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【夏のホラー2026 音】カーテンコール  作者: けもこ


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15/16

第15話 最終公演②

未琴は部屋を見回し、この部屋はこんなふうだっただろうか、とぼんやり考えた。


壁紙は黒い暗幕のように柔らかく揺れていて、畳の縁は舞台と客席を分ける線のようにまっすぐ伸びている。


蛍光灯は消えているのに、天井の中央から丸い光が落ちていた。


そう、まるでスポットライトのようだ。


ダイニングの椅子は一脚だけではなかった。


壁紙の向こうに、暗がりがあって、いくつもの椅子が並んでいる気配がある。


そして、そこには誰かが座っている。顔は見えない。

でも、確かに誰かがいるのは、空気の重さでわかった。


観客。


咳払い。

衣擦れ。

椅子が軋む音。

小さな話し声。

パンフレットに触れるかさりという音。


そして、期待に満ちた視線。


未琴は、足を止めた。


部屋の中央に、俊也が立っていた。

いつも未琴を迎えるときと同じ、優しい笑みを浮かべている。


「お疲れさま。今日は……いや、今日も大変だったね」

「俊也……」

「でも、もう大丈夫。ここなら、誰も未琴を傷つけない」


俊也の後ろには、祖母が座っていた。


町内の祭りの日と同じように、目尻を下げて未琴を見ている。


「未琴は舞台映えする子やね」


その声を聞いた瞬間、未琴の目に涙がにじんだ。


「おばあちゃん」

「よう頑張ったねぇ」


祖母に抱きしめられながら、胸がいっぱいになっていた。


そうだ、自分はずっと自分を演じてきた。

でも、それは本当になりたい自分ではなかった。


もっとなりたい自分をきちんと演じられるはずだ。


向こうにいる観客が、未琴を見ている。


次のシーンを、次の台詞を待つように、静かに展開を見守っている。


未琴は、自分の足元に一冊の台本が落ちていることに気づいた。


黒い表紙に白い文字。


『相沢未琴・最終公演』


未琴は台本を拾い、ページを開いた。


一幕目。


町内の祭り。

小さな舞台。

浴衣を着た幼い未琴。

客席で誰より大きく拍手する祖母。


二幕目。


東京の劇団。

稽古場の鏡。

端役の衣装。

スポットライトの端で、必死に笑う未琴。


三幕目。


劇場のロビー。

俊也が立っている。

一緒に来てほしい、と言う声。

答えられずに黙り込む未琴。


四幕目。


実家からの着信。

鞄の奥で鳴り続ける携帯。

見ないふりをする未琴。

間に合わなかった祖母の最期。


未琴は息を飲んだ。


どの場面も、知っている。


何度も。何度も、何度も、繰り返し思い出した過去。

あの時、こうしていれば、と後悔した過去。


台本はそこで終わっていなかった。


五幕目。


俊也についていく未琴。

地方の小さな家。

穏やかな食卓。

祖母にひ孫を抱かせて笑う未琴。


六幕目。


劇団で大きな役をもらう未琴。

満員の客席。

鳴りやまない拍手。

花束を抱えて泣く未琴。


七幕目。


新入社員として歓迎される未琴。

上司が認める働きぶり。

同僚と一緒にランチを楽しむ未琴。

週末は友人と好きな舞台を観に行く。


全部、欲しかった場面だった。


手に入らなかった未来。

選べなかった人生。

言えなかった言葉。


それらが、台本の中で綺麗に並んでいた。


「やり直せるよ」


俊也が言った。


「ここなら、何度でも」


祖母が頷く。


「未琴ならできるよ。おばあちゃん、ずっと見てるからね」


舞台袖には、過去に一緒に練習をした劇団の仲間。

古川も、課長も、女子社員たちもいる。


誰もが、未琴のために用意された役を演じようと、待っている。


未琴は台本を握りしめた。


「これは……何?」


声が掠れた。


俊也が一歩近づく。


「最終公演だよ」


「最終……」


「未琴がいちばん輝く場面。未琴が、未琴の人生を取り戻すための舞台」


そのとき、携帯が震えた。


未琴は、びくりと肩を跳ねさせた。


光る画面にメッセージが浮いた。


俊也。


『さっきのメッセージ、急にごめん。迷惑だったら返信いらないから。ただ、心配だっただけだし』


未琴は画面を見つめた。


三年前に別れた俊也。

未琴が選ばなかった俊也。


目の前にいる俊也が、静かに笑った。


「見なくていいよ」

「でも……」

「あれは幕の外の音だ。この舞台には必要ない」


客席がざわめく。


――いい場面なのに。

――戻らないで。

――ここからが見せ場でしょう。

――主演女優は、最後まで舞台に立たなくちゃ。


靄のかかったような思考で、ざわつく声が反響している。


その時、手にしていた台本が滑り落ち、その拍子にページが、勝手にめくれた。


最後のページ。


そこには、短い一文だけが書かれていた。


『本公演は、主演を固定し、配役を変更して繰り返し上演される』


未琴はその文字を見つめた。


意味がわからないはずなのに、ひどく胸が温かくなった。


そうか。望んだ結末をいくらでも作ることができるのだ。

女優として認められる自分も。

幸せな家庭を持つ自分も。

社会で認められ仲間に囲まれる自分も。


この舞台から降りなければ、いくらでも。


この舞台に立つために、自分の今までがあったような気さえしてきた。


そのとき、部屋の奥から、ぱち、と音がした。


続いて、ぱち、ぱち。


拍手が少しずつ増えていく。


未琴は手もとの携帯の画面を見た。


返信欄が開いている。


そこには、まだ何も打たれていない。


俊也が、未琴の手にそっと触れた。


「未琴。君はここでなら、ずっと主役なんだよ」


祖母が微笑む。


「未琴は、いちばん輝いてる子だからね」


未琴の(まなじり)から涙が落ちた。


それがなんの涙なのか。

喜びなのか、幸せなのか、それとも恐怖なのか、自分でもわからなかった。


手の中の画面が、ふっと暗くなる。


同時に、部屋のスポットライトが強くなった。


未琴はバッグに携帯を入れて畳の上に置く。


そして台本を胸に抱き、再び観客の方を向いた。


開かれた幕の向こうで、観客が息を呑む気配がした。


俊也が手を差し出す。


未琴は一歩、光の中心へ足を踏み出した。


拍手が、部屋いっぱいに満ちていく。


ぱちぱちぱちぱち。

ぱちぱちぱちぱち。


鳴りやまない拍手の中で、未琴は微笑んだ。


「本日は、ご来場ありがとうございます」


その声は、驚くほどよく通った。


客席から、溢れるように歓声が沸き、心を満たしていった。

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