第13話 台本のない朝②
「お仕事が変わって、負担を感じる方はたくさんおられます」
促されたまま再び席についた。
「家で、ちゃんと眠れていますか? 食事は?」
「食べています」
そう答えたが、昨日何を食べたのか思い出せなかった。
俊也がいた。
祖母がいた。
何か楽しい話をして、たくさん笑った。
食卓に、何が並んでいたかしら
未琴は、思い出そうとした。
霞がかかったように記憶がぼんやりしている。
「お一人暮らしだとなかなか日々のストレスを解消できませんから。つらい時はだれかに吐き出すといいですよ。ご家族でも、友人でも……」
「一人じゃありません」
「誰かとご一緒なんですか?」
「俊也が……彼が……」
言ってから、未琴は息を止めた。
俊也。
毎晩、家で迎えてくれる人。
優しく足を揉んでくれる人。
頬にキスをしてくれる人。
未琴をいつでも褒めてくれる人。
でも、俊也とは、三年前に別れた......
彼は、実家の家業を継ぐために、地方へ帰ったはずだ。
未琴は、膝の上で手にした名刺を携帯に重ねて握りこんだ。
なぜ、いま同じ部屋にいるのだっけ。
どうして、昨日までそれを不思議だと思わなかったのだろう。
そのとき、手の中の携帯が震えた。
会議室の静けさの中で、短い通知音が鳴る。
未琴は反射的に画面に目を落とした。
――俊也
指先が冷たく感じる。
未琴は震える指でメッセージを開いた。
『久しぶり』
その文字をじっと見つめているうちに、再びメッセージが浮いてくる。
『変な話だけど、昨日、君の夢を見て。すごく気になって。元気にしている?』
その一文を、何度も読み返した。
>変な話だけど。
>君の夢を見て。
>元気にしている?
おかしい。
だって俊也は、昨日も部屋にいたのに。
帰って来た未琴の肩から、バッグを下ろしてくれた。
祖母が来ていると教えてくれた。
笑って、未琴の頬にキスをした。
なのに、どうして今さら「元気にしている?」などと送ってくるのか。
未琴は、震える指でメッセージ履歴を遡った。
その前のやり取りは、三年前で止まっていた。
『ごめん。やっぱり私は、まだ劇団をやめられない』
『そっか。わかった』
その下に、今日のメッセージがぽつんと浮かんでいる。
未琴は画面を見つめたまま、息ができなくなった。
これは、何?
じゃあ、部屋にいる俊也は?
「相沢さん」
葛城の声が遠く聞こえた。
未琴は、顔を上げた。
会議室の壁が、歪んで暗くなり、白いはずの壁が、重たい幕のように波打っている。
ぱち
どこかで、手が鳴った。
未琴は、肩を震わせた。
ぱち、ぱち
続けて、拍手が増える。
「相沢さん、どうかされましたか?」
葛城が心配そうな表情を浮かべてこちらを見つめている。
拍手が消え、ざわざわとした囁き声が聞こえる。
未琴は、耳を塞いだ。
「やめて……」
「相沢さん」
「違う。違うの。俊也は、家にいるの。昨日もいたの。おばあちゃんも来てくれて、私、ちゃんとありがとうって言えて、それで……」
言いながら、自分の声が崩れていくのがわかった。
頭の中に響く喧騒が大きくなっていく。
ざわざわ、ひそひそ
見えない客席が、会議室の壁の向こうに広がっていく。
その中に、低い声が混じった。
――幕間が長すぎます。
未琴は息を呑んだ。
目の前で、不審そうな表情のままこちらを見つめている葛城の後ろに、薄暗い壁が深く奥へ広がるように見えた。
「拍手が......」
その顔を見た時、葛城には聞こえていないのが表情でわかった。
聞こえているのは、自分だけ。
未琴は、携帯を握りしめた。
画面には、俊也からのメッセージが表示されたままだ。
返信欄の中で、カーソルだけが点滅している。
未琴は返信を打とうとした。
けれど、指は動かなかった。
代わりに、口元が勝手に持ち上がった。
笑ってしまう。観客を安心させるように。
未琴は顔を上げて、葛城を見て笑みを浮かべた。
「大丈夫です」
自分の声が、ひどく明るく響いた。
「少し、疲れているだけだと思います」
その瞬間、拍手がわっと沸き起こった。
まるで、場面を盛り上げる素晴らしい台詞が、観客に届いた時のように。
葛城が、何かを言っている。
けれど、未琴にはもうその声は聞こえなかった。
聞こえてくるのは、歓声と拍手だけだった。
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