第11話 二〇七号室の人②
駅前まで戻ったところで、ふいに名前を呼ばれた。
「あれ、古川さん?」
振り返ると、不動産屋の事務員が立っていた。
篠原という女性だ。
古川と同年代で、会社の斡旋物件のことで何度かやり取りをするうちに、仕事の話から少しずつ雑談をするようになり、今では気が向けば食事に行く程度の仲になっていた。
「こんなところで何してるの?」
「ちょっと近くまで。篠原さんこそ」
「私は仕事帰り。不動産屋は土日が通授出勤だからね。もう最悪」
篠原は肩をすくめて笑った。
その気安さに、古川も少しだけ気が緩んだ。
「久しぶりに飲みに行かない? まだ夕方にはちょっと早いけど」
「いいわね。昼飲みってやつね」
二人は駅前の居酒屋に入った。
まだ客は少なく、店内には揚げ物の匂いと、テレビの小さな音だけがあった。
ビールで乾杯し、しばらくは仕事の愚痴を言い合った。
忙しいだの、人が足りないだの、若い社員が続かないだの、どこの会社も似たようなものだと笑った。
その流れで、古川は相沢のことを口にした。
「うちに最近入った相沢さん、そちらで部屋を紹介してもらったでしょう」
「ああ、宵鳴アパートの二〇六号室の人?」
「そう。その子、ちょっと心配で」
篠原の箸が、唐揚げの上で止まった。
「心配って?」
「体調が悪そうなのに、本人はすごく元気だって言うのよ。さっき、少し様子を見に行ったんだけど、彼氏みたいな人と話していたから、声はかけずに帰ってきた」
「彼氏?」
篠原が怪訝な顔をした。
「部屋の中に誰かいたみたいだったわ。楽しそうに話してた」
「……ふうん。勝手に同棲は困るけど……」
篠原はビールを一口飲んだ。
その表情に、古川は引っかかりを覚えた。
「何?」
「いや、先日ね、その相沢さんって子が店に来たのよ」
「何かあったの?」
「隣室から騒音がするって。夜中に拍手が聞こえるって言うの」
拍手
古川はその言葉を、頭の中で繰り返した。
「拍手?」
「そう。隣の二〇七号室から毎晩聞こえるって。まあ、隣の部屋っていろいろあって、ずっと空室だってわかってたんだけど、一応、お客様が納得するように部屋は見に行ったのよ」
「ずっと空室なの?」
「ずっとね。配管がどうとかって説明してるけど、本当は募集止めてるだけ」
古川は眉をひそめた。
「どうして? 何かワケありなの?」
篠原は少し迷うようにグラスを置いた。
「五年くらい前かな。二〇七に入ってた人が、ずっと見られてるって苦情を言いに来たの」
「見られてる?」
「部屋のどこかにカメラか盗聴器があるんじゃないかって。業者も呼んで、変な機械が仕込まれてないか調べたのよ。何も出てこなかったんだけど」
「それで?」
「そのあと、その人、部屋中の電源タップを全部引き抜いて、コードも切っちゃったの。まあ、それがわかったのは、その人がいなくなってからなんだけど」
古川は、箸を持つ手を止めた。
「いなくなったって?」
「家賃滞納が続いてね。連絡も取れなくなって、部屋を見に行ったら、荷物は全部あるのに本人だけいなかったの」
「行方不明ってこと?」
「そうね。滞納分は家族が払ってくれたけど。ちょっとおかしかったんだと思う。勝手に撮られるのは困る、とか散々言って、ちょっと怖かったの覚えてるし」
篠原は声を落とした。
「なんか、有名な劇団にいた人らしいよ。まあ、いたってだけで、有名な女優ってわけじゃなかったみたいだけど」
「女優だったの?」
思わず声が大きくなった。
篠原が驚いたように瞬きをする。
「そんなに驚くこと?」
「うちの相沢さんも、元劇団員なの」
「へえ……そうなの?」
なぜ、彼女がそんなに驚くのか、よくわかっていない篠原と、妙な符号に何かを感じる古川の温度差で、短い沈黙が落ちた。
店内のテレビから、観客の笑い声が聞こえた。
古川はそれに、なぜか背筋が冷えるのを感じた。
「その二〇七の人、名前は?」
「ええと……資料見ないと正確には。でも、名前を聞いても知らないレベルの人よ。なんたって、あんなアパートに住むくらいだもんね」
篠原は冗談めかして笑った。
けれど古川は笑えなかった。
相沢未琴。
元劇団員。
二〇六号室。
隣の二〇七号室。
夜中の拍手。
誰もいないはずの部屋からの騒音。
妙な偶然。
古川の脳裏に、さっき見た相沢の姿が浮かんだ。
開いた窓。
物干しにかけられる白いシャツ。
誰かに向けた、あまりにも幸福そうな笑顔。
――もう、俊也ったら。何?
あの部屋には、誰がいたのだろうか。
古川はグラスの水滴を指で拭った。
「篠原さん」
「何?」
「二〇七号室に居た人は、その後見つかったかどうか、わかる?」
篠原の顔から、笑みが消えた。
「うーん。さすがに、そんな個人的なことを追いかけて調べたりはしてないわ」
「少しだけでも情報があるといいの。滞納分を払ったっていうご家族に聞くわけにはいかない?」
「だめよ。そんなの勝手にできないわよ。うちは探偵事務所じゃないし、個人情報を勝手には使えないわよ」
「そうよね。でも……」
古川は口をつぐんだ。
何を説明すればいいのかわからなかった。
相沢が変だと言っても、それだけでは理由にならない。
篠原は困ったようにため息をついた。
「一応、こっそり聞いてみる。でも期待しないで」
「ありがとう」
古川はそう言ったが、礼を言う声は自分でも驚くほど沈んでいた。
その夜、古川は家に帰っても、相沢のことが頭から離れなかった。
携帯を手に取り、何度も連絡先を開いた。
だが、送る言葉が見つからない。
『大丈夫?』
『何か困っていることはない?』
どれも違う気がした。
結局、古川は何も送れないまま画面を閉じた。
そのとき、どこか遠くで音がした。
ぱち。
古川は顔を上げた。
もちろん、部屋には誰もいない。
つけたままだったテレビから、観客の拍手が流れていた。
バラエティ番組の、明るい拍手。
それだけのはずなのに。
古川は、しばらくリモコンに手を伸ばせなかった。
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