第5話 誰もいない部屋①
その夜、未琴は、まんじりともせず起きていた。
このままではどうかしてしまう。
管理会社に、隣室の件を相談しよう。そう思い立った。
苦情を入れるためには、証拠がいる。
隣の郵便受けは塞がれていて、深夜の騒音を控えて欲しい、という手紙も入れられない。
直接ドアを叩いてお願いすると言っても、どのような人が出てくるかわからないから、恐ろしい。
今朝も『隣人トラブルで駐車場で故意にひき逃げか』などと言う、物騒なニュースを見たばかりだった。
直接会わずに穏便に済ますには、管理会社を通すしかない。
まずは、深夜の騒音を録音しなくては。
未琴は、スマートフォンの録音アプリを起動し、隣室との壁に近い床へ置いた。
時刻は午前二時。
部屋の電気は消さなかった。
壁際に膝を抱えて座り、時計を見つめる。
二時十分。
冷蔵庫の音が一瞬止まった。
それだけで、部屋の空気が急に薄くなったように感じる。
二時十二分。
こつ。
床を踏む音がした。
未琴はスマートフォンに目を落とす。
録音を開始する。
ぎい。
椅子を引く音。
すう。
誰かが息を吸う音。
ばくばくと心臓が体を揺らし、未琴の背筋に冷たいものが這い上がった。
二時十七分。
拍手が起こった。
ぱちぱちぱちぱちぱちぱち。
それはもう、一人や三人の音ではなかった。
小さな劇場の客席が、壁の向こうに詰め込まれているような音だった。
未琴は思わず両耳を塞いだ。
それでも聞こえる。
手のひらで耳を押さえても、拍手は消えない。
まるでそれは自分の頭の中から発せられているようだ。
笑い声も混じっていた。
咳払いのような音も聞こえた。
誰かが椅子に座り直す、ぎし、という軋みも。
「うるさい……」
未琴は小さく呟いた。
「うるさい、うるさい、うるさい……」
壁の向こうから一番聞きたくない音が聞こえる。
壁を叩きたい。
怒鳴りたい。
いますぐ隣へ行って、何をしているのか確かめたい。
でも、身体が動かなかった。
拍手は三分ほど続き やがて、唐突に止まった。
音が消えたあとの部屋は、異様なほど静かだった。
冷蔵庫も、配管も、上階の床鳴りも、何も聞こえない。
まるで、世界から隔絶されて、たった一人この部屋でスポットライトを浴びているような。
そんな感覚。
はっと我に返ると、かなりぼんやりしていたようだ。
震える手でスマートフォンを取り、録音を停止する。
すぐに再生した。
最初に入っていたのは、自分自身の呼吸音だった。
次に、冷蔵庫の唸り。
布団が擦れる音。
小さく「うるさい」と呟く声。
だが、拍手は入っていなかった。
「……なんで」
未琴は音量を最大にして、もう一度再生した。
やはり拍手は聞こえない。
あんなに大きく鳴っていたのに。
壁の向こうから、確かに聞こえていたのに。
「どうして.......」
録音の中には、拍手だけが存在していなかった。
何度も繰り返し再生しているうち、雑音の奥の小さな声に気付いた。
音量を最大にしても微かにしか聞こえない。
自分の呼吸音の奥。
最初は気づかなかったのに。
でも、聞けば聞くほど、誰か女性の声のようだ。
スマートフォンを耳に押し当てた。
ざらざらとしたノイズの中に、確かに低い声が混じっている。
男とも女ともつかない声。
台詞を読むような、抑揚のある声。
『……彼女は……』
未琴は息を止めた。
『……まだ……知らない……』
そこで声はノイズに埋もれた。
何度も巻き戻し、聞き直す。
聞き取れる言葉はひどく少ない。
『……幕は……』
『……客席……』
『……彼女は……』
拍手は入っていない。
なのに、さっきは聞こえなかった声が、録音されている。
未琴はスマートフォンを投げるようにベッドの上へ置いた。
もう眠れなかった。
だからと言ってこの部屋を出て、泊めてもらえる部屋があるわけでもない。
明日も仕事だ。
こんな時に相談する相手もいない。
煌々と電気をつけたまま、ぺしゃんこの布団の上にうずくまって、膝に顔をうずめた。
こんな恐ろしい部屋で眠れない、そう思っていたのに。
いつの間にか意識が落ちていたらしい。
カーテンの向こうの薄明りに、目を覚ました。
座り込んだまま寝たせいで、体が痛いし、頭は冴えない。
ぼんやりとした意識で部屋を見回した時、未琴は違和感を覚えた。
こんな、部屋......だったっけ。
はじめは、寝不足のせいで記憶が曖昧なのかと思った。
膜が張ったように、自分の思考がグニャグニャしている。
しかし、確かに違う。
ダイニングテーブルの椅子の位置が妙だ。
一脚しかないはずの椅子が、テーブルから引き出され、自分のほうを向いて置かれている。
まるで、そこに誰かが座ってこちらを眺めていたように。
未琴はゆっくりと立ち上がった。
クローゼットの前には、黒いパンプスが揃えて置かれていた。
昨夜、玄関に脱ぎ捨てたはずのものだ。
鏡の前には、化粧品が並んでいた。
下地。
ファンデーション。
口紅。
アイライナー。
劇団にいたころ、本番前の楽屋でそうしていたように、使う順番にきちんと並べられている。
「ひっ」
未琴は喉を鳴らした。
自分がやったのだろうか、なんだかよくわからない。
寝ぼけて。
夢遊病のように。
ありえない、とは言い切れなかった。
ここ数日、ほとんど眠れていない。
だから、昼も夜もぼんやりと自分の意識が、ふわふわしている。
未琴は鏡の中の自分を見た。
青白い顔。
乾いた唇。
目の下の濃い隈。
鏡の奥。
その背後に、椅子が一脚、こちらを向いているのが映る。
未琴は慌てて振り返った。
もちろん、誰も座っていない。
食欲も出ず、かといって部屋にずっといるのも怖い。
その日は、会社へ行くだけで精一杯だった。
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