第2話 隣室の騒音②
初めての恋人だった。
俊也。
彼と出会ったのは、裏方で走り回っていた劇場。
出会った時の彼は、劇場のアルバイトをする大学生だった。
優しくて、真面目で、いつも舞台を見に来てくれた。
客席のいちばん後ろから、端役の自分に盛大に拍手をしてくれる人。
付き合い始めて五年。結婚しよう、と言われた。
それが三年まえ。
一緒に地方の実家に来てほしい、
劇団をやめて、一緒に家業をやってくれないか、と。
その時は答えられなかった。
家族中が反対するなか、乏しい年金をこっそり送って応援してくれる祖母の顔が浮かんだ。
ここまでやって来たのに。
まだ、何もできていないのに。
そう思うと、舞台を捨てることができなかった。
でも、彼のことを嫌いになったわけでもなかった。
何度も話し合って、何度も泣いて、最後は彼の背中を見送った。
いつか、演劇の世界で名を売ることができれば、きっとこの日の決断も良い思い出になるとそう信じて。
だから、若い団員が少しずつ諦めて劇団を辞めていく中で、自分だけは最後まで残ってやろう、とそう思っていた。
今年の初め、祖母が亡くなるまでは。
最期には「実家に帰って来なさい」という説教になる母の電話。
だから、母からの着信は気づかないふりをすることも多かった。
その日は公演間近の大事な稽古が入っていて、スマートフォンは鞄の奥にしまったまま。
朝から鳴りっぱなしなのは気づいていたが、あえて見なかった。
だから、メッセージを見て折り返したときには、もう遅かったのだ。
ずっと応援してくれていた祖母の死に目に、会えなかった。
それを知ったとき、胸の中で何かが静かに切れた。
大切な物を全部無くして、自分が何を得たかったのかわからなくなった。
劇団をやめ。
アルバイトを整理し。
都心から離れた町で、事務職に就いた。
明日から、その仕事が始まる。
そのために、未琴はこの二〇六号室へ引っ越してきた。
部屋の隅には、まだ開けていない段ボール箱が三つ。
ひとつには服。
ひとつには食器や調理器具。
もうひとつには、捨てられなかった台本と舞台写真が入っている。
本当は、全部処分するつもりだった。
でもできなかった。
祖母が買ってくれた舞台用の服も、まだ箱の中にある。
暗い部屋の隅でそれらの段ボールがうっすらと見えた。
ぱち、ぱち、ぱち。
拍手はまだ続いていた。
未琴は布団の中で、ゆっくりと身体を起こした。
壁の向こうに向かって耳を澄ます。
拍手の前に、音がした。
こつ。
床を踏むような音。
ぎい。
古い椅子を引くような音。
それから、すう、と息を吸う音。
誰かがそこに立っている。
そんな気配がした。
そしてまた、拍手。
ぱち、ぱち、ぱち。
「……うるさい」
未琴は小さく言った。
明日から新しい仕事が始まるのだ。
ちゃんと眠らなければならない。
ちゃんと起きなければならない。
ちゃんと社会人の顔をして、職場に行かなければならない。
未琴は布団をはねのけ、壁の前に立った。
薄い壁紙の向こうで、拍手は淡々と続いている。
怒鳴る勇気はなかった。
まだ初日だ。
隣人ともめるのは避けたい。
だから、指の関節で壁を軽く叩いた。
とん、とん。
拍手が止まった。
未琴は息を吐いた。
やはり隣の住人だったのだ。気づいてくれたのなら、それでいい。
そう思って布団へ戻ろうとしたとき。
ぱち。
壁の向こうで、ひとつだけ手が鳴った。
未琴の背中が強張る。
ぱち、ぱち、ぱち。
さっきよりも、ほんの少し近い。
拍手がまた始まった。
「やめてよ……」
未琴はもう一度壁を叩こうと手を上げた。
そのとき、拍手の合間に、かすかな音が混じった。
笑い声?
ただ、息が漏れたような、喉の奥で何かをこらえたような音。
未琴は手を下ろした。
それ以上、壁に触れる気になれなかった。
布団に戻り、頭から毛布をかぶる。
拍手は布越しにも聞こえた。
ぱち、ぱち、ぱち。
規則正しくはない。
けれど止まらない。
未琴は耳を塞いだ。
それでも音は消えなかった。
いつ眠ったのかは覚えていない。
朝、アラームの音で目を覚ましたとき、喉がひどく乾いていた。
カーテンの隙間から、白っぽい朝の光が差し込んでいる。
冷蔵庫は変わらず唸っていた。
上階から、誰かが階段を下りる音が聞こえた。
夜中の拍手が夢だったのか現実だったのか、すぐには判断できなかった。
未琴は重い身体を起こし、顔を洗った。
鏡の中の自分は、予想よりずっと疲れて見えた。
二十九歳。
舞台では若い役を演じるには遅く、母親役をするほどには貫禄が無い、と言われたことがある。
現実でも、似たようなものだった。
何かを始めるには遅く、何かを諦めるには早い。
そんな中途半端な年齢。
未琴は薄くファンデーションを伸ばし、髪をひとつにまとめた。
買ったばかりのブラウスに袖を通す。
劇団時代には着なかった服だ。
玄関を出る前に、ふと隣のドアを見た。
二〇七
銀色のプレートに、黒い数字が貼られている。
昨夜、あれほど拍手が聞こえた部屋。
だが、ドアの前に生活の気配はなかった。
表札もない。
ドアについた郵便受けには、茶色く変色したビニールテープが何重にも貼られていた。
隙間を完全に塞ぐように、上から下までぴったりと。
チラシも、郵便物も、何ひとつ入れられないように。
未琴は思わず足を止めた。
古いテープだった。
最近貼られたものではない。
端がめくれ、埃がついている。
未琴は隣室のドアから目を離せなかった。
そのとき、マンションの廊下の奥から風が吹いた。
非常階段のドアが、どこかで小さく軋む。
ぎい。
昨夜聞いた、椅子を引く音に似ていた。
未琴は鞄を握り直し、逃げるように廊下を歩き出した。
初出勤の日だ。
遅れるわけにはいかない。
考えすぎだ。
疲れているだけだ。
引っ越しの夜に、眠りが浅かっただけだ。
そう自分に言い聞かせながら、未琴は階段を下りた。
背後で、音がした。
ぱち。
たった一度だけ。
ハッとして振り向くと、通路の手すりについた『入居者募集』のプレートが風でこすれて、あたる音だった。
――もしかしたら昨日の音もコレだったのかも
自分がひどく神経質になっているのを自覚して、小さく息を吐いた。




