第3話 増える拍手①
新しい職場は、思っていたより静かだった。
朝、始業の二十分前に会社へ着いた。
駅前の雑居ビルの四階。エレベーターを降りると、白い壁と観葉植物と、社名の入った銀色のプレートが目に入る。
小さな建材メーカーの営業所。
最初は電話応対と伝票整理、営業社員の資料作成補助が主な仕事だと面接で聞いていた。
未経験でも大丈夫ですよ、と採用担当の男性は実にほがらかで愛想が良かった。
その様子に、少しだけほっとしたのだった。
けれど、初日の午前中が終わるころには、その「大丈夫」が、こちらを安心させるための言葉でしかなかったことを理解していた。
「相沢さん、これ、こっちのフォルダに入れてって言いましたよね」
「はい、すみません」
「最初だから仕方ないですけど。でも、共有サーバーの場所、さっき説明しましたよね?」
「はい。すみません」
未琴は頭を下げ、マウスを握り直した。
パソコンが使えないわけではない。
けれど、事務職として使い慣れている人たちとは、速度がまるで違った。
どのファイルをどこに保存するのか。
伝票の番号をどの順で打ち込むのか。
電話を取りながら、相手の社名と担当者名を正確に聞き取ってメモを残すこと。
高校を卒業してずっと劇団とバイトにしか時間を費やしていない。
社会経験の無さを痛感する。
「電話、3コール以内で取ってくださいね」
「はい」
「相手が名乗ったら、必ず復唱して」
「はい」
「声はセリフっぽくていいんですけどね」
最後の言葉だけ、注意なのか冗談なのかわからなかった。
未琴は笑おうとして、うまく笑えなかった。
昼休みになると、ほかの女性社員たちは連れ立って休憩室へ向かった。
未琴もついて行くべきか迷ったが、声をかけられなかったので、自席でコンビニのおにぎりを食べた。
隣の席の営業事務の女性が、ちらりと未琴を見た。
「相沢さんって、劇団にいたんですよね」
「はい。少しだけ」
本当は十年以上いた。
少しだけ、というには長すぎる時間だった。
「すごいですね。テレビとか出てたんですか?」
「いえ、そういうのはほとんど」
「舞台ってことですか?」
「はい」
「へえ」
会話はそれで終わった。
その「へえ」の中に、興味がないという意味と、これ以上聞くこともないという意味が、両方入っている気がした。
午後は、午前よりも長かった。
画面の文字を追っていると、眠気が波のように押し寄せてくる。
昨夜、ほとんど眠れなかったせいだ。
ぱち、ぱち、ぱち。
頭の奥に、あの音が残っていた。
キーボードを打つ音。
コピー機が紙を吐き出す音。
誰かがボールペンを机に置く音。
そのすべての間に、あの乾いた拍手が紛れ込む。
「相沢さん?」
呼ばれて顔を上げると、教育係の女性が未琴の画面を見ていた。
「ここ、数字ずれてます」
「あ……すみません」
「確認してから保存してくださいね。あとで直すほうが大変なので」
「はい」
未琴はもう一度頭を下げた。
謝ってばかりいる。
稽古場でも、似たようなことはあった。
台詞を間違て謝る。
立ち位置を間違えて謝る。
出番のタイミングを逃して謝る。
けれど、稽古場で謝るときには、まだ次があると思えた。
もう一度やればいい。
次はもっと上手くやれる。
この職場では、何をどうやり直せばいいのかわからない。
終業時刻になっても、未琴の処理は終わらなかった。
教育係の女性が、溜息をつきながら未琴の横に立つ。
「今日はもういいです。残り、こっちでやりますから」
「すみません。明日はもう少し早くできるようにします」
「お願いします。うち、そんなに余裕あるわけじゃないので」
その言い方に悪意はなかった。
だからこそ、余計に堪えた。
帰り際、未琴は給湯室の前を通った。
ドアが少しだけ開いていた。
中から、女性たちの声が聞こえた。
「顔で採用するの、ホントやめて欲しいよね」
足が止まった。
「今どきキーボードの打ち方知らないとかありえないでしょ」
「元劇団所属の二十九歳とか。笑える。夢追いすぎて、逃しちゃったみたいな?」
「どうにもならなくなって、結婚相手とか探しに来てんでしょ?」
「でも、ああいう人ってプライド高そう。私、普通の会社員とは違います、みたいな」
「わかる。声だけ妙に通るし」
弾けるような笑い声に、未琴は息を殺した。
昔なら、聞こえないふりをして笑えたかもしれない。
劇団では、陰口くらいいくらでもあった。
若い子が入れば比べられた。
役がつけば妬まれ、役がつかなければ蔑まれた。
それでも舞台に上がれるならそれで良かった。
何を裏で言われても、本番の拍手が貰えるなら。
いまは違う。
自分には、もう何もなかった。
会社を出ると、外は夕方になっていた。
駅前の歩道は、帰宅する人たちで混み合っている。
誰もがどこかへ帰っていく顔をしていた。
未琴も帰る場所はある。
けれど、帰りたい場所ではなかった。
二〇六号室へ戻ると、部屋は朝出たときのままだった。
脱ぎ捨てた部屋着。
開けていない段ボール。
流しに置いたままのマグカップ。
未琴は鞄を床に置き、しばらく玄関に立っていた。
隣の二〇七号室からは、何も聞こえない。
昨夜の音は、風が外の「入居者募集」のプレートを揺らす音だったのだろう。
そう思いたかった。
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