338. 挑発
ランプの炎が、じめついた切り株の倉庫の中で軽く揺らめき、橙色の陰影を長く落とした。
血走った目で睨みつける老人に向かって、イヒョンの低く穏やかな声が、静かに入り込んでいった。
「あなたの偉大な発明を侮辱するつもりなど、毛頭ありません」
イヒョンは軽く首を振りながら、床に描かれた線を、畏敬の宿った眼差しで見下ろした。
「コルディウムの力を借りず、純粋な機械的メカニズムだけで流れに逆らう船とは。もしそれが本当に動くのなら、大陸の歴史を根こそぎ揺るがす驚異的なことですね」
老人はふんと鼻を鳴らし、顎をつんと上げた。
「こいつもあいつもコルディウムの一点張りとはな! ふん!」
だが、乱れた白いペリウィッグの下でぎらついていた剣呑な気迫は、一枚剝がれていた。世の誰ひとり理解できなかった自分の設計を一息に見抜き、『偉大な発明』と称えてくれた見知らぬ青年の態度に、固く閉ざされていた老人の警戒心が、そろりとほどけた。
イヒョンはその隙を逃さず、問いを投げかけた。
「ところで、一つ疑問が浮かびますね。それほど偉大な発明品であれば、あなたがいらしたカルボリアで披露して、莫大な名誉と富を手にすることもできたでしょうに……なぜわざわざあの険しい道を越えて、プルベラまで向かおうとなさったんです?」
問いが宙に落ちるが早いか、傍らで様子をうかがっていた商人が、咳払いを呑み込んで、だしぬけに口を挟んだ。
「そんなもの、当たり前の道理じゃないか、薬草採りの旦那」
商人は縄に縛られたまま肩をすくめ、隅の老人をちらりと見やった。その乾いた唇の端に、それとない皮肉が滲んだ。
「カルボリアは険峻な山岳地形を抱えた北部三国の一つだ。四方は切り立った峡谷と岩山ばかりで、流れる水路といえば、足首をようやく濡らす程度の小川か瀬がせいぜいさ。そんな痩せた山奥で、巨大な鉄の塊の船が何の役に立つ? それこそ無用の長物だろう」
商人は鼻で笑いながら言い添えた。
「山で船を浮かべるわけにはいかんだろうが?」
その軽い嘲りが狭い切り株の中の空気を切り裂いた瞬間、老人の顔が赤くなったり青くなったりと火照った。
「この無知で下賤な商人めが!」
老人が縛られた両腕を床にどんと叩きつけ、雷のような怒号を上げた。
「目の前に神の奇跡があろうと、即座に金貨数枚に換える算段しかできん虫けらどもが! 地形の限界などは運河を掘り、水路を通せば済むものを、本質を見ずに口先だけ達者にほざきおって!」
老人の痩せこけた胸元が、怒りで激しく上下した。
イヒョンは2人の間で交わされる刺々しい口論を興味深げに見守りながら、そっと老人の胸の内を探るように、話を向けた。
「ですが、プルベラ貿易連合社のルカエル委員長が、自ら人を遣わしてあなたの船を見ようとしたのであれば……少なくとも、その商人たちの目利きが、まるきり悪いというわけでもないのでは?」
「ふん!」
老人が勢いよく鼻を鳴らして、顔を背けた。
その眼差しには、貿易連合社の委員長に対する敬意など、爪の先ほども宿っていなかった。ただ、技術を道具としてしか扱わない商売人どもへの、深い侮蔑だけが宿っていた。
「ルカエルの奴とて変わらん! 表向きは賢いふり、大陸の繁栄を思うふりをして、ありとあらゆる甘言を並べ立てていたが……結局はわしの機関を持っていって、自分の商団の利益を膨らませ、軍艦を走らせて覇権を握る算段ばかりを、ぺらぺらと並べ立てた奴だ。この中に込められた純粋な力学と熱力学の精髄を見抜く目など、はなからありはせん。豚に真珠の首飾りをかけてやったようなものだ!」
憤懣を爆発させて息巻く老人の声が、切り株の壁面を巡った。
その狂気を見守っていたライルが、驚いた顔でイヒョンの後ろへぴたりと寄って座った。
ライルがイヒョンの襟をそっと引っ張りながら、蚊の鳴くような声でイヒョンの耳元に囁いた。
「……アニキ、あの爺さん、性格マジで半端ないな。縄でぐるぐる巻きにされて地下牢に放り込まれてる身分で、鼻っ柱はタルコス山より高いんだけど? 正気で合ってるのか?」
ライルの呆れ返ったような言葉に、イヒョンは答える代わりに、口角を薄く持ち上げた。
世間が狂人と呼ぶ変わり者の天才たちに典型的な傲慢さ。だがそれは、自らの知識への絶対的な確信がなければ、決して抱くことのできない、純粋な自負でもあった。
『技術の精髄、か……』
イヒョンの深い瞳が冷たく沈んだ。
老人の固く閉ざされた心を完全に開き、協力を取りつけられる決定的な頃合いだった。
イヒョンは何も言わず、腰元をしっかりと固定していた革のベルトを、軽くめくった。
かちりというバックルの音とともに、彼がずっと携えていた滑らかな金属の盾が、闇の中からそろりと解き放たれた。
ランプの橙色の炎が闇を切り裂き、イヒョンの指先に握られた品を、くっきりと照らし出した。
イヒョンが腰元から解き放った盾は、奇妙な規格をしていた。バックラーよりは確かに大きいが、ラージシールドよりはいくらか小さく、軽やかだった。
一見すると、傷一つない滑らかな鋼鉄の表面の、ありふれた盾のように見えた。
だが、その精密に噛み合った外壁の内側には、弾性力学を応用して圧縮した強力なコイルばねの装置と、致命的な鋼の棒を瞬時に射出する精密な機械メカニズムが、隙間なく隠されていた。
すっ。
イヒョンは何も言わずに、その盾の滑らかな内側の機械部を、ディオニシウスの目の前へそっと掲げてみせた。
「……!」
イヒョンの動きを横目で見ていた老人の、血走った両の目が、飛び出さんばかりに見開かれた。
盾の内部に精巧に作られた歯車とぜんまい、圧縮ばね、そしてエペリア大陸のいかなる鍛冶師にも真似のできない、美しく完璧な仕上げまで。
老人の乾ききった喉から、ひゅっと、息の詰まる破裂音が漏れ出た。
「……こ、これは! 貴様、これをいったいどこで手に入れたのだ⁉」
老人が縛られた体を抑えきれず、前へ倒れ込むように上体をぐいと突き出した。
つい先ほどまで世に向かって血管を浮き立たせ、呪詛を浴びせかけんばかりだった傲慢さと狂気は、洗い流されたように消え去っていた。代わりに老人のぎらつく瞳孔の中では、生まれて初めて目にする未知の宝物と向き合った、幼子のような純粋な好奇心が渦巻いていた。
その激しい動揺を見下ろしながら、イヒョンの口角が上がった。
「この盾は、コランの伝説的な武器製作者が作った力作の一つです」
イヒョンはにっと笑いながら、ランプの明かりの下で冷たく光る盾の縁を撫でた。
「もっとも、その機械装置の核となるメカニズムは、私がその武器製作者と頭を突き合わせて設計したものですがね」
「な、何だと……⁉」
老人の眼差しが瞬く間にひっくり返った。
不信と畏敬、そして抑えようのない知的な渇きが、老人の皺だらけの顔を赤く染め上げた。変わり者の職人の目に宿った気配は、もはやイヒョンを一介の青二才の薬草商とは見ていなかった。
「ちょ、ちょっと待て……! もう少し詳しく見てもかまわんか? いや、こっちへよこせ!」
ディオニシウスの口から出た言葉とは裏腹に、彼はイヒョンの許しや返事など、待つ気はまるでなさそうだった。
太い紐で縛られた手首が擦り剝ける痛みすら忘れたまま、老人は骨の節が浮き出た両手を伸ばし、盾を荒々しくひったくっていった。
ばしっ!
老人は土の床に座り込んで、盾をあちこちひっくり返し、匂いを嗅ぎ、耳を盾の表面にぴたりと当てて、ばねの微細な金属の摩擦音に聞き入った。
「この完璧な張力の配分は何だ? 単なるばねの弾性ではない……コイル? 螺旋状に力を蓄積する構造か? 鉄をどうやってこれほど精密に撚って熱処理をしたのだ⁉」
老人は狂気じみた手つきで木片を取り上げ、盾の比例と寸法を、泥の床に狂ったように写し描いた。
そうしてすぐに、堪えきれないとばかりに、爪が折れるほどの勢いで、盾の外壁と内部のばねの塊を、無理やり引き剝がそうと懸命になった。分解して、内部の歯車の一つひとつを自分の目で直接確かめなければ、気が済まないという勢いだった。
だが、盾はびくともしなかった。
その接合部は、一般的なねじで固定されたものではなかった。イヒョンがコランの天才武器製作者エリセンドに教えた『熱間リベット接合方式』で、鋼板とフレームを完璧に一体化させ、固定してある状態だった。
鋼鉄のリベットが隙間なく圧着されているため、専用の切断道具なしに素手で分離するのは、根本的に不可能だった。
「うぐぐっ……! なぜ開かん! なぜこの忌々しい鉄の塊が開かんのだ! それにこの固定装置は何だというのだ! ああ、このような接合が可能であれば、わしのシリンダーの封も圧力に耐えられように‼」
老人は額に太い血管を浮き立たせ、唸りながら長いこと喘いだ。指の先から血が滲み出てきて、ようやく分解を諦めた老人が、荒い息を切らした。
「はあ、はあ……!」
ついに老人がゆっくりと顔を上げた。
興奮と熱気で赤く上気した老人の顔の上を、汗の粒が雨のように流れ落ちていた。
ディオニシウスは両手で盾を胸に抱え込んだまま、目の前にすっくと立つイヒョンを射貫かんばかりに睨め上げ、引き裂くような声で叫んだ。
「今すぐわしをここから連れ出せ!」
それは懇願ではなかった。知識に飢えた職人が下しうる、もっとも傲慢で、もっとも切迫した命令だった。
「そしてわしをこの牢から出した、その足で……これを作ったという、その偉大な武器製作者とやらのいる場所へ、今すぐ案内せい!」
イヒョンの盾を、自らの分身であるかのように胸元へきつく抱きかかえて喘ぐ老人を見下ろしながら、イヒョンが低く口を開いた。
落ち着いて沈んだ声は、密やかな提案のように闇の中へ入り込んでいった。
「あなたが作られたというその船が何なのか、今どこにあるのか、そしていったいどんな技術的欠陥が生じたのかを教えてくださるなら……もしかすると、私がお力になれるかもしれませんが」
瞬間、ディオニシウスの顎がぴんと強張った。
乱れた白いペリウィッグの下できらめいたのは、純粋な好奇心ではなかった。
皮膚を切り裂かんばかりに鋭い敵意と不信だった。
老人は盾を自分の体の後ろへ隠すように引き寄せながら、血走った目でイヒョンを荒々しく睨みつけた。
「……貴様、わしの偉大な着想をそっくり盗んでいこうという魂胆か⁉」
老人の乾いた声が、金属音を立てて引っ掻くように漏れ出た。
生涯を捧げて削り出し、磨き上げてきた知識の精髄。世の誰にも余すところなく理解されたことがなかったぶんだけ、それを奪われるかもしれないという偏執的な恐怖が、老人の皺だらけの顔を醜く歪ませた。
その狂気に近い疑いの前でも、イヒョンは眉一つ動かさなかった。
イヒョンは淡々と両手をわずかに広げてみせ、軽く肩をすくめた。
「私は森で草の根を掘り、薬を作って売るだけの、一介の薬草採りであり薬草商にすぎません」
イヒョンの唇の端に、薄い苦笑がよぎっていった。
「コルディウムも、鉄を扱う技術も知らない田舎の薬草採りが、その船の構造を知ったところで、いったいどこで役立てられるというんです? 私があなたのその巨大な発明品を盗むなど、そもそも筋の通らない当て推量でしょう」
筋の通った、明快な反論だった。
だが、数十年ものあいだ研究にばかりしがみついてきた変わり者の職人の、ねじ曲がった疑念は、そう容易くは折れなかった。
老人はぎりぎりと歯を食いしばり、顎に太い血管をぴんと浮き立たせた。
「貴様の手で直に鉄を打てずとも、この貴重な設計を外の世界の商売人どもに二束三文で言いふらして回ったらどうする! 盗人の巣窟に知恵を漏らす真似など、死んでも容認せんぞ!」
密閉された切り株の中に、老人の甲高い罵り声が反響した。
もはや説得する値打ちすらないとばかりに喚き散らす老人を見据えていたイヒョンが、一片の未練もないという様子で、その場からすうっと身を起こした。
「でしたら、私としても、これ以上お助けする手立てはありませんね」
イヒョンの返答は氷のように冷たかった。
彼はディオニシウスが抱えていた盾を取り上げると、背を向けた。
相手の切迫を武器として主導権を握る、後退だった。
「野営地の負傷者が回復しだい、私と私の仲間はこの野営地を発ちます。あなたのその偉大な船と設計図は……外の無法者たちが薪の山として割って燃やそうが、川底に沈めようが、お好きになさるでしょうね」
「な、何だと……⁉」
老人の顔が一息に真っ赤に上気した。
胸元が張り裂けんばかりに激しく上下したが、老人の頭の中は冷たく凍りついていた。
どうしようもなかった。
あの青年とその連れは、夜が明ければ悠々とこの忌々しい木の牢を歩いて出ていく、唯一の者たちだった。
対して自分は?
両の手足を太い麻紐で縛られたまま、いつ首を刎ねられるとも知れぬ盗賊どもの手中に放り込まれていた。
自分がここで犬死にした瞬間、畢生の大作は永遠に闇の中へ葬られてしまうはずだった。
知識の消滅。
それは職人ディオニシウスにとって、死よりもなお恐ろしい地獄だった。
「うぐぐっ……! はあ、くっ……!」
老人は拳が砕けんばかりに泥の床を打ち据えながら、長いこと荒い息をぜえぜえと切らした。
ぴんと張りつめていた傲慢の糸が、ついに切れる瞬間、老人の唇の間から、地の抜けるような長く深い嘆息が漏れ出た。
「……はあ」
敗北を認めた者の、自嘲混じりの息遣いだった。
老人は、ただでさえ乱れたペリウィッグを荒っぽく掻き上げながら、背を向けたイヒョンに向かって、しぶしぶぶっきらぼうな声を吐き出した。
「はあ。はあ……どうせ無知な薬草採りごときに話してやったところで、その愚鈍な頭で、わしの言葉を一寸たりとも解せるはずがなかろう。だから、ただ教えてやるのだ」
老人が顔を上げた。
闇の中でぎらつく老人の両の目に、世のすべてを圧倒する傲岸さと、職人の狂気が、ふたたび炎のように燃え上がった。
「よく聞け、若造。わしが作ったあの船は……コルディウムなどではなく、火と煮え立つ湯の力で、自らピストンを動かす機械、『蒸気船』というものだ」
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