330. 野営地
森の中の空気は静まり返っていた。
西から吹いていた冷ややかな川風さえ、数十メートルの高さにびっしりと生い茂る巨木に遮られ、風と呼ぶのもためらわれるほどの、ごく弱い空気の流れしか感じられなかった。
じめついた苔と腐った落ち葉の匂いに混じって漂ってくる粘つくような焦げ臭さは、一方向から吹いてくるものではなかった。それはまるで、森全体の湿った空気の中に、煤煙のようにほのかに漂っているかのようだった。
『これでは正確な位置を突き止められんな』
イヒョンは五感を研ぎ澄ませた。
目では折れた枝や、足に踏み潰された草の葉の痕跡を忙しなく拾い、鼻先ではわずかに変わる焦げ臭さの濃度の変化を追い、耳では異質な音を聞き分けようと神経を集中させた。
しばらくそうして慎重に進んでいる最中だった。
濃い茂みの向こう、遠くのほうで低くぼそぼそと話す男たちの声とともに、鉄と鉄がぶつかる短い金属音が、イヒョンの耳をかすめた。研ぎ澄まされた剣や鉄製の器具が擦れ合うときに生じる、鉄の音に違いなかった。
イヒョンが片手を斜めに掲げて、止まれという合図を送った。
イヒョンのすぐ後ろに続いていたライルは生唾をごくりと呑み込むと、イヒョンの動きに合わせて、ほぼ同時に体を地面へぺたりと低くした。
『金属同士がぶつかる音は、障害物がなければ100から200メートルは届く』
イヒョンは周囲を見渡しながら、頭の中で音との距離を細かく測った。
びっしりと並ぶ木の幹と生い茂る葉という障害物を考えれば、この音の発生源は、思っているよりはるかに目と鼻の先であるに違いなかった。奴らが密やかに隠しておいた本拠地か、仮の陣地が、すぐそこにあるのはほぼ確実だった。
イヒョンは音のした方角へ、慎重に足を運んだ。苔の地面を踏む音さえ完璧に殺したままだった。ライルもまた、息を殺してイヒョンの後ろをぴたりと追った。
びっしりと並ぶ木々を慎重に掻き分けて進むと、イヒョンの目の前で視界が一息に開け、予想よりはるかに大規模な野営地が姿を現した。
広く切り拓かれた空き地には、丸太を粗く組んで立てた外壁、その内側に小屋が6、7軒、円を描くように取り囲んで配されていた。その合間合間の狭い隙間ごとに、歳月の垢が染みついた亜麻布の天幕が、ぽつぽつと張られていた。
野営地の中央には、焚き火を焚いていた石の山があった。今は炎が消えて、底の熾火だけがほのかに息づいていて、灰色の煙が細く長く立ちのぼっていた。
森でイヒョンの鼻先をかすめていた焦げ臭さの正体は、まさにあの立ちのぼる煙の柱だった。
空き地の片隅には、丸太を割って立てた粗雑で頼りない柵が巡らされており、その中では山羊が数頭、のんびりと干し草を食んでいた。
野営地の片側には古びた物干し綱が張られ、その上で衣類が風にゆっくりと揺れていた。反対側には、巨大な古木の根元をくり抜いて作った貯蔵庫のようなものがあり、上には板の蓋がかぶせられていて、その周りでは男たちが数人集まって働いていた。
仮に作った隠れ家にしては、あちこちに見える生活の痕跡があまりにも鮮明だった。まるで荒々しい森の闇の奥深くに、長らく根を下ろして形づくられた村落のような印象を漂わせていた。
そしてその小屋と天幕の間には、槍と剣で武装した男たちが四方に警戒に立ち、配置されている様子が視界に入ってきた。ざっと見渡しただけでも、20人はゆうに超えていた。
イヒョンは古木の陰に身をぺたりと伏せたまま、息を整えて野営地全体をじっくりと見渡した。
いかに自分の実戦能力が上がったとはいえ、成人男性20人余りを一度に相手取るのは無謀な真似だった。
まして、ライルの存在も計算に入れねばならなかった。
『ライルのコルディウムの暴走を当てにして戦いを始めるなど、なおさらできる話ではない。コルディウムが発動したところで、それはそれで問題だ』
命を懸けた実戦で、変数と運に身を委ねる行為は、イヒョンには決して容認できないことだった。
『戦闘は極力避ける。そのためには、奴らの正体をもう少し正確に知らねばならない』
イヒョンは息を整えながら、さらに数分ほど観察を続けた。
そうして静かに野営地の人の流れを把握していたイヒョンの視界に、思いもよらぬ光景が飛び込んできた。
槍と短剣を提げ、刃物のような殺気を漂わせる武装した男たちの間を、古びて色褪せたスカートを穿いた女たちが、洗濯物を抱えて行き来していた。
その後ろで、5つか6つくらいに見える子どもが2人、湿った土の地面に木の枝で悪戯をしているのも目に入ってきた。
小屋の前、苔に覆われた切り株には、枝の杖をついた老人が腰かけ、気だるく降りそそぐ陽を浴びながら、うとうとしている姿も見えた。
イヒョンの眉間が、おのずと細く深く寄せられた。
『これが本当に盗賊団の隠れ家か?』
血の匂いと殺気が立ちこめているはずの山賊の群れのアジトにしては、女と子ども、そして老人までもが自然に溶け合っている風景が、あまりにも平和で、奇怪だった。
この風景は略奪者の隠れ家というより、小さな村が一つまるごと森の奥深くへ入り込み、隠れ住んでいる村落に、はるかに近く見えた。
だが、街道脇の草むらで見つけた護衛兵の惨たらしい遺体と状況証拠から見れば、ここがディオニシウス一行を襲った集団である可能性は、依然としてもっとも大きかった。
かといって、いきなり茂みの外へ歩み出て「あなた方があの襲撃犯か?」と尋ねるわけにもいかなかった。
もし彼らが本当の襲撃犯ではなく、ただの避難民であれば、ディオニシウスや森についての決定的な情報を得られるだろうが、もし本当に襲撃犯であるなら、歩み出た瞬間に十数人の精鋭の屈強な男たちと、命を懸けた血闘を繰り広げざるを得なかった。
隣にぺたりと伏せていたライルが、イヒョンの肩にぶら下がるようにぴたりと寄ってきて、低く囁いた。
「これからどうするんだ? 盗賊団で合ってるのかよ? 盗賊団にしちゃ、なんかちょっと妙なんだけど」
「……少し考える時間が要る」
イヒョンが低く呟いた。
だが、いつまでもこの場に悠長に留まっているわけにもいかなかった。観察が長引けば、周囲を巡回する警戒兵や、駆け回る子どもたちに見つかる危険も、しだいに大きくなっていった。
イヒョンは草むらの陰に身を潜めたまま、隠れ家の人の流れを見極めつつ、じっと計算に沈んだ。
20人を超える武装した男たち、女と子どもの入り混じった巨大な村落の形態、そしてあの巨大な古木の根元の貯蔵庫の穴に監禁されているかもしれないディオニシウスの生死まで。
『密やかな潜入か、さらなる偵察か、あるいは強行突破か』
選択肢が鋭く枝分かれしていた、まさにその刹那だった。
イヒョンの背後にぴたりと密着して伏せていたライルが、野営地を静かに満たしているその奇妙で深い沈黙をじっと見つめていたかと思うと、ふいにひょいと首を突き出して尋ねた。
「いつも得意にしてることがあるじゃんか。あれをやればいいんじゃないのか?」
イヒョンが視線だけをそっと横へ向け、素っ気ない冷ややかな眼差しでライルを見やった。
「……それは何だ」
「どうせその背嚢の中に、ありとあらゆる薬だの薬草だのが、たっぷり入ってるんだろ」
ライルが顎でイヒョンの肩に掛かった革の背嚢を指し示した。
「薬草商のふりをしてさりげなく近づいて訊いてみて、奴らが怪しい出方をしてきたら、そのまま一目散に逃げればいいんじゃないか?」
イヒョンは一瞬、目を大きく見開いてライルをじっと見つめた。
言葉に詰まるほどの衝撃だった。
イヒョンはひたすら、どうやって密かに潜入するか、どうやってさらに偵察するか、もし戦闘になったら数の劣勢を覆してどう制圧するか、そればかりに頭を忙しなく働かせていた。だがライルの大胆かつ単純な直観は、正面突破と潜入という二分法に囚われていたイヒョンの盲点を、一息に容赦なく突いてみせたわけだった。
ライルの言葉には、確かに一理あった。
20人ほどの武装した男たちだけでなく、女と子ども、老人までもがともに暮らす自治村落の形を取ったアジトであれば、怪しげな武力の侵入者でないかぎり、流れの薬草採りにいきなり刃を突きつけてくる確率は、きわめて低かった。
「……どうしてこんな状況で、そんな考えが浮かんだんだ?」
イヒョンが呆気に取られた表情を拭いきれぬまま尋ねると、ライルは自分が何か大層な発見でもしたのかとでもいうように、肩をすくめてみせた。
「俺はてっきり、アニキがとっくにそうするつもりなんだと思ってたのに、なんでここで悩んでるんだろうって、不思議だったんだよ」
ライルがぶつくさ言いながら言い添えた。
「アニキ、もともとそういう自然な嘘だの薬売りのふりだのが、やたら上手いじゃんか。この前のブレサウンでもそうだったし」
イヒョンは、自分のイメージがいつの間にか『自然な詐欺師』ないしは『完璧な偽装の専門家』として固まってしまっているらしいライルの評価に、わずかに苦々しい表情を浮かべてみせた。
だが、すぐに低く頷いた。ライルの提案は、否定しようのないほど、きわめて理にかなっていたからだ。
『薬草商、あるいは流れの薬師か……』
イヒョンの頭の中で、忙しなく歯車がふたたび回りはじめた。
イヒョンは膝を折って静かにしゃがみ込み、肩に掛けていた重い革の背嚢を下ろした。
背嚢の中をぎっしり埋める種々の薬材と乾燥した薬草、薬瓶の状態を、入念に点検した。20人余りの武装した男たちと住民が刃物のような目で見張る丸太のアジトのど真ん中へ、自分の足で歩み入る正当な名分、そして万一にも策が狂った場合に逃走する最短の撤退経路まで、頭の中で一糸乱れず計算した。
『これだけあれば、それらしい薬草採りの真似をするのに不足はないな』
だが、偽装の名分を立てるにあたって、論理の綻びがあっては決してならなかった。イヒョンは、相手を欺くときに、ごく小さな状況の不一致がどれほどの破局を招くかを、よく知っていた。
「物を売りに来たというのは不自然だな」
イヒョンは独り言のように低く呟いた。
ここは森の奥深くに密やかに隠れ住む村落だ。外部から断絶したまま暮らしている彼らを見るに、正式な商人や、物を売り歩く流れの行商が、こんな森のど真ん中までやみくもに歩み入って物を売ると言い出すのは、筋がまるで通らなかった。かえって村落を探りに来た者と疑われ、攻撃される可能性が高い。
物を売りに来た怪しげな商人よりも、珍しい田舎の薬草や茸を求めて森をさまよううちに方角を見失い、たまたまここへ足を踏み入れてしまった、哀れな薬草採集者に偽装するほうが、はるかに自然で安全だった。
イヒョンは周囲の地形を目で精密に見渡した。
草むらと苔に覆われた岩から左手へ続く、緩やかな斜面の道が目に入った。びっしりと並ぶ巨木の幹の間を抜け、森の外の街道の方角へ一直線につながる、いざとなれば逃げるのにもっとも速く、最短距離の退路だった。
撤退経路まで頭の中に完璧に描き出したイヒョンが、横を振り返った。
「ライル。準備はできたか?」
イヒョンの問いに、ライルが泣きべそをかいた顔で答えた。
「……いや、まったく」
「おまえの案じゃないか」
「頭の中の考えがそうだってだけで、俺が歩いて入る準備ができたって意味じゃないからな!」
ライルはイヒョンの目をじっと見つめてから、ふうっと溜め息をついた。
「はあ……それでも、行かなきゃならないんだろ?」
「ああ。行かないとな」
イヒョンは革の背嚢の紐をそっと緩め、荷物をわざとぞんざいに背負い直した。
そうして背嚢の中から、たった今点検したばかりの乾燥した薬草を数本取り出し、背嚢の外側にぽつぽつと吊るした。あちこち転がり回って薬草や茸を探し歩く、典型的な流れの採集者の、いかにも頼りない風体だった。
傍らで様子をうかがっていたライルもまた、革のベストの襟に、自ら進んで土をごしごしと擦りつけた。
こいつは肩に掛けた荷物を不格好に揺すり上げながら、それなりに薄汚れて見える採集者の真似をした。船酔いで落ち窪んだ目のおかげで、これといった扮装もなしに、道に迷った哀れな風体が自然に完成していた。
すべての支度を終えたイヒョンは、地面に向かってわざと足音をどすどすと立てながら歩を進めた。
足の下で乾いた小枝と湿り気を帯びた落ち葉がかさかさと鳴り、けたたましい摩擦音を四方へ撒き散らした。静まり返っていた森の静寂に波紋が広がった。
「……こっちだと思うんだが、いや、あっちか?」
イヒョンがいかにも見当のつかない貧しい薬草採りのように、素っ気なく、拙い独り言を、森の冷ややかな空気の中へ大きく流した。
「いや、アニキがさっきあっちだって言ったじゃんか!」
ライルも唇を尖らせながら、ぎこちないながらもイヒョンの芝居に調子を合わせた。
「このままじゃマジで道に迷うぞ。俺、腹も減って死にそうなんだけど……」
「まったくだな。この辺りのどこかに、茸と珍しい薬草があると聞いたんだが……」
イヒョンは生い茂る茂みを四方へ掻き分けるふりをしながら、2人の話し声が鬱蒼とした樹木の向こう、野営地のど真ん中まで自然に届くように、ゆっくりと足を運んだ。
その瞬間。
野営地を満たしていた生気が、嘘のようにぴたりと止まった。
土の地面に木の枝で落書きをして遊んでいた幼い子ども2人は、ぴたりと動きを止め、物干し綱に濡れた衣類を干していた女たちは、鳥肌が立ったように肩をすくめ、そろりと子どもを抱き上げて丸太小屋の中へ隠れていった。
そして、小屋の合間合間で武器を手入れしたり、革をなめしたりしていた屈強な男たちが、音の聞こえてくる茂みのほうへ首を巡らせた。
男たちが腰に提げていた剣の柄を握り締めたり、槍を握り直したりする音が、空気の中に広がった。
イヒョンは疲労に憔悴しきったような表情を、しれっと浮かべてみせながら、平然とした足取りで野営地の入り口に向かって、まっすぐ歩み出ていった。
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