表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【夏のホラー2026 音】カーテンコール  作者: けもこ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
2/9

第2話 隣室の騒音②

初めての恋人だった。


俊也。


彼と出会ったのは、裏方で走り回っていた劇場。

出会った時の彼は、劇場のアルバイトをする大学生だった。

優しくて、真面目で、いつも舞台を見に来てくれた。

客席のいちばん後ろから、端役の自分に盛大に拍手をしてくれる人。


付き合い始めて五年。結婚しよう、と言われた。

それが三年まえ。


一緒に地方の実家に来てほしい、

劇団をやめて、一緒に家業をやってくれないか、と。


その時は答えられなかった。


家族中が反対するなか、乏しい年金をこっそり送って応援してくれる祖母の顔が浮かんだ。


ここまでやって来たのに。

まだ、何もできていないのに。


そう思うと、舞台を捨てることができなかった。

でも、彼のことを嫌いになったわけでもなかった。


何度も話し合って、何度も泣いて、最後は彼の背中を見送った。


いつか、演劇の世界で名を売ることができれば、きっとこの日の決断も良い思い出になるとそう信じて。


だから、若い団員が少しずつ諦めて劇団を辞めていく中で、自分だけは最後まで残ってやろう、とそう思っていた。


今年の初め、祖母が亡くなるまでは。


最期には「実家に帰って来なさい」という説教になる母の電話。

だから、母からの着信は気づかないふりをすることも多かった。


その日は公演間近の大事な稽古が入っていて、スマートフォンは鞄の奥にしまったまま。

朝から鳴りっぱなしなのは気づいていたが、あえて見なかった。

だから、メッセージを見て折り返したときには、もう遅かったのだ。


ずっと応援してくれていた祖母の死に目に、会えなかった。


それを知ったとき、胸の中で何かが静かに切れた。


大切な物を全部無くして、自分が何を得たかったのかわからなくなった。


劇団をやめ。

アルバイトを整理し。

都心から離れた町で、事務職に就いた。


明日から、その仕事が始まる。


そのために、未琴はこの二〇六号室へ引っ越してきた。


部屋の隅には、まだ開けていない段ボール箱が三つ。

ひとつには服。

ひとつには食器や調理器具。

もうひとつには、捨てられなかった台本と舞台写真が入っている。


本当は、全部処分するつもりだった。

でもできなかった。


祖母が買ってくれた舞台用の服も、まだ箱の中にある。

暗い部屋の隅でそれらの段ボールがうっすらと見えた。


ぱち、ぱち、ぱち。


拍手はまだ続いていた。


未琴は布団の中で、ゆっくりと身体を起こした。


壁の向こうに向かって耳を澄ます。


拍手の前に、音がした。


こつ。


床を踏むような音。


ぎい。


古い椅子を引くような音。


それから、すう、と息を吸う音。


誰かがそこに立っている。


そんな気配がした。


そしてまた、拍手。


ぱち、ぱち、ぱち。


「……うるさい」


未琴は小さく言った。


明日から新しい仕事が始まるのだ。

ちゃんと眠らなければならない。

ちゃんと起きなければならない。

ちゃんと社会人の顔をして、職場に行かなければならない。


未琴は布団をはねのけ、壁の前に立った。


薄い壁紙の向こうで、拍手は淡々と続いている。


怒鳴る勇気はなかった。

まだ初日だ。

隣人ともめるのは避けたい。


だから、指の関節で壁を軽く叩いた。


とん、とん。


拍手が止まった。


未琴は息を吐いた。


やはり隣の住人だったのだ。気づいてくれたのなら、それでいい。


そう思って布団へ戻ろうとしたとき。


ぱち。


壁の向こうで、ひとつだけ手が鳴った。


未琴の背中が強張る。


ぱち、ぱち、ぱち。


さっきよりも、ほんの少し近い。


拍手がまた始まった。


「やめてよ……」


未琴はもう一度壁を叩こうと手を上げた。


そのとき、拍手の合間に、かすかな音が混じった。


笑い声?


ただ、息が漏れたような、喉の奥で何かをこらえたような音。


未琴は手を下ろした。


それ以上、壁に触れる気になれなかった。


布団に戻り、頭から毛布をかぶる。

拍手は布越しにも聞こえた。


ぱち、ぱち、ぱち。


規則正しくはない。

けれど止まらない。


未琴は耳を塞いだ。

それでも音は消えなかった。


いつ眠ったのかは覚えていない。


朝、アラームの音で目を覚ましたとき、喉がひどく乾いていた。


カーテンの隙間から、白っぽい朝の光が差し込んでいる。

冷蔵庫は変わらず唸っていた。

上階から、誰かが階段を下りる音が聞こえた。


夜中の拍手が夢だったのか現実だったのか、すぐには判断できなかった。


未琴は重い身体を起こし、顔を洗った。

鏡の中の自分は、予想よりずっと疲れて見えた。


二十九歳。


舞台では若い役を演じるには遅く、母親役をするほどには貫禄が無い、と言われたことがある。

現実でも、似たようなものだった。

何かを始めるには遅く、何かを諦めるには早い。


そんな中途半端な年齢。


未琴は薄くファンデーションを伸ばし、髪をひとつにまとめた。

買ったばかりのブラウスに袖を通す。

劇団時代には着なかった服だ。


玄関を出る前に、ふと隣のドアを見た。


二〇七


銀色のプレートに、黒い数字が貼られている。


昨夜、あれほど拍手が聞こえた部屋。


だが、ドアの前に生活の気配はなかった。

表札もない。


ドアについた郵便受けには、茶色く変色したビニールテープが何重にも貼られていた。

隙間を完全に塞ぐように、上から下までぴったりと。


チラシも、郵便物も、何ひとつ入れられないように。


未琴は思わず足を止めた。


古いテープだった。

最近貼られたものではない。

端がめくれ、埃がついている。


未琴は隣室のドアから目を離せなかった。


そのとき、マンションの廊下の奥から風が吹いた。


非常階段のドアが、どこかで小さく軋む。


ぎい。


昨夜聞いた、椅子を引く音に似ていた。


未琴は鞄を握り直し、逃げるように廊下を歩き出した。


初出勤の日だ。

遅れるわけにはいかない。


考えすぎだ。

疲れているだけだ。

引っ越しの夜に、眠りが浅かっただけだ。


そう自分に言い聞かせながら、未琴は階段を下りた。


背後で、音がした。


ぱち。


たった一度だけ。


ハッとして振り向くと、通路の手すりについた『入居者募集』のプレートが風でこすれて、あたる音だった。


――もしかしたら昨日の音もコレだったのかも


自分がひどく神経質になっているのを自覚して、小さく息を吐いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ