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【夏のホラー2026 音】カーテンコール  作者: けもこ


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第10話 二〇七号室の人①

相沢未琴が、変だ。


古川は、週の半ばからずっとそのことが気にかかっていた。


入社したばかりのころの相沢は、正直に言えば、かなり危なっかしかった。


電話の取り次ぎでは相手先の名前を聞き漏らす。共有フォルダの場所を何度も間違える。キーボードを打つ手元も、少しも早くはならない。


けれど、真面目ではあった。


注意されれば必ずメモを取るし、謝る声にも誤魔化しがなかった。


元劇団員だという経歴のせいで、周囲から少し浮いていたのは確かだが、本人がそれを鼻にかけている様子もなかった。


むしろ、ひどく疲れた人だと思った。


それが、ここ数日で急に変わった。


電話応対は見違えるほど滑らかになった。資料の整理も早くなった。ミスも減った。


仕事だけ見れば、良い変化だ。


けれど、古川にはどうにも引っかかっることがあった。


相沢は、笑いすぎる。


誰も褒めていないところで、うっすらと笑う。

誰かに注意されても、その返事はまるで台本に書かれた台詞であるかのようだ。


廊下を歩く姿勢まで変わった。胸を張り、少し顎を上げ、見えない誰かに見られていることを意識しているような歩き方をする。


そして、ひどく痩せた。


もともと細い人だったが、今は頬の線まで鋭くなるほどだ。目だけが妙に輝いていて、その違和感に周囲の社員も彼女に声をかけるのをためらうほどだ。


「無理していない?」


声をかけたとき、相沢は綺麗に笑った。


「大丈夫です。最近、すごく調子が良くて」


その笑顔が、古川には少し怖かった。


課長にもそれとなく相談してみたが、「本人が大丈夫って言うんだから、古川くんが心配しすぎてるだけじゃないか」と面倒ごとは勘弁して、という風に流された。


だから、休日の昼過ぎに、古川は彼女の住むアパートの前に立っていた。


ここは、会社が斡旋した物件だった。


うちは住宅補助が出るわけではないが、地方から出てきた社員や急ぎで住まいを探している社員に、不動産屋を紹介することがある。


相沢の部屋もその流れで決まった。


駅から近く、家賃が安い。古いが、女性の一人暮らしでも通勤には便利。そう説明を受けたはずだ。


実際にその建物を目の前にしてみると、古川は眉をひそめた。


アパートは思っていた以上に古かった。


二階建ての細長い建物で、外壁の一部は雨染みで黒ずんでいる。階段の手すりには薄く錆が浮き、入口の脇にかかった看板も、端のほうが欠けて、頼りない貼り付けがちょっとした振動で揺れている。


来るべきではなかったかもしれない。

そう思った。


会社で聞いた携帯番号に連絡することも考えた。


だが、休日に親しくもない会社の同僚から突然電話が来たら、不愉快に感じるかもしれない。

体調のことを尋ねても、きっと「大丈夫です」と言うだろうし。


偶然、近くまで来て、偶然、会えたら。

とりあえず、生活の様子がわかればいい。


そう思って来たのだが、アパートの前まで来ると、自分の行動が急に変に思えてきた。


部屋まで行ってみようか。

いやいや、それはちょっと怪しすぎる。しばらく待ったら、やはり帰るべきだ。


古川が迷っていると、二階の窓が開いた。


古いサッシの擦れる音が、昼間の空気に乾いて響く。


二階の部屋。

そこから、相沢未琴が顔を出した。


白いブラウスに、柔らかくまとめた髪。休日なのに、きちんと化粧をしている。会社で見るよりもさらに華やかで、少し遠目にも目を引いた。


相沢は、窓の端についた狭い物干しに洗濯物を干し始めた。


元気そうだ。


よくある心理的な病の兆候に、家事ができなくなったら危ないとかいうのがあるではないか。

ちゃんと生活ができているなら大丈夫だろう。


古川は胸を撫で下ろした。

声をかけようと、手を上げかける。


そのときだった。


相沢が、部屋の中を振り返った。


「もう、俊也ったら。何?」


明るい声だった。


古川は、手を下ろした。


相沢は、部屋の中の誰かと話している。


「だって、休日くらいちゃんと干さないと。部屋が散らかってるなんて、女優としてイメージ悪いでしょ?」


そう言って、相沢は楽しそうに笑った。


古川の位置からでは、部屋の奥までは見えない。


彼氏かもしれない。


そう考えて、古川はその場に立ち尽くした。


相沢はもう一度、部屋の中へ向かって微笑んだ。


「はいはい。あとでコーヒー淹れるから」


その表情は、会社では見せないほど柔らかかった。


古川は小さく息を吐いた。


心配しすぎだった。


少なくとも、休日に一人で塞ぎ込んでいるわけではなさそうだ。誰か支えてくれる人がいるなら、自分がこれ以上踏み込む必要はない。


家で待つ人もおらず、休日に親しくもない後輩を気に留めて出かける自分より、彼女の方がよっぽど充実した日々を送っているようだ。


古川は声をかけずに、その場を離れることにした。

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