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【夏のホラー2026 音】カーテンコール  作者: けもこ


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12/14

第12話 台本のない朝①

その朝、目を覚ましたとき、部屋の中は妙に静かだった。


冷蔵庫の唸りも、配管を流れる水の音も、上の階の足音も聞こえない。

まるで、誰かが音だけを全部抜き取ってしまったみたいだった。


「……俊也?」


布団の中から呼びかける。


返事はない。


未琴は、ゆっくりと起き上がった。


祖母が座っていたダイニングの椅子は、いつもの場所にあった。


昨夜は、笑い声と拍手に包まれて、何もかもがうまくいっていた部屋。


今は、ただの古いワンルームにしか見えない。

畳は少し黄ばみ、カーテンの裾には埃が溜まり、流しには、昨日洗ったはずのカップが伏せてある。


あたり前の日常の風景のはずなのに、なぜかそれに現実味を感じない。


くるりと部屋を見回しても、なんだか頭の中はもやがかかっているようだ。


鏡台の前には化粧品が綺麗に並んでいる。


 下地。

 ファンデーション。

 アイライナー。

 チーク。

 リップ。


本番前の楽屋のように、使う順番どおりに。


未琴は、起き出して鏡の前に座った。


今日は何の場面をやるんだったっけ。


そう考えてから、少しだけ笑った。


違う、違う。今日は普通に仕事だ。

そう、職場で働く場面……


ふっと薄い笑いが口元に浮かぶ。


最近の自分は、何もかもを舞台にたとえている気がする。


でも、そのほうがうまくいく。


仕事も、人間関係も、自分の見せ方も。


うまく演じれば、主人公らしくいい毎日が訪れる。


多少、トラブルがあったって、結局、ドラマチックで素晴らしいクライマックスがあるはず。

主人公らしく、胸を張っていればいい。


未琴は丁寧に化粧をした。


アイラインを細く引き、眉を整え、唇にオレンジベースのリップを塗る。


鏡の中の女は、昨日よりも少し痩せて見えた。


未琴は笑ってみせた。


その笑みに、どこからか小さく拍手が聞こえた。


その拍手に、未琴は立ち上がり、ほんの少し左足を引いて右手を胸にあてお辞儀をした。


会社に着いて、いつものように「おはようございます」と声をかけると、何人かがちらりと未琴を見る。


その視線が、以前のような嘲りではないことはわかる。


未琴はそれを、観客の緊張だと思うことにした。


幕が上がる前の客席は、いつだって静かなものだ。


「相沢さん、おはよう。これ、昨日の受注データね。午前中に確認お願い」


席に着くと、古川が書類を持ってきた。


「はい。すぐ確認します」


未琴は微笑んで受け取った。


古川はすぐに離れず、未琴の顔を見ていた。


「……眠れてる?」

「え?」

「顔色が、あまりよくないから」

「大丈夫です。むしろ、最近寝すぎているくらいです」


そう答えると、古川の眉間にわずかに皺が寄った。


その表情を見て、未琴はふと思った。


この人は、どういう役まわりなのだろう。


 厳しい先輩。

 主人公を支える理解者。

 それとも、幸せな結末の前に立ちはだかる邪魔者だろうか。


古川さんは、悪い人ではないから、それはないか。


どこかで別の声がする。


――脇役は、主人公のために場を作るもの


未琴は、慌てて瞬きをした。


「相沢さん?」

「あ、すみません。ちょっとぼんやりして」

「本当に大丈夫?」

「はい」


未琴はもう一度笑いを返した。


そのとき、ぱちぱちぱち、と小さな拍手が聞こえた。


反射的に、未琴は古川の向こうへと視線をやった。


――どこが観客席?


 コピー機の横。

 誰もいない空間。


そこに向かって、未琴は軽く会釈をした。


「……相沢さん?」


古川の声が、今度は明らかに硬かった。

未琴は、古川の表情に視線を戻した。


「あ、つい」


拍手はもう聞こえない。


「まだ、演技の途中だったのに……つい」

「何? どういうこと?」

「あ、ついつい拍手に反応してしまって」


古川は声を発しなかった。


周りの社員たちが、仕事をしているふりをしながらこちらを見ている。


未琴は急に、自分が舞台の中央に立たされていることを意識した。


見られている。


自分のふるまいの全てが、このストーリーの行く末を決めると思うと、良い緊張感で背筋が伸びる。


午前中、未琴はいつも以上に丁寧に仕事をした。


電話も正確に取り次いだ。


営業から頼まれた資料も、以前よりずっと短い時間で仕上げた。


仕上げた仕事に礼を言われるたびに、耳元で拍手が鳴る。


思わず、口元を緩め、深くお辞儀をしてしまう。


そんな未琴の様子に、周囲は違和感を感じていた。


けれど、未琴には、その注目すら自分への賛辞のように思えていた。


昼すぎ、古川に会議室へ呼ばれた。


四人掛けのテーブルには古川の他に、課長ともう一人見慣れない女性が座っていた。


蛍光灯の白い光が、やけに冷たく感じる。


何が起こるのだろうか。


よく場面を理解しなくては。アドリブは流れに乗らないと浮いてしまう。


「相沢さん」


古川は向かいの席を未琴に進めると、すぐに切り出した。


「実は、相沢さんに健康相談......健康診断を受けていただこうと言う話になって」

「え?」


こんな時期に?

まだ、試験採用なのに?


「仕事もとてもがんばっているし、本採用に向けて健康診断をと思って」


しかし、試験採用期間は三か月。

まだ、期限までは一ヶ月以上あるはずだが……


優秀だと、そういうこともあるのだろうか。これも主人公だからこそ。


「こちらはね、うちの会社に定期的に訪問してくださっているカウンセラーさんなの」


端に座っていた女性が立ち上がって、こちらへ名刺を差し出す。


「企業内メンタルヘルスカウンセラーをしている葛城です」


“(株)OfficeMind 臨床心理士 心理カウンセラー 葛城美和(かつらぎみわ)


「あ、私、名刺はまだ持っておりません。相沢未琴と申します」


微かに覚えていた名刺交換のマナーを絞り出して、たどたどしく挨拶をした。


「相沢さんが、少し頑張り過ぎているんじゃないかって。課内のみんなが心配しててね」


課長が名刺を手に立っている未琴に、そう声をかけた。


「……心配」

「独り言が結構多いしね。時々、ぼんやりしてるし。疲れているのかなって。誰もいない場所に向かって笑ったり、会釈したりしてるでしょ?」


なんとも言えない表情を浮かべて、課長がそう話を続ける。


未琴は笑おうとした。

けれど、うまく笑えなかった。


「私、どこか変ですか」

「変とかそうじゃなくて。ただ、心配なのよ」


課長の足りない言葉を補うように、古川が慌てたように言う。


「もしよければ、このままここでお話を伺いますよ」


人の良さそうな笑みを顔に浮かべて、葛城が課長と古川に、後は任せるように言って退室を促す。


名刺を持って立ち尽くす。

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