336. 全貌
空の器を片づけるが早いか、顎に傷跡が深く刻まれた男が1人、イヒョンとライルを呼んだ。
「立て。ついてこい」
腰に提げた古びた刀が、がちゃがちゃと重い摩擦音を立てた。男が2人、後ろについて従ってきた。
案内された方角は野営地の隅、イヒョンが目をつけていた、大きな木の切り株を利用して作られた建物だった。
近づけば近づくほど、それは一般的な木の範疇を外れているように見えた。根元の直径だけでゆうに十数メートル。いつ、どのようにして切り倒されたのか、推し量ることすらできない太古の巨木の切り株だった。
木の皮は長い時間風化して、まるで黒く固まった岩のようであり、四方へ伸びた根は、大地に揺るぎなく柱のように突き刺さっていた。
「これ、見た目よりずっと大きいな。切るだけで何日、いや何週間もかかっただろう」
イヒョンが低く呟いた。
先頭に立っていた男が、切り株の片側に当てがってあった板を取りのけた。土埃がぱっと舞い上がり、木の幹をくり抜いて組み合わせた板の扉が姿を現した。
がたん、じゃらん!
男が懐から取り出した鍵を差し込んで回すと、噛み合っていた重い錠前が外れた。
ぎいっと蝶番の軋む音とともに扉が開くや否や、内部からむっと押し寄せてくる匂いは、あまり芳しいものではなかった。
湿った土の匂い、黴の生えた木の皮の、どこか黴くさい匂い、そして汗と体臭。
「入れ」
男が松明を突き出して、顎をしゃくった。
階段の代わりに根を削って作った急な下り坂が、半地下の形にぐっと窪んだ空洞へとつながっていた。松明の赤い炎が揺らめき、切り株の内部の光景を照らし出した瞬間、影の中にうずくまっていた人影があらわになった。
「ひいっ……⁉」
後に続いて下りてきたライルが息を呑み、ひっと声を漏らした。怯えきったライルの手が震えながら、本能的にイヒョンの背中の後ろへ潜り込んだ。
だがイヒョンは眉一つ動かさなかった。冷たく沈んだ瞳が、闇の中を機敏に撫で下ろしていった。
『やはり俺の見立てどおりだな』
巨大な木の切り株をくり抜いて作った地下倉庫の中には、何人もの人間が太い縄でぐるぐる巻きに縛られたまま、床に座り込んでいた。
手首を縛られた者たちの身なりは様々だったが、誰が見ても一目で商人の一団だと見て取れる姿だった。
コラン近郊で行方不明になったという職人と商人たちが、この湿った木の牢獄に放り込まれていたのだ。
松明の明かりとともに新たな人影が入ってくると、死んだようにうずくまっていた闇の中から、ぎらりと光る瞳がいっせいにイヒョンとライルへ向けられた。
それは、藁にでもすがろうとする人間の、凄絶なあがきだった。
「た、頼む、出してくれ! 金ならいくらでも出す! 望みどおりにすべて合わせるから!」
「帰らせて……どうか家に帰らせてくれ! 妻子が待っているんだ!」
「助けてください! 助けてください、どうか……うっ、うぅっ!」
鎖と縄が床を擦る身の毛もよだつ摩擦音、そして噴き出す悲鳴と懇願が、狭い切り株の内部を満たし、鼓膜を引き裂かんばかりに響き渡った。血走った目ですがりついてくる捕虜たちの絶叫は、狂気に近かった。
だが、戸口に立つ野営地の男たちは、耳元に蠅でも飛んできたかのような鬱陶しい表情で、耳をほじくるだけだった。その眼差しには、同情や慈悲など爪の先ほども宿っていなかった。
「うるさい、この豚野郎どもが! 黙らねえと舌を引っこ抜くぞ!」
男の1人が腰の刀の柄で戸枠をどんと叩きつけ、険悪に怒鳴り声を上げた。瞬く間に恐怖が喚き声を押し潰し、その場には喘ぐ荒い息遣いと、すすり泣きだけが鎮まり残った。
男はイヒョンとライルを冷たい目で眺め回すと、顎の先で湿った土の床の隅を指し示した。
「おまえら2人も、おとなしくそこに引っ込んでいろ。妙な真似をすれば、骨も拾えんことになるぞ」
言い終えた男たちが外へ退きながら、荒っぽい手つきで重厚な木の扉を引き寄せた。
重厚な木の扉が閉まろうとした刹那、イヒョンは閉まる直前の隙間へ手を伸ばし、戸枠を掴んで止めた。
もの寂しい夜気を裂いて流れ出た彼の声は、少しの動揺もなく、冷ややかなほど穏やかだった。
「扉に鍵を掛けるおつもりですか?」
男たちの視線がいっせいにイヒョンへ注がれたが、イヒョンは乱れのない態度で言葉を継いだ。
「我々は野営地の負傷者を治療しました。一晩泊まる倉庫を貸してくださった厚意はありがたいですが、外から閂を掛けて鉄の錠前まで下ろすというのは、負傷者を診た者に対する礼儀ではないと思いますが」
行く手を塞いでいた男の顔に、困惑の色が広がった。
男は床にうずくまって呻く職人や商人たちをちらりと見下ろすと、咳払いを呑み込み、しぶしぶ口を開いた。
「それについては、すまなく思っている」
男は扉の取っ手を握ったまま、イヒョンを正面から見た。
「だがここには、あんたたちだけがいるわけじゃない。見張らなきゃならん捕虜が縛られているんだ、致し方ない」
その言葉と表情の裏には、隠しきれない警戒心が、いまだ滲んでいた。
「あんたを疑っているわけじゃない。だが、完全に信用することもできん。だからあんたが本当に信頼を望むなら……あんたも我々を信じなければならん。我々も明日の朝、日が昇ればあんたとあの連れを、何の危害もなく外へ出してやる。それまでおとなしく待っていろ。そのほうが互いのためだ」
その瞬間、イヒョンの背後に隠れて震えていたライルが、顔面蒼白になって前へ飛び出した。
「あ、アニキ! 俺マジでここにいたくない!」
ライルの声は半ば裏返っていた。
ライルは真っ白に血の気の引いた顔で、イヒョンの腕をぎゅっと掴んだ。
「こんな塞がれた穴ぐらに閉じ込められたら……マジで息が詰まって死ぬって! 考えただけで発作が起きそうなんだよ!」
今にも泣き出しそうに足をばたばたと踏み鳴らすライルの肩の上に、イヒョンの重々しい手のひらが載った。
淡々としていながらも、断固とした力のこもった手つきだった。
イヒョンはライルの目をまっすぐに見据えて、短く息を整えさせてから、目配せでライルの昂ぶりを鎮めた。
『今は騒ぎを起こしたところで、得になることなど何もない』
イヒョンの落ち着いた眼差しに、ライルは生唾をごくりと呑み込んで、唇をぐっと噛み締めた。
状況を完全に把握したイヒョンが、ふたたび顔を巡らせて、扉の前の男を見据えた。
「いいでしょう。明日の朝まで待ちます。ですが、真っ暗な穴ぐらの中で、ただ手をこまねいているわけにもいきませんから、私の鞄と油ランプをください」
男が動きを止め、眉間に皺を寄せた。
迂闊に物を渡していいものかと迷った男の視線が、自然と後方の入り口で構えている頭目のほうへ向かった。
野営地の頭目は腕を組んだまま、イヒョンの態度をじっと観察していた。刃物を握った者の前でも、わずかの卑屈さも恐怖も見せないイヒョンの気概。頭目はやがて、無言で顎先をごくわずかに引いた。
単なる薬材と道具にすぎないという判断、そしてイヒョンを刺激しないほうがいいという計算が敷かれた、黙認だった。
「……持っていけ」
男が背後からイヒョンの古びた革の鞄と油ランプを取り出し、手渡した。
それで交渉は終わりだった。
「明日の朝まで静かにしていろ」
ずうん!
木の扉が容赦なく閉ざされた。
がちゃり! じゃらん!
扉の外で太い鎖が巻かれ、重い鉄の錠前が固く噛み合う音が、切り株の内部の湿った闇の中に、残酷に響き渡った。
鎖が巻かれ、錠前が下ろされると、切り株の内部は一瞬、鼠が死に絶えたような沈黙に包まれた。密閉された地下空間ならではの、湿って冷ややかな冷気が、足首を伝ってじわじわと這い上がってきた。
イヒョンは手にした油ランプから持ち上げた。
ランプを軽く揺すって、油の重さを測った。
『油の量から見て、3、4時間は十分に持つな』
イヒョンが弁を調節して炎を大きくすると、橙色の明かりが闇を押しのけた。
同時に、巨大な古木の内壁に沿って、閉じ込められた人々の奇怪な影が、壁面を這っていっせいに揺らめいた。壁面に絡みついた太い木の根は、まるで怪物の血管のようだった。
「とりあえず座らなきゃ。脚ががくがくして、おかしくなりそうだ」
ライルが顎をがたがた震わせながら、イヒョンの裾を引っ張った。
イヒョンはランプを床に下ろすと、切り株の内側の縁まで歩いていき、背をもたせかけてどさりと腰を落ち着けた。ライルもまた、慌ててイヒョンの隣にへばりつくように尻をつけた。
そしてその黄色い明かりの向こうで、縄に縛られたまま息を殺していたぎらつく瞳が、いっせいにイヒョンとライルへ突き刺さった。
彼らの一挙手一投足を息を殺して見守っていた人々のうち、汚物に汚れてはいるが、かなり上等な外套をまとった年配の男が、縛られた手を膝の上に載せたまま、イヒョンを見て口を開いた。
「……あんたたちは、いったい何者だ?」
男の声には、警戒心と糸のように細い希望が入り混じっていた。商人がイヒョンに問いを投げると、その周りでうずくまっていたほかの者たちの視線もまた、いっせいにイヒョンの口元へ集中した。
イヒョンは素っ気なく肩をすくめてみせた。
「薬草採りです。道に迷って森をさまようちに、ここまで流れ着いてしまいましてね」
イヒョンは顎の先で閉ざされた扉を指し示し、淡々と言い添えた。
「そして今はまあ、ご覧のとおりです」
平然としすぎて拍子抜けするほどの返答に、商人はぽかんと口をぱくぱくさせた。緊張でぴんと張りつめていた空気が、一瞬、気の抜けたようにほどけていく隙に、イヒョンの視線は静かに闇の中を撫でていった。
その黒い瞳が地下倉庫の隅々まで、くまなく走査していた、まさにその瞬間。
イヒョンの視線が、倉庫のもっとも深く暗い隅の一点で、ぴたりと止まった。
『あの人は……』
ルカエルが教えてくれた人相風体が、頭の中を稲妻のようによぎっていった。
薄汚れた土埃がたっぷりとこびりついてはいたが、白くくるくると巻かれた正統のペリウィッグ。その下からのぞく痩せこけた首筋と、骨の節が浮き出た体躯の老人が、ぽつんと1人でうずくまって座っていた。
老人は、縛られたほかの者たちとは、まったく別の世界に生きているようだった。
周囲の騒ぎや見慣れぬ者たちの登場など、眼中にもなかった。両の手首が太い麻紐でぐるぐるに縛られているというのに、老人は指の間に木片を一つ握り締めていた。
さり、さり、ざりっ。
老人は床の土の上を引っ掻きながら、何やら書きつけていた。
円環と幾何学的な曲線、そしてびっしりと埋め尽くされた数式と寸法。
涎まで垂らしながら床に鼻を突きそうなほど顔を伏せた老人の、からからに乾いた唇の間から、絶え間なく呟きが漏れ出ていた。
「……違う、遮断弁の圧力が足りん。3インチの口径では回転トルクに耐えられない。材質を変えねば。熱膨張係数が合わん……規格を組み直さねば……」
狂人の狂気、あるいはその向こうに存在する職人ならではの凄まじい執着が感じられた。
イヒョンは、隅で何かを描いているあの者こそが、カルボリア出身の職人ディオニシウスであろうと確信した。
「……!」
ライルもまた、老人の奇怪な振る舞いに遅れて気づいたのか、目を丸くしてイヒョンの耳元へ顔をぐっと近づけた。
「……アニキ、あの爺さんはこの状況でいったい何をしてるんです? 完全に正気を失っておかしくなっちまったんじゃないですか?」
イヒョンはライルに向かって密やかに囁いた。
「おそらくあの人が、俺たちの探していた職人だ。だが、ひとまず知っているそぶりは見せるな」
イヒョンは膝を立てて座り、向かいの隅ですっかり縮こまったまま自分を見つめていた商人に向かって口を開いた。
「あなた方は、いったいなぜここに監禁されているんです?」
商人は地の抜けるような溜め息をついた。
彼は縄で縛られて血の滲んだ手で床をつき、座り直すと、倉庫の隅で木片を使って泥の床を狂ったように引っ掻いている白髪の老人のほうをちらちらと見やった。
ざりざりという音をしばらく聞いていた商人は、諦念の濃く滲んだ声で、ゆっくりと口を開いた。
「我々はプルベラ出身の商人だ。ルカエル様のご命令を受けて、あそこにいる職人をバセテロンへお連れする道中だったんだが……途中でひどい事故に遭って、この有様になったのさ」
「事故ですか?」
イヒョンの目が細くなった。
「どんな事故に遭って、こうしてここに閉じ込められることになったんです?」
商人は固く閉ざされた板の扉のほうを横目で見た。
「我々はコランからプルベラへ行く予定だった。本来なら船路を使うところだが、事情があって陸路を選んだ。ところがこの森の道を通っている最中に、奴らの襲撃を受けたというわけだ」
「普通、商団なら荷を引き渡して命を拾うほうを選ぶのでは? 品をすべて差し出したのに、監禁までされたというんですか?」
イヒョンの鋭い指摘に、商人は言葉を継ぐことができず、語尾を濁した。額を伝って流れ落ちた冷や汗が、ランプの明かりを受けててらてらと光った。
「それが……その品というのが、普通の盗賊が欲しがるような品ではなかったから、そうなったんだろうな」
「もう少し詳しく話してください」
イヒョンは問い詰めることなく、低く柔らかな口調で商人に問い返した。
「我々は薬草採りです。森をさまようちに野営地に足止めされましたが、上で彼らの負傷者3人を治療してやったおかげで、大した危害も被らずここに留まれているんですよ」
イヒョンは揺れる商人の瞳をまっすぐに見据えながら、そっと核心を突いた。
「もしや……その負傷者と、あなた方が遭ったという事故は、関わりがあるのですか?」
瞬間、商人の瞳孔が激しく揺れ動いた。
彼は何度も周囲の様子をうかがいながら、生唾を呑み込んだ。
「狭い森の道を急いで通っている最中だった。ところが……鬱蒼とした草むらの中から、突然、どこぞの幼い子どもが飛び出してきたんだ」
商人の声には、後悔と罪悪感が入り混じっているようだった。
「御者が手綱を引く暇もなかった! 子どもがそのままぶつかって弾き飛ばされ……倒れたまま動かなくなった。ところが、そのすぐ直後に……森の中から奴らがぞろぞろと押し寄せてきて、馬車を襲ったのさ」
商人は震える手で頭を掻きむしった。
「商団を護衛していた兵士たちが応戦しようとしたが、勝てるような数ではなかった。馬車は失い、決死で抵抗した護衛兵が奴らの何人かに傷を負わせはしたが……結局、残った者は引きずられてきて、この穴ぐらに閉じ込められることになったんだ。おそらく……あんたが治療したというその3人が、あのとき我々の護衛兵の刃に傷を負った者たちだろう」
隅で床を引っ掻くディオニシウスの木片の音だけが、ざり、ざりと、もの寂しく響き渡っていた。
イヒョンは何も言わず、ゆっくりと頷いた。
頭の中で散らばっていた手がかりが、一つの鮮明な因果関係として、完璧に噛み合って落ちた。
単なる略奪でも、計画された敵対行為でもなかった。
突然飛び出してきた幼い子どもの不慮の事故が、野営地の人々の抑えようのない怒りと復讐心を爆発させ、結局は血なまぐさい流血の衝突と監禁へとつながったのだ。
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