第15話 最終公演②
未琴は部屋を見回し、この部屋はこんなふうだっただろうか、とぼんやり考えた。
壁紙は黒い暗幕のように柔らかく揺れていて、畳の縁は舞台と客席を分ける線のようにまっすぐ伸びている。
蛍光灯は消えているのに、天井の中央から丸い光が落ちていた。
そう、まるでスポットライトのようだ。
ダイニングの椅子は一脚だけではなかった。
壁紙の向こうに、暗がりがあって、いくつもの椅子が並んでいる気配がある。
そして、そこには誰かが座っている。顔は見えない。
でも、確かに誰かがいるのは、空気の重さでわかった。
観客。
咳払い。
衣擦れ。
椅子が軋む音。
小さな話し声。
パンフレットに触れるかさりという音。
そして、期待に満ちた視線。
未琴は、足を止めた。
部屋の中央に、俊也が立っていた。
いつも未琴を迎えるときと同じ、優しい笑みを浮かべている。
「お疲れさま。今日は……いや、今日も大変だったね」
「俊也……」
「でも、もう大丈夫。ここなら、誰も未琴を傷つけない」
俊也の後ろには、祖母が座っていた。
町内の祭りの日と同じように、目尻を下げて未琴を見ている。
「未琴は舞台映えする子やね」
その声を聞いた瞬間、未琴の目に涙がにじんだ。
「おばあちゃん」
「よう頑張ったねぇ」
祖母に抱きしめられながら、胸がいっぱいになっていた。
そうだ、自分はずっと自分を演じてきた。
でも、それは本当になりたい自分ではなかった。
もっとなりたい自分をきちんと演じられるはずだ。
向こうにいる観客が、未琴を見ている。
次のシーンを、次の台詞を待つように、静かに展開を見守っている。
未琴は、自分の足元に一冊の台本が落ちていることに気づいた。
黒い表紙に白い文字。
『相沢未琴・最終公演』
未琴は台本を拾い、ページを開いた。
一幕目。
町内の祭り。
小さな舞台。
浴衣を着た幼い未琴。
客席で誰より大きく拍手する祖母。
二幕目。
東京の劇団。
稽古場の鏡。
端役の衣装。
スポットライトの端で、必死に笑う未琴。
三幕目。
劇場のロビー。
俊也が立っている。
一緒に来てほしい、と言う声。
答えられずに黙り込む未琴。
四幕目。
実家からの着信。
鞄の奥で鳴り続ける携帯。
見ないふりをする未琴。
間に合わなかった祖母の最期。
未琴は息を飲んだ。
どの場面も、知っている。
何度も。何度も、何度も、繰り返し思い出した過去。
あの時、こうしていれば、と後悔した過去。
台本はそこで終わっていなかった。
五幕目。
俊也についていく未琴。
地方の小さな家。
穏やかな食卓。
祖母にひ孫を抱かせて笑う未琴。
六幕目。
劇団で大きな役をもらう未琴。
満員の客席。
鳴りやまない拍手。
花束を抱えて泣く未琴。
七幕目。
新入社員として歓迎される未琴。
上司が認める働きぶり。
同僚と一緒にランチを楽しむ未琴。
週末は友人と好きな舞台を観に行く。
全部、欲しかった場面だった。
手に入らなかった未来。
選べなかった人生。
言えなかった言葉。
それらが、台本の中で綺麗に並んでいた。
「やり直せるよ」
俊也が言った。
「ここなら、何度でも」
祖母が頷く。
「未琴ならできるよ。おばあちゃん、ずっと見てるからね」
舞台袖には、過去に一緒に練習をした劇団の仲間。
古川も、課長も、女子社員たちもいる。
誰もが、未琴のために用意された役を演じようと、待っている。
未琴は台本を握りしめた。
「これは……何?」
声が掠れた。
俊也が一歩近づく。
「最終公演だよ」
「最終……」
「未琴がいちばん輝く場面。未琴が、未琴の人生を取り戻すための舞台」
そのとき、携帯が震えた。
未琴は、びくりと肩を跳ねさせた。
光る画面にメッセージが浮いた。
俊也。
『さっきのメッセージ、急にごめん。迷惑だったら返信いらないから。ただ、心配だっただけだし』
未琴は画面を見つめた。
三年前に別れた俊也。
未琴が選ばなかった俊也。
目の前にいる俊也が、静かに笑った。
「見なくていいよ」
「でも……」
「あれは幕の外の音だ。この舞台には必要ない」
客席がざわめく。
――いい場面なのに。
――戻らないで。
――ここからが見せ場でしょう。
――主演女優は、最後まで舞台に立たなくちゃ。
靄のかかったような思考で、ざわつく声が反響している。
その時、手にしていた台本が滑り落ち、その拍子にページが、勝手にめくれた。
最後のページ。
そこには、短い一文だけが書かれていた。
『本公演は、主演を固定し、配役を変更して繰り返し上演される』
未琴はその文字を見つめた。
意味がわからないはずなのに、ひどく胸が温かくなった。
そうか。望んだ結末をいくらでも作ることができるのだ。
女優として認められる自分も。
幸せな家庭を持つ自分も。
社会で認められ仲間に囲まれる自分も。
この舞台から降りなければ、いくらでも。
この舞台に立つために、自分の今までがあったような気さえしてきた。
そのとき、部屋の奥から、ぱち、と音がした。
続いて、ぱち、ぱち。
拍手が少しずつ増えていく。
未琴は手もとの携帯の画面を見た。
返信欄が開いている。
そこには、まだ何も打たれていない。
俊也が、未琴の手にそっと触れた。
「未琴。君はここでなら、ずっと主役なんだよ」
祖母が微笑む。
「未琴は、いちばん輝いてる子だからね」
未琴の眦から涙が落ちた。
それがなんの涙なのか。
喜びなのか、幸せなのか、それとも恐怖なのか、自分でもわからなかった。
手の中の画面が、ふっと暗くなる。
同時に、部屋のスポットライトが強くなった。
未琴はバッグに携帯を入れて畳の上に置く。
そして台本を胸に抱き、再び観客の方を向いた。
開かれた幕の向こうで、観客が息を呑む気配がした。
俊也が手を差し出す。
未琴は一歩、光の中心へ足を踏み出した。
拍手が、部屋いっぱいに満ちていく。
ぱちぱちぱちぱち。
ぱちぱちぱちぱち。
鳴りやまない拍手の中で、未琴は微笑んだ。
「本日は、ご来場ありがとうございます」
その声は、驚くほどよく通った。
客席から、溢れるように歓声が沸き、心を満たしていった。
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