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【夏のホラー2026 音】カーテンコール  作者: けもこ


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第1話 隣室の騒音①

ぱち、ぱち、ぱち。


乾いた音で、相沢未琴(あいざわみこと)は目を覚ました。


最初は、それが何の音なのかわからなかった。


古い冷蔵庫の唸り。

壁の内側を水が流れるような配管の音。

上の階で、誰かが寝返りを打ったような床鳴り。


この部屋では、夜になるといろいろな音がした。


都心から離れた、駅徒歩五分の古いアパート。

駅から近いのにひどく家賃が安いのは、それなりの築年数だから。

当然、隣室との壁も薄い。

しかし、いまの未琴にとって、安いことが何よりも重要だった。


だから、夜中に少しくらい物音がしても仕方がない。


ぱち、ぱち、ぱち。


また聞こえる。


しばらくして気づいた。それは、拍手だった。


未琴は布団の中で目を開けたまま、ぼんやりとその音を聞く。


枕元に置いたスマートフォンを手探りで取る。画面の明かりが、暗い部屋に小さく浮かんだ。


午前二時十七分。


「……何」


声に出したつもりだったが、喉が乾いていて、ほとんど息にしかならなかった。


拍手は、隣の部屋から聞こえてくる。


二〇七号室。


未琴の部屋は二〇六号室で、その隣にある角部屋だ。

引っ越しの挨拶はしていない。

いまどき単身者用のアパートで挨拶回りをするほうが珍しいだろうし、何より、未琴にはそんな気力がなかった。


ぱち、ぱち、ぱち。


拍手はゆっくりだった。


一人だ。


誰かが、隣で、ひとりきりで手を叩いている。


テレビだろうか。

動画だろうか。

何を見て拍手なんてしているのだろうか。


そう考えた瞬間、未琴の胸の奥が、嫌な形で縮んだ。


拍手は嫌いだった。


いや、嫌いになったのだと思う。


昔はそうじゃなかった。


◇◇◇


子どものころ、町内の祭りで小さな舞台に立ったことがある。

浴衣を着せられ、練習した台詞をたどたどしく言っただけだった。

演目の名前も、どんな役だったのかも、もうはっきりとは覚えていない。


けれど、終わったあとに聞こえた拍手だけは覚えている。


夕方の茜色の空。

吊るされた提灯。

焼きそばの匂い。

舞台の下の観客が笑って拍手をしながら「上手だね」と言ってくれた。


そして、嬉しそうな祖母の顔。


祖母は両手が痛いと言いながら、いちばん大きく手を叩いてくれた。


「あんたは舞台映えする子やね」


その一言が、未琴の人生を随分長く支えていた。


祖母に勧められて子ども劇団に入った。

中学も高校も、演劇部が有名な私立を選んだ。

主役をもらうことも多かった。

舞台袖で照明の熱を頬に感じながら、自分の出番を待つ時間が好きだった。


幕が下りたあとの拍手を浴びるたびに、自分にはこの道しかないと思った。


東京の劇団のオーディションに受かったとき、自分の人生には輝かしい未来が待っていると信じていた。


けれど、実際に始まったのは、長い待機の時間だった。


劇団員といっても、ほとんどは練習生。

スクール費用を払い、レッスンを受け、時折公演に端役として出る。

名前のある役や台詞の多い役には、外から呼ばれた有名な俳優が入った。


稽古場の鏡の前で何度も何度も台詞を繰り返した。

アルバイトを掛け持ちして、家賃と月謝を払った。

地方公演は、東京にいるより良い役がもらえる貴重な機会だった。

しかし、受ければアルバイトを長く休まなければならない。

戻ったときに同じシフトがある保証はない。


それでも、いつかはと思っていた。


いつかは。


いつかは、自分にもライトが当たる。


その「いつか」を待っているうちに、未琴は二十九歳になっていた。


恋人とも別れた。


三年前のことだ。

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