第6話 誰もいない部屋②
午前中、何度も入力を間違えた。
昼前には、教育係の女性が隣の席の人に小声で何かを言っているのが聞こえた。
「ちょっと厳しいわ。さすがの私もーー」
ため息混じりのその言葉が、胸に突き刺さる。
昼休み、未琴は会社の外へ出た。
コンビニで買ったサンドイッチを袋に入れたまま、近くの公園のベンチに座る。
食欲はなかった。
スマートフォンを取り出し、管理会社の番号を検索した。
苦情を言わなければならない。
もう限界だ。
けれど、電話で説明できる気がしなかった。
隣室から毎晩拍手が聞こえます。
録音したら拍手は入っていません。
録音には何か声が入っていました。
朝起きたら、部屋が楽屋のようになっていました。
そんなことを言えば、こちらがおかしいと思われる。
未琴はスマートフォンを握ったまま、じっとその画面を見つめていた。
その日、定時になるとすぐ会社を出て、アパートを管理している不動産会社へ寄った。
ガラス扉の向こうに、物件情報の紙が何枚も貼られている。
あの部屋は、通りがかったこの貼り紙の中から見つけたものだ。
カウンターには、内見のときに対応してくれた男性とは別の、四十代くらいの女性が座っていた。
「すみません。宵鳴アパートの二〇六号室に入居した相沢なんですが.......」
「ああ、はい。どうされました?」
女性はにこやかに腰を上げた。
「隣の部屋のことで、少し」
「ちょっとお待ちくださいねー」と言いながら、女性はパソコンのキーボードを叩く。
「お隣というと......二〇七号室ですか?」
「はい。夜中に音がするんです。拍手みたいな音が。毎晩、すごく遅い時間に」
口に出した瞬間、自分でも奇妙な話だと思った。
女性の笑顔が、ほんの少し固まった。
「拍手、ですか」
「はい。ここ数日は、かなり音が大きくて」
「テレビとかではなく?」
「たぶん。で、お隣は、郵便受けが塞がれてて、苦情の手紙を入れることもできなくて」
女性は手元のパソコンに目を落とした。
何かを確認しているようだった。
未琴は胸の前で鞄を抱えた。
「あの、隣の方に注意していただけますか? 私も仕事が始まったばかりで、眠れないのは困るので」
女性は、すぐには答えなかった。
パソコンの画面を見つめたまま、唇を一度引き結ぶ。
それから、ゆっくり未琴を見た。
「相沢さん」
「はい」
「二〇七号室は、ずっと空室です」
未琴は言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
「……空室?」
「はい。かれこれ、もう五年ほど入居者はいません」
「......でも、音が」
「配管の音や、建物の軋みが響くことはあると思います。なにぶん、築年数がありますので」
「違います。拍手なんです」
声が、思ったより強く出た。
店内にいた別の社員が、ちらりとこちらを見る。
未琴は、慌てて声を落とした。
「毎晩、隣から大きな拍手が聞こえてきてーー」
女性は困ったように眉を下げた。
そして、しばらく考え込むような表情をしたあと、うっすらと笑みを浮かべてこちらを向いた。
「そうですか。わかりました。明日、アパートの方に伺って確認をしてみます」
「本当ですか?」
二〇七号室が空室と聞いて、もしかしたら放っておかれるかもしれない、と思っていたが、少しホッとした。
「もちろんです。当店は、入居者さまの生活ファーストですから。隣の部屋を確認したあと、お写真を撮ってお部屋の方へお届けします。周囲で音の原因になりそうなことが無いか、確認もしますね」
「ありがとうございます!」
礼を言うと、不動産会社を後にした。
店を出るとき、入口付近にいた営業マンらしき人が、女性と目くばせをするのが見えたが、ひとまず、対応をしてくれることに安心した。
アパートへ戻ると、二階の廊下は薄暗く、古びた共用灯がちかちかと瞬いている。
二〇六号室の前に立つ。
鍵を出そうとして、未琴は隣を見た。
隣の二〇七号室の扉。
ビニールテープで塞がれた郵便受けの向こうに何があるのか。
古びたテープの端が、廊下を通る風に少しだけ震えていた。
未琴は鍵を握りしめた。
そのとき。
隣のドアの向こうで、人の気配を感じたような気がした。
慌てて自分の部屋の鍵を回し、転がりこむように中へと入って、膝をついた。
こつ。
外の廊下を誰かが歩くような音。
そっと立ち上がり除き窓から外を見る。
そこに映るのは、丸く歪んだ通路とガラスに付着した黒ずんだ汚れだけだった。
小さく、ゆっくりと息を吐く。
少し、神経質になりすぎているのかもと思う。
重い体を引きずって台所へ行き、水を飲む。
とりあえず、明日になれば不動産屋が見に来てくれる。
長く入居者がいない古い部屋は、よからぬ不法入居もあるかもしれない。
それはそれで怖いが、関わらなければ大丈夫だろう。
その夜も、いつものように午前二時十七分に拍手が始まった。
ぱちぱちぱちぱち
美琴は布団を反対側の押し入れ寄りに移し、もぐって耳をふさいだ。
それでも拍手はやまない。
壁を叩きたいところだが、不法で部屋にいる相手を考えると、恐ろしくて。
ただただ丸くなる以外にできることは無かった。
翌日。仕事を終えると帰宅を急いだ。
不動産屋の確認がどうだったか。
朝から気になって、いつも以上に仕事ははかどらなかった。
外はまだ夕焼けの名残が残る。
郵便受けの中の茶封筒を手に取ると、封を開きながら部屋の中へと進んだ。
『お問い合わせの件について』
無機質な文字がつらつらと並べられている。
『二〇七号室を確認いたしましたが、特に違法な侵入があったとは考えられない状況でした。念のため、部屋の写真を同封いたしますので、ご確認ください』
数枚の写真には、この部屋を内見で見た時とよく似た部屋が写っている。
部屋の中には、無機質なビニール張りの床と古いタイプのカーテンレールのついた窓があるだけ。
写真を持つ手が震える。
『二〇七号室は、設備の関係上、長らく入居募集を停止いたしております。今後も募集の予定はございません』
「そんな......だって......」
小さく声が漏れる。
ーー確かに拍手が聞こえるのに
『周辺で騒音の原因となるものを調査いたしましたが、建物内には該当するものは見当たりませんでした。考えられますことは、深夜の周辺道路からの反響音ではないかと思われます』
ーー違う。確かに拍手で、確かに人の声だった
『環境音に関する苦情につきましては、当社においても責任を負いかねますことを、なにとぞご理解ください』
手から薄っぺらいA4用紙が床へと落ちる。
握った手にある写真の部屋は、何事もないように明るく日中の光が差していた。
二〇七号室には誰もいない。
では、あの拍手は何なのか。
誰が、毎晩、壁の向こうで手を叩いているのか。
荷物を持って、ネットカフェでもビジネスホテルでも、とにかく出ていくべきだ。
真っ暗な部屋でへたり込んで、そう思ったりもした。
しかし、貯えの乏しい自分が何日そんな生活ができるものか、策も浮かばず気力もわかない。
美琴は、暗くなっていく部屋の中で、ただぼんやりと座り込むだけだった。
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