第14話 最終公演①
会社からは、今日の午後から週明けまで休みを取るように言われた。
課長は「念のため」と繰り返し、古川は最後まで心配そうに未琴を見ていた。
「相沢さん、一人で帰れる?」
「大丈夫です」
未琴は明るく答えた。
大丈夫。
その言葉を、今日だけで何度口にしただろう。
大丈夫です。
少し疲れているだけです。
週明けからはちゃんと仕事します。
ご迷惑をおかけしてすみません。
どれも、自分の口から出た言葉なのに、自分のものではないように聞こえた。
会社を出ると、昼下がりの陽射しが眩しかった。
駅へ向かう人の流れ。
信号の電子音。
自転車のブレーキ。
遠くで子どもが笑う声。
世界には、たくさんの音が転がっている。
けれど、そのどれもが、薄い膜の向こう側から聞こえているようだった。
バス停のベンチで陽射しを避けながら、カバンの中の携帯を探る。
俊也からのメッセージは、まだ画面の中に残っていた。
『久しぶり』
『変な話だけど、昨日、君の夢を見て。すごく気になって。元気にしている?』
未琴は、じっとそのメッセージを見つめていた。
返信をどうすればいいか。
元気にしてるよ。
俊也は?
どんな夢を見たの?
けれど、文字を打つ前に指が止まる。
もし、返信したら、何かが決定的に壊れてしまう気がした。
俊也は、部屋にいるのに。
毎晩、未琴を迎えてくれる俊也。
優しく笑って、未琴のすべてを肯定してくれる俊也。
あれは……あの俊也は……
バス停を離れ、再びゆっくりとした足取りで、返信を打てないままの携帯を握って歩き出す。
アパートへ帰り着くころには、日は少し傾きかけていた。
古い階段を上る。
触れた手すりが、ひんやりと自分の意識を冷やしているように感じた。
二階の廊下は、昼間なのに薄暗い。
共用灯は消えているはずなのに、足元だけがぼんやりと白く浮かんで見える。
二〇六号室。自分の部屋の前に立つ。
隣の二〇七号室の郵便受けは、古いビニールテープで塞がれたままだ。
未琴は、鍵を出そうとして、ふと手を止める。
聞こえた気がした。
こつ。
床を踏む音。
ぎい。
椅子を引く音。
すう、と息を吸う音。
「……まだ、開演には早い時間だよ」
未琴は小さく呟いた。
その瞬間、二〇七号室の内側から、小さく笑う声が聞こえたような気がした。
未琴は息を呑んだ。
しかし、怖いとは思わなかった。
むしろ、自分の舞台を待つ人がいる喜びが、ふわりと胸に湧く。
舞台袖で出番を待っているときの感覚。
暗幕の向こうで客席がざわめき、照明係が合図を送り、誰かが「次、出番」と囁く。
あの瞬間の緊張。
あの瞬間の高揚。
鍵穴に鍵を差し込み、回す。
扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。
昼間のはずなのに。
「ただいま」
未琴が言うと、奥から俊也の声がした。
「おかえり、未琴」
その声を聞いた瞬間、胸の奥に明かりが灯ったような気がした。
未琴は靴を脱ぎ、部屋に上がった。
扉が背後で静かに閉まる。
その音が、ひどく遠くに聞こえた。
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