335. 不安
『輸液が必要になるかもしれんな。このまま容態が好転すれば要らないだろうが、万一ということもある』
イヒョンは、小屋の片隅で黙って負傷者を見つめていた頭目のほうへ視線を向けた。
黒と白の灰と、かすかな赤い熾火だけを宿した炉の傍らに、頭目が岩のように重々しく座っていた。
イヒョンの視線に気づいた頭目が、ゆっくりと顔を上げてイヒョンを見た。
「何だ? 処置は終わったと言わなかったか」
男の声は低く落ちていたが、そこに込められた警戒心は、いまだ消えずにいた。
イヒョンは炉の向かいに立ち、淡々と口を開いた。
「傷を縫い、腐った肉を切り取ったのは、ただの緊急処置にすぎません。本当の問題はここからです。負傷者2人は血を流しすぎたうえ、感染が進行しています」
「だから薬を作ると言ったのではないのか?」
「そうです。ですが今のように、水ひと口さえ自分で飲み下せない状態では、体に薬を入れてやる手立てがありません」
「それで?」
イヒョンの瞳が、炉の残り火を受けてきらりと光った。
「このまま放っておけば、縫った傷はくっつきません。血圧が下がり、数日も持たずに死にます。負傷者を助けるには、口ではなく、血管へ直接水と栄養を流し込んでやる道具が必要です」
「……何だと?」
頭目の表情が、一息に醜く歪んだ。
太く刻まれた額の皺の間から、戸惑いと濃い不信が広がっていった。
「……血管に水を入れるだと? さっきあんたが縫った、あそこを通してか?」
エペリアの常識では、馴染みがないどころか、背筋が凍るほど奇怪で不吉な話だった。
だが、頭目は罵声を吐くことも、刃を抜くこともしなかった。
わずか半刻ほど前、神官の祈りなしに奇跡のようなことを成し遂げてみせた者の言葉だ。
気違いじみた妄言と片づけるには、その指先が証明した現実の重みが、あまりにも重く、生々しかった。
頭目は長いあいだ固く結んだ唇の間から息を吐き出しながら、イヒョンを見定めた。ついに男の顎先がかすかに下がり、冷ややかに沈んだ声が流れ出た。
「……いいだろう。負傷者の処置はあんたの手に委ねると決めたのだからな……必要なものは何だ?」
「私が申し上げたことは、1人ではできません」
「それで?」
「私がコランから戻った後、ここの人たちの手助けが必要です」
「それはどういう魂胆だ?」
「血管へ入れる輸液を作るのに、ずいぶん手がかかるんです。1人でできる仕事ではありません」
頭目はしばし静かに考えているようだった。
「ただし、一つだけ肝に銘じておけ」
頭目がゆっくりと上体を起こし、イヒョンを見下ろした。闇の中でもぎらりと光る両の目が、刃のように鋭かった。
「コランへ行って、この野営地のことを口外した瞬間……ここに残るおまえの間抜けな連れの首は、その場で落ちることになる」
ライルを人質に取って、裏切りを根こそぎ封じようという脅しだった。
だが、その脅しを聞いたイヒョンは、薄い苦笑を呑み込むほかなかった。
『この烏合の衆に、ライルを制圧できるとでも思っているのか』
表向きは厳つい表情と青光りする刃物で威圧感を放っていたが、その実、あちこちで拾い集めてきた錆びた農具と刃こぼれした剣を手にした、避難民の群れにすぎなかった。
正規の騎士団の訓練を受けた者たちでもなく、一糸乱れぬ結束力を備えた軍隊でもなかった。
もし本物の危機が訪れて、死の恐怖がライルを脅かしたなら、彼の内から制御不能の『恐怖のコルディウム』が爆発するように噴き出すのは明らかであり、その瞬間、粗雑な武器を握った20人ほどの避難民は、ライルの裾にかすることすらできぬまま、四肢をばらばらにされるのは自明だった。
もちろん、イヒョンはその内心を表に出すほど軽率ではなかった。
「そのようなご心配はなさらなくて結構です。純朴な男ですから、あまり怖がらせないでやってください」
イヒョンは顔の筋肉一つ動かさぬまま、淡々と落ち着いた口調で言葉を継いだ。
「私がコランから戻り、この人たちを完全に治療し終えれば、私と私の仲間は何の障りもなく、安全に森の外へ出られる。互いにとって最善の結果が待っているというのに……わざわざ何のために危ない橋を渡るというんです?」
頭目はイヒョンの深く静かな瞳を、射貫くように見据えた。
揺るぎない瞳孔、微動だにしない呼吸。裏切りや奸計の気配は塵ほども見出せなかったのか、頭目は長く息を吐き出した。
「ふう……見てのとおり、ここには外の人間をもてなす余裕などない。倉庫で過ごしてもらうぞ」
歓待するつもりも、部屋を提供する余裕もない、というぶっきらぼうな通告だった。
イヒョンは軽く頷きながら、背嚢のほうへ顎をしゃくった。
「かまいません。それだけあれば十分です。我々は野宿には慣れていますから」
暗い小屋の中、2人の視線が最後に絡み、そしてほどけた。
鬱蒼とした原生林の空の上で、赤い夕焼けの尾が完全に消え失せると、森は待ちかねていたとばかりに濃い闇を呑み込んだ。
四方は瞬く間に暗黒に染まった。
野営地の真ん中に焚かれた小さな焚き火だけが、赤い舌をちろちろと躍らせ、あたりに奇怪な影を長く落としていた。
枝をかすめて吹いてくる夜風が、汗に濡れていた襟元の隙間へ冷ややかに潜り込んできた。どこかで縄張りを告げる山梟の、乾いた低い鳴き声が、陰気に沈んだ。
ぱち、ぱちっ。
イヒョンは竈の前に座って乾いた薪をくべ、火を生かした。イヒョンとライルの周りでは、屈強な男が2人、槍を手に見張りに立っていた。
炎が立ちのぼると、彼は背嚢から煤けた鉄の鍋を取り出し、湯を沸かした。ビスケットの粉と干物の切り身、そしてほろ苦いハーブの粉を入れて簡単な食事を支度する手つきは、落ち着いていて、手慣れていた。
その向かい、土の地面に座り込んだライルは、膝を顎の先まで抱え込んだまま、しきりに周囲をきょろきょろと見回していた。
焚き火の向こうの闇の中でぎらりと光る、野営地の男たちの鋭い眼差しを感じるたびに、こいつの肩がぶるぶると激しく震えた。
「……アニキ」
ライルが消え入りそうな声で不平を漏らした。
「俺たち、いっそ今からでも荷物をまとめて逃げちゃダメなのか? こんな物騒な巣窟で、いったい何をしようっていうんだよ……」
「俺たちの目的は何だ」
イヒョンは鍋の中身を木の匙でゆっくりとかき混ぜながら、低く問い返した。
「森で行方不明になった職人と商人一行を探すことだろう。もう少し我慢しろ」
「それは分かってるけどさ……!」
ライルが悔しそうに胸元をぱんぱんと叩いて、泣きべそをかいた。
「いや、昼間に見ただろ! 刀の柄を突きつけて荷物をひっくり返して、目つきなんか今にも人を食い殺しそうだったじゃんか! アニキの肝が据わってるのは分かるけど、この人たちの気がいきなり変わりでもしたら、俺たちはいつ首が飛ぶか分かったもんじゃないんだぞ!」
イヒョンは匙を置き、顔を上げてライルを見据えた。
「俺の見立てでは、そんなことにはならんと思う」
「いや、何を見てそう言い切れるんだよ? 森の縁で兵士の死体を見たじゃんか」
「もともと傷を負った野生動物は気が荒いものだ。身なりを見るに、元来は盗賊団ではなかったんだろう。俺の予想が当たっているなら、この連中は何かから逃れてきた避難民のはずだ」
「避難民があんなふうに護衛兵と戦うのかよ? 俺はそんな話、聞いたこともないぞ」
「おそらく理由があるんだろう」
「だったら、いっそ訊けばいいじゃんか? 怪我した連中も助けてやったんだし、『おい、おまえら職人をどこに隠した』って、堂々と訊けばいいだろ!」
「信頼が積み上がれば、そうするさ」
イヒョンは火に掛けた鍋の蓋を閉めながら、淡々と応じた。
「今いきなり問い詰めれば、連中はすぐさま警戒を解かなくなるだろう。それに、職人一行を殺してしまうかもしれん。今のところ、あの連中にとって俺たちは薬草採りと薬師であって、職人を探しに来た者ではないんだからな」
「うぅ……」
ライルは首筋が冷たくなるのか、襟元をきつく合わせながら呻いた。
いくらぶつくさ言ったところで、イヒョンの冷ややかなほど完璧な現実判断の前では、言葉に詰まるほかなかった。
ライルはしょんぼりした顔で頬杖をつき、ぱちぱちと燃えていく焚き火だけを、ぼんやりと睨みつけていた。
だが、こいつの不安は容易には鎮まらなかった。
しばし沈黙が流れた後、ライルがふいにはっと顔を上げた。不安でひどく揺れる瞳が、イヒョンの顔に突き刺さった。
「ってか、本当に明日、俺をここに1人で置いていくつもりなのか?」
「行ってすぐ戻ってくる。あまり心配するな」
イヒョンが口角をわずかに上げて、短く笑った。
「2日あれば済む」
「はあ……2日がどれだけ長い時間だと思ってるんだよ……」
ライルがこの世の終わりのように、地が抜けるほど深い溜め息をついて、膝の間に顔を埋めた。
そうして、どうにも理解できないというように少し顔を上げ、悔しそうにぶつぶつ言った。
「アニキがやたらと妙な縁が多くて、手先が器用なのは分かるけどさ。いったいコランへ行って……何をどうするつもりなんだ?」
焚き火の向こうで、イヒョンの口元に宿った意味深長な笑みが、闇の中に長く広がっていった。
小さな石の竈の上で、鉄の鍋ががたがたと鳴り、白い湯気を吐き出した。
ぱちっ、ぱちぱちっ。
乾いた小枝が燃えながら、赤い火の粉を撒き散らした。鍋の中でぐつぐつと煮え立つ粥からは、干物ならではの塩辛い匂いと、ほろ苦い薬草の香りが入り混じって立ちのぼっていた。
「今あの小屋に横たわっている2人は意識がないから、口から水ひと口も飲み下せない」
イヒョンは木の匙で鍋の底が焦げつかないよう、ゆっくりとかき混ぜながら口を開いた。
「今、無理に何かを食べさせようとすれば、気道に入って肺炎になるかもしれん。だから助けるには、血管へ直接水と電解質、栄養分を入れてやる道具が必要なんだ。そして、肉の中で広がる膿を食い止める抗生剤を、さらに作り出す道具もな」
どうしても常識では受け入れられないというように、ライルが額に皺を寄せた。
「……輸液ってのは、その、生きた人間の血の管に水をぶち込むってことなのか?」
「そうだ」
「それが……それが本当にできるのかよ? 水をどうやって生きてる人間の血の管に入れるって言うんだ?」
ライルの声には、奇々怪々な怪談でも聞かされているような拒否感が滲んでいた。
「言っただろう。口から摂れないから、血の流れる通り道に、水と塩と糖分を直接補ってやるんだ」
イヒョンは鍋の蓋を少しずらして掛けながら、淡々と応じた。
「いくら聞いても理解できないんだけど?」
ライルが呆れ返ったというように、首を左右に振った。
「血管だか何だかに水をぶち込むってのも変だけど、その『抗生剤』ってのはまた何なんだよ?」
イヒョンは鍋をかき混ぜる手をしばし止め、ライルの目を見据えた。
顕微鏡も、細胞の概念もないこの世界の青年に、黄色ブドウ球菌だの、連鎖球菌だの、細菌の細胞壁を破壊するペニシリンの仕組みを説明したところで、口が疲れるだけだった。
「……傷の中に悪い虫が広がって肉が腐り、全身に火の玉のような熱が吹き上がるのを、食い止めてくれる薬だ」
イヒョンは焚き火を見下ろしながら、ライルの目線に合わせて、できるかぎり短く明瞭に言い切った。
「それって……そんなに大層なものなのか? わざわざコランまで行って、作る道具を手に入れてこなきゃならんほど?」
ライルの問いに、イヒョンは負傷者のいる小屋のほうを見据えた。
「それがなければ、あの人たちは死ぬ。ただ、いつ死ぬかという問題にすぎん」
イヒョンの断固とした答えに、ライルは口をぎゅっと閉じた。
炎に揺らめくライルの顔には、相変わらず払いのけられない不安と恐れが濃く敷かれていた。だが、イヒョンの確信に満ちた声の前では、もはやぐずぐず言うことも、言い返す言葉を見つけることもできなかった。
薪の火の上で煮え立つ粥の、とろりとした音が、森の闇に沈んだ野営地の重い静寂を、低く満たしていった。
もの寂しい夜風が木の葉を揺らし、遥か向こうの丸太小屋のほうから、呻き声がかすかに聞こえてきた。
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