333. 縫合
イヒョンは答える代わりに、卓の上に横たわる男の太腿へ視線を移した。
血に濡れて黒赤くただれた筋肉の隙間へ、慎重に指を伸ばし、患部の深さと角度を測った。体温が抜けて冷えていく肉、脈動もなく一定にどくどくと溢れ続ける暗赤色の血液。
外科医として数えきれないほど向き合ってきた場面だった。
場所と患者は違えど、工事現場や交通事故に遭った人々が負った傷と、本質的に大きく変わるものではなかった。
「太腿の内側を深く切られています。傷の深さはおおよそ指2関節分以上。脚へ行った血を胸へ戻してやる太い血管が一つ、損傷していると思われますね」
「血管?」
「ええ、そうです。今はすべてを説明している時間がありません。この人はもともと体力があるので今はまだ持ちこたえていますが、残された時間はあまりなさそうです」
イヒョンが血の流れ出る傷口を圧迫しながら、顔を上げた。
「このまま表だけを布で塞いだところで、止まる出血ではありません。どれほど強く圧迫しても、肉の奥深くから血が漏れ続けて筋肉の中に溜まり、最後には血が足りなくなって心臓が止まります。助けたいなら、その中の損傷した血管を見つけ出して、直接針と糸で縫合しなければなりません」
その瞬間、小屋の中の空気が氷のように凍りついた。
「つまり、あの傷を掻き分けて、血管だか何だかってものを縫わなきゃならんというのか?」
人々のざわめく声が聞こえてきた。
頭目の眉間が歪み、戸口や壁にもたれて立っていた男たちの手が、いっせいに腰の斧と刀の柄を握り締めた。
鉄の触れ合う音とともに、あからさまな殺気がイヒョンの首筋を狙った。
人の体の中を流れる血の通り道を、糸で縫い合わせてつなぐ。
エペリアにおいて、それは治療ではなかった。神官の祝福や祈りで傷を癒やすのが当然である者たちにとって、生きた人間の体を掻き分けて縫うなどというのは、人の体で遊び戯れようというに等しい、奇々怪々な振る舞いにすぎなかった。
「気違いじみたことを……! どこの馬の骨とも知れん奴が、俺たちの兄弟の体に刃物を当てるだと?」
「あいつを今すぐ引きずり出すべきです! 詐欺師か、頭のいかれた奴ですよ!」
男たちの剣呑な怒号が降りそそぎ、寝台の傍らに座り込んでいた女は、茫然自失のまま、村の者たちとイヒョンを交互に見やった。
しばらくして、その女はイヒョンの袖にすがりつき、切実な顔で彼を見つめた。
「どうか……私の夫を助けてください……どうか……」
だがイヒョンは、四方から降りそそぐ不信と脅しの刃の前でも、眉一つ動かさなかった。
その瞳は、荒れ狂う波の中の岩礁のように静かで、揺るぎなかった。イヒョンは興奮して喚き立てる男たちに向かって声を張り上げる代わりに、むしろ一段低く明瞭な口調で、一つひとつ言葉を重ねていった。
「今すぐ神官を呼べないのであれば、残された方法はこれだけです」
イヒョンの視線が、頭目の険しい瞳を正面から射貫いた。
「煮えた湯で、傷の中の土埃と血の塊を洗い流します。その次に、太腿を圧迫して、血が噴き出している血管を締めます。そうすれば出血がひとまず止まる。その後で、私が持っている特殊な糸で血管の壁を縫い塞ぎます。血が漏れないことを確認したら、裂けた筋肉を合わせ、最後に外側の皮膚を縫い合わせて閉じます」
たった一つの偽りもためらいもない、ただ純然たる事実と手順だけを盛り込んだ、冷ややかな説明。
「今手を打たなければ、この男は体の中の血をすべて流し、やがて息を引き取ります。ですが私に任せてくださるなら、少なくともこの男の心臓は、明日の朝も動いているはずです」
イヒョンの低く落とした声が、小屋の中を押さえつけていた殺気を、しだいに圧倒していった。
狂気じみた脅しでも、虚しい希望を売りつける甘言でもなかった。
ただ患者の状態を一分の狂いもなく見抜いている者だけが放つことのできる、圧倒的な専門性の重みだった。
頭目は固く結んだ唇の間から息を吐き出しながら、卓の上でかすかに痙攣する村人の青白い顔と、イヒョンの揺るぎない目を、交互に見据えた。
「まず、傷の周りを消毒します」
イヒョンは、散らばっていた荷を拾い集めてきた革の鞄から、手のひらほどのガラス瓶を一つ取り出した。
栓をひねって引き抜くと、小屋の中に、鋭くほろ苦いアルコールの香りがむっと広がった。
炉の傍らに立っていた男たちが鼻をくんくんとさせ、慣れない匂いに眉をひそめた。
「その次に、傷の上のほう、太腿の内側を布で強く圧迫して、今より出血を減らします」
イヒョンが取り出したのは、銀色の外科用の鋏と針をはじめとする手術道具、そして分厚く丈夫な革の止血帯だった。避難民たちの目には、ただ見慣れぬ奇怪な銀色の鉄くずに映るだけだったが、イヒョンにとっては、もっとも頼もしい武器だった。
イヒョンは躊躇なく、男の太腿の上のほうへ手を伸ばした。
傷よりも上、心臓により近い大腿部の近位部に、幅広の止血帯を巻き回した。血管の走行経路を指先で正確に探り当ててから、バックルを噛み合わせ、木の枝を差し込んで、しっかりとねじり締めた。
圧迫が加わると、絶え間なく噴き上がって床へ溢れ出していた黒赤い血の勢いが、瞬く間に目に見えて衰えた。まるで水門を閉じたかのように、どくどくと溢れていた出血が細い血の雫へと鎮まっていく光景に、寝台の傍らを守っていた人々の目が丸く見開かれた。
イヒョンの手さばきには、わずかの遅滞もなかった。
彼は鋏を握り、傷を覆っていた古びた血まみれの布切れの隙間へ刃を差し入れた。
ざく、ざく、という音とともに、固まった血の塊でごわついたリネンの布が容赦なく切り裂かれ、続いて視界を遮り、患部を汚染しかねない丈夫なズボンの裾から太腿の内側まで、ためらいなく一直線にざくりと切り裂き、完全に剥ぎ取った。
ついに、炉の赤い灯りの下で、男の裂けた太腿の患部が、そのすべてをあらわにした。
ちょうど炉から鉄鍋を手にした男が、湯気の立ちのぼる熱湯を慎重に捧げ持って近づいてきた。
イヒョンは煮えた湯に適量の塩を入れた。
しばらくして湯が冷めると、イヒョンは血の塊と汚染物を、ためらいなく洗い流した。
血膿と固まった血の塊が洗い流され、赤く染まった汚水が、卓の木の隙間を伝って下へ流れ落ちていった。
男の開いた傷の中が、ついにくっきりとした生身をあらわにした。
「傷を開いて、血管がどこで裂けているのかを確かめ、損傷した部位の両端を細い糸で縫って止血します」
イヒョンの落ち着いた声には、一寸の揺らぎもなかった。
小さな箱から、薄く丈夫な縫合糸と曲がった針、鉗子とピンセットを取り出した。
「その次に、裂けた血管の壁を互いに突き合わせて縫います。少々時間がかかるでしょう」
卓の周りを取り囲んでいた男たちの喉で、生唾を呑み込む音が鳴った。
頭目の眼差しが揺れた。
「……そうすれば、治るというのか?」
頭目の声には、不信とともに、藁にでもすがりたい切迫した期待が入り混じっていた。
イヒョンは偽りの希望を約束しなかった。
「完璧に治るとは請け合えません」
イヒョンの率直で淡々とした視線が、頭目の瞳をまっすぐに見据えた。
「ですが、今から行う処置が効けば、命を救うことはできるはずです」
「ふうむ……!」
イヒョンの言葉に、男の手を握っていた女が、堪えきれずに嗚咽を弾けさせた。
女はぶるぶると震える両手で、夫の冷えていく手を砕けんばかりに固く握り締めた。涙で汚れた女の視線が、イヒョンの指先にすがりついた。
イヒョンは冷静さを保ったまま、男の脚をもう一度検めた。
脈の強さ、傷の断面の出血の様相、そして男の青白い唇。これ以上ぐずぐずしている時間はなかった。
イヒョンはシャツの袖を肘の上までしっかりとまくり上げた。
「ライル、この人の肩を押さえてくれ。痛みで動くかもしれん」
「……お、俺がですか?」
後ろの隅で息を殺していたライルが、かすれた声で答えた。
「俺、こういうの見ると目が回るんだけど……アニキ、俺マジで倒れるかもしれないぞ」
「なら目を閉じて、肩だけ押さえていろ」
イヒョンの断固とした声に、ライルは泣きべそをかいた顔でよろよろと近づいてきて、男の肩を全体重をかけてぐっと押さえた。
男の肩を掴むライルの指先が、ぶるぶると激しく震えた。
イヒョンの手が、消毒された鉗子と曲がった針を握った。
小屋の中にはもはや、薪がぱちぱちと燃えていく音と、男の口から漏れ出る呻き、そしてイヒョンの低い呼吸だけが流れていた。
頭目をはじめ、野営地のすべての者が息をすることすら忘れ、見知らぬ薬師の指先だけを見つめていた。
イヒョンの指先が、ゆっくりと、しかし一寸のためらいもなく、血に染まった患部の中へ針を押し入れた。
小屋の中をびっしりと埋めていた人々は息を呑んだ。
誰ひとり、あえて口を開く者はいなかった。
四方で刃物を握ったままイヒョンを見張っていた厳つい男たちも、夫の手を握っていた女も、茫然自失のまま固まっていた。
患部をあらわにした途端に漂ってくる悪臭が、鼻を突いた。
傷の周りの組織は、すでに深刻なまでに膿んで爛れていた。
刃に切られた筋肉と皮下脂肪層は酸素の供給が絶たれて黒ずんで壊死しかけており、爛れて破壊された肉の隙間ごとに、粘つく黄色い膿が絶え間なく滲み出していた。このまま閉じれば、血管をつないだところで敗血症で命を落とすのは明らかだった。
イヒョンのメスがためらいなく動いた。
ざく、ざく、という音とともに、彼はピンセットとメスを交互に握り、腐っていく壊死組織を慎重に切り取り、掻き落としていった。
生きた健康な桃色の筋層が現れるまで、汚染された部位を削り落としていく、精密なデブリードマンだった。
「水」
イヒョンの短い指示に、炉の傍らで待機していた男が1人、温かい生理食塩水を傷の奥深くへ流し込んだ。
白く濁って洗い流されていく黄色い膿と血の塊。アルコールを浸した布で患部の周りを入念に消毒していきながら、イヒョンはついに太腿の奥深く、血管の束が走る深部の組織へと分け入った。
『やはり……』
イヒョンの目つきが細くなった。
予想したとおりだった。
大腿静脈が刃に、半分以上きれいに切断されていた。止血帯で圧迫しておかなければ、とうに男の血はすべて床に流れ出て、死んでいたのは間違いなかった。
『運が良かったな。幸い、初期の止血がうまくいっていたらしい』
曲がった針に腱糸を通して握った瞬間、イヒョンの脳裏に、ふとコランでカレンの砕けた脚を治療したときの記憶がよぎっていった。
『あのときに比べれば、今は天国だな』
当時はまともな手術針すらなく、粗雑な針2本でどうにか縫合をしたが、今その手に握られた鉗子と針は違った。
職人エリセンドが丹精を込めて作ってくれた、精巧な銀色の手術道具。
手にぴたりと馴染む完璧な重心と精密な噛み合わせのおかげで、血管を掴んで縫う手さばきには淀みがなかった。
『今度エリセンドに会ったら……ヘッドミラーを一つ作ってもらわないとな』
額に凹面の反射鏡を着けて、灯りを傷の奥深くの穴の中へ集めて照らすことさえできれば、劣悪な環境下での手術は、ずっと楽になるはずだった。
そんな物思いがよぎる最中にも、イヒョンの指先は、1ミリの震えもなく、血管の裂けた断面を整列させていった。
血管壁の内側の内膜を傷つけないよう、外壁を突き合わせて、ひと針、またひと針。
針が肉を貫き、糸が締まっていく微細な摩擦音だけが、息詰まる静寂を切り裂いた。
ついに最後の結び目を縛って切ったイヒョンが、手を伸ばし、男の太腿の上のほうに結んでおいた止血帯を掴んだ。
締められていた止血帯を、ゆっくりと、慎重に解いた。
せき止められていた血が、血管を伝ってどっと押し寄せた。イヒョンの視線が、縫合された静脈の部位に据えられた。
1秒、2秒、3秒。
圧力を受けた血管がぷくりと膨らんだが、糸で縫った継ぎ目の隙間から漏れ出る血は、ほとんどなかった。
完璧な縫合だった。
「……ふう」
イヒョンの唇の間から、短く低い息が漏れ出た。
彼は遅滞なく背嚢から、消毒された丈夫な馬の尾毛の縫合糸を取り出した。張力に耐えねばならない深部の大腿筋層を層ごとに引き寄せて縫い、最後に外皮の切開創を入念に縫合して閉じた。
それこそ、ただ人間の手と鉄だけで成し遂げた、奇跡のような術式。
だが、その手術を執刀するあいだじゅう、イヒョンの全身から放たれた圧倒的な集中力と、小屋全体の空気を押さえつけていた重圧の前では、誰ひとり、あえて息の音一つ立てることもできなかった。
血を怖がっていたライルでさえ、男の肩を岩のように押さえたまま、ぎゅっと目を閉じて唇を噛み締めているだけだった。
最後の糸を切り取ったイヒョンは、アルコールの布で縫い合わせた場所を清潔に拭き取ってから、乾いた包帯を分厚く当てて、手際よく巻き上げた。
「この人を、もう一度寝台へ移してください」
イヒョンの低く確信に満ちた声が、沈黙を破った。
頭目をはじめとする野営地の人々は、相変わらず夢でも見ているような呆けた顔だったが、彼の指示が落ちるや否や、まるで熟練した兵士のように一糸乱れず動いて、男をふたたび慎重に寝台へ移した。
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