪を、人に負わせた咎です」
「この町の古来の法に則れば、誣告の罪は、あの山門の前で二頭の牛につながれ、左右へ引き裂かれることになっております」
「これを牛裂きの刑と申します」
その場の空気が止まった。場が静まり返る。誰かが子供の口を押さえた。
藤兵衛の顔から血の気が引く。
「と、取り下げます。訴えを、すぐに取り下げさせていただきます。訴えなど、ございませんでした。何も、ございませんでした」
地面に額を擦り付けて暴れる藤兵衛とは対照的に初衣はじっとその場でこらえている。
両手を地面についている。
顔は上げず、自分の手の前の土をじっと見ている。
指の先が土に食い込み、体がガクガクと震えていた。
怖いはずだ。あんな話を聞かされたのだから。
けれど初衣はまだ、この状況を否定しようとするかのように恐怖と戦っているようだ。
「……わたし、こんな話……していない」
「何と申された」
「……こんな話、書いていない。うまくいくはずだったんです。ちゃんと、そうなるはずだったんです。なのに、どうして」
呟きはやがて、止まった。
それきり、誰も何も言わなかった。
幕の外の人垣も動かない。池のほうで水の音がした。
真っ白な花びらが敷物の端に落ち、翼の視界に入る。
ああそういえば、今日は花を祝う祭りだった。
と翼がそう思ったとき、初衣の息を吸う音が聞こえた。大きく吸って、吐いた。
そして――
「すべて……私の嘘です」
土に向かって言った。
「毒針は、仕込まれていませんでした……」
これで終わりだ。
翼は確信する。
おそらくこの場にいた全員がそう思っただろう。
もう、伊波姫への訴えはすべてなくなった。
「……決まりですな」
瑞璵も大きくうなずく。
「伊波姫への今日の訴えはすべてなくなりました。そのかわりに」
「布屋の藤兵衛と娘初衣への咎が生まれました。ですが――」
「二人の咎を決めるのは寺ではありません。ここは長尾殿の御領です」
「誣告の咎を裁くのは城でございましょう。但馬守殿の御留守のあいだ、城の裁可を預かっておられるのは」
「――伊波姫様ですな」
瑞璵の問いかけに、伊波姫は真っすぐに前を向いた。
「この二人を、どうされますか」
姫は膝の前の敷物の縁に指を当て、少し押して、離した。
それから顔を上げて、翼のほうを見た。
一度だけである。目は合ったが、姫の表情は動かなかった。笑いもせず、頷きもしない。それから正面へ戻った。
翼には、なぜ自分をみたのか全く分からなかった。
「誣告があったと、この場で確と見ました」
声は低いが、はっきりしていた。
「ですが、義兼公のように牛裂きには致しません」
「今日は卯月八日。春の寿には似合わない催しです。結局、二人は最後にちゃんと罪を認めました」
「それに牛を引かせても、忍のお蔵の布はよくなりません」
翼は姫の横顔を見た。
「藤兵衛の店と蔵の物を、すべて出させます」
決めてあったことを言うように、続けた。
「まず成田殿へ。取りすぎた分に充てます。残ったものは寺へ納めます」
「そして二人は、父の預かる地から出します。足利の内へは、二度と入れません」
「所払いということですかな」
瑞璵の問いに姫が頷く。
「はい。そうです」
「我が家の手勢で、すぐにあの二人をこの場から引き立ててください」
言われて、伊波姫の後ろに控えていた数人の男たちが慌てて前へ飛び出してきた。
「姫様、有難う存じます」
藤兵衛がそう礼をするが伊波姫は一瞥もしない。
すぐに長尾の兵が二人を立たせた。
藤兵衛は自分で歩いたが、初衣は腕を取られたまま、幕の外へ出る手前で足を止め、振り返った。
「本当は、違うんです。わたしは、玄蕃様の、戸田玄蕃様の、足利のお陣屋の下働きにすぎません。本が好きで、それで」
兵が腕を引いた。初衣は引かれながら、まだ話していた。
「ここは、ただこんな話があればと、私が書いた話の中なんです」
何を言っているのか、翼には分からなかった。
「気が触れたか」
伯父が小さく呟いたが、翼にはあの娘の言葉が少しだけ、心の奥に残った。
「さて」
瑞璵は伊波姫の方を向く。
「伊波姫。佐野殿は、この座で許嫁の約束を破棄すると申されました。ですが破棄に至る瑕疵の訴えは崩れました。破棄する理由は、もう残っておりません。いかが致しますか」
「――佐野殿との許嫁の約束は、破棄のままとします」
院主の一人があわてて顔を上げた。
「な、なぜですか。佐野と約するは足利の利になります」
「あの方は、この座で破棄すると言われました。当人の口から出た言葉です。ここにおられる方は皆、聞いております」
姫は膝の上の手を、少し組み直した。
「わたしもそれに納得いたしました。双方の意が同じであったということです。わざわざ復縁する必要はありません」
「もっとも、どちらか一方が戻したいといえば、改めて話すことになりますが――」
姫が幕の切れ目のほうを見ると、その視線を全員が追った。
「当人が居なければどうにもならないでしょう」
そこにいたはずの佐野次郎の姿はなく、幕が大きく開かれ、その先には陽の光のなかで花びらだけが待っている。
逃げたのだ。
この場にいた誰もがそれを悟った。
「は、はははは。これは面白い」
瑞璵が、その場の静寂を断ち切るように笑った。
「これはそう、つまるところ――」
翼と伊波姫の二人を、順に扇で指した。
「二人の姫の総勝ちじゃ」
◆誣告 事実無根の罪を人に着せることです。中世の法観念でも重く戒められました。
◆足利義兼 平安末期〜鎌倉初期の足利氏当主です。鑁阿寺の開基と伝えられ、出家して義兼入道とも称されます。
◆牛裂き 牛二頭に左右へ引かせて人を裂く刑罰の伝承です。足利では義兼にまつわる誣告譚とともに語られます。
◆山門 寺院の正門です。刑罰や高札の場になることもありました。




