329. 跡
コランの巨大な城門を背にして南の街道へ入ると、土の生臭さと、湿り気を吸った草の匂いがむっと押し寄せてきた。
数日前に降った雨のせいか、道の上には水気を含んだぬかるみと、浅く掘れた水溜まりが点々と並んでいた。低い角度から照りつける朝の陽射しが水面の上で粉々に砕け、銀色の鱗のようにきらめいていた。
「これでは馬車の轍を見つけるのは難しいな」
大きな船を運べるほどの大型の馬車であれば、車輪の跡が必ず残っていたはずだが、雨のせいで一面ぬかるみと化し、痕跡を見つけるのは不可能に思えた。
「これ、マジで見つからなさそうなんだけど」
横を緩慢な足取りでついてきていたライルが、街道を見回して地面を眺め、眉間をくしゃりと寄せた。
「痕跡もないのに、いったい何を頼りに追いかけるんだよ? これじゃ職人を探すどころか、馬車の跡も見つけられないぞ?」
「痕跡は見つからんだろうが、船をまるごと載せるほどの馬車なら、街道を大きく外れることはできなかったはずだ」
イヒョンは、すでに雨ですっかり消し去られたように見える街道と、その周辺を見渡しながら答えた。
「馬8頭が曳く大型の貨物だ。竜骨と木造船体の重量だけでもかなりのものだろう。それほどの重さなら、街道を外れれば車輪が草むらにめり込んで、にっちもさっちもいかなくなる。ぬかるんだ土地や、道幅の狭い道には入らなかったはずだ」
イヒョンの説明に、ライルは口を尖らせながらも、それ以上は口を挟めなかった。
だが、こいつの腑に落ちないという表情まで、完全に引っ込んだわけではなかった。ライルは肩をがっくりと落としたまま、イヒョンの背中を追って、ふらふらと足を運んだ。
街道の両脇に生い茂った雑木林の間を冷ややかな風が通り抜けるたび、木の葉の先に結んでいた雨粒が、音を立てて地面へ落ちていった。
2人は半日以上も南へ移動し、日が中天に昇って街道を熱く照りつける頃、街道が緩やかな弧を描いて曲がる地点に差しかかった。左手には、陽光すらまともに差し込まない鬱蒼とした暗い森が、雄大に広がっていた。
「アニキ、そろそろマジで引き返すべきなんじゃないか?」
だらりと垂れた脚でどうにか足を運んでいたライルが、ついに堪えきれず、道端の粗い岩にどさりと腰を下ろした。こいつは汗に濡れた額を拭いながら、ぜえぜえと息を切らした。
「今引き返したって、コランに着くのは夕方だぞ。ここからさらに進んだら、道の真ん中で野宿する羽目になるって。もう戻ろうぜ」
イヒョンは足を止め、街道が曲がる森の曲がり角をじっと見つめた。風が森の枝々を揺らしていた。
「もう少しだけ探して、何も見つからなければ、ひとまずコランへ戻ろう」
イヒョンの答えに、ライルが悲痛そうに溜め息をついて頭を垂れた。
「アニキ。さっきからずっと、もう少しだけって言ってるんだからな。もう少しだけって言ったのが何回目か分かってる?」
「あそこに見える森の縁まで続いている場所、そこまでだけ確かめてみよう」
「はあ……」
街道が折れ曲がる森の暗い境界線の近くまで来たとき、イヒョンの視線が道の端で止まった。
街道の縁にある岩が一つ割れていて、そのすぐ上に垂れ下がっていた巨大な柳の枝が1本、粉々に折れたまま下へ曲がっていた。
何気なく通り過ぎていたなら、決して気づかなかったであろう痕跡だった。岩の断面から見るに割れてからそれほど経っていないようで、そのすぐ横の折れた枝は、そこを通ってかなり大きな物体が突っ込んだことを示しているようだった。
その砕けた跡に続いて、草むらと小さな茂みが数株、重い圧力にことごとく踏み潰されたまま、一方向へ倒れていた。折れた茎の断面から滲み出た、青くさい匂いが漂っていた。
イヒョンは足を止め、ゆっくりと膝を折って、じっくりと覗き込んだ。
茂みの周りには、大きな荷重を受けて割れたと見られる石の欠片が散らばっており、その向こうの森のほうへ向かって不規則に続く轍が目に入った。まともな馬車なら決してつけられない、幅広く深く抉られた軌跡だった。
数トンにも及ぶ木造の船体と、重い馬車の車輪が、ぬかるんだ土を押し潰して通り過ぎていった痕跡。その深い溝の合間合間には、馬の蹄の跡が乱雑に重なり合い、踏み荒らされていた。
「ライル、これを見ろ」
イヒョンが痕跡を指し示して、ライルを呼んだ。
後ろからついてきていたライルが近づいて、地面に連なる痕跡を見るや、軽口の不平を吐き出そうとしていた唇を閉じた。
「……これは、たしかに何かおかしいな」
2人は街道を外れ、その痕跡をたどって森の縁のほうへ、慎重に足を運んだ。
鬱蒼とした森の生い茂る枝々が朝の陽射しを遮り、まだ森に入ってもいないのに、冷ややかで薄暗い影のせいで、まるで夕方になったかのような感覚を覚えた。
そして、森へ向かって幾歩も進まないうちだった。
風の流れがかすかに変わり、暗い森の奥深くから、湿って粘つくような空気の塊が、むっと押し寄せてきた。
「うっ……!」
ライルが手で鼻を押さえた。
「この匂い……これ、何か腐ったような匂いなんだけど?」
馬車が通ったと見られる痕跡の果て、闇が濃く垂れこめた森の奥から、何か巨大な悲劇が2人に向かって、腐りゆく息を吐き出しているようだった。
生い茂る草むらと絡み合った茂みを掻き分けて踏み入ると、森の木陰の下に、死体が何体か転がっていた。
高価な鎧や武器、衣類はことごとく剥ぎ取られて裸同然の状態で、青黒く腫れ上がった肉は、すでに腐敗がかなり進み、血の塊とともに、形を見分けるのも難しいほどだった。
ぶんぶんと飛び回る蠅の群れがたかる死体の上から、腐りゆく凄まじい悪臭がむっと押し寄せてきた。
「うぶっ……! げほっ、おええっ!」
後に続いていたライルが手で鼻と口を押さえたが、鼻先を容赦なく突く死臭に耐えきれず、何歩もよろめきながら後ずさった。
こいつは青白く血の気の引いた顔で、喉元までせり上がってくる胃液をかろうじて呑み下しながら、えずきを繰り返した。
「これ、これ死体じゃんか!」
イヒョンは顔色一つ乱すことなく、冷静で淡々とした眼差しで遺体を見つめた。
救急室と手術室、そして死体安置室で、数えきれないほど向き合ってきた死だった。惨たらしい光景に感情を奪われたり、無用な動揺を起こしたりするよりも、目の前に置かれた明確な事実と人体の痕跡を読み取ることのほうが、イヒョンにとっては本能に近い行動だった。
イヒョンは躊躇なく地面に片膝をついてしゃがみ込み、遺体を一つずつ検めていった。指先で遺体の骨格と皮膚の状態を精密に探っていく、その目と手には、ためらいなど微塵も見当たらなかった。
『商人や、ただの荷運び人夫ではないな』
1体目の遺体の脛を調べていたイヒョンの目つきが細くなった。脛骨の中央部に不自然に盛り上がった重々しい節、古い骨折の痕だった。骨が本来の位置から大きくずれたまま、歪に癒合して固まってしまった仮骨の跡は、訓練や軍隊式の強行軍の最中に負った怪我を、まともな手当てもないまま耐え抜いた痕跡のように見えた。
続いてイヒョンの視線が、遺体の右手へ向かった。腐敗して黒ずんだ手のひらには、分厚いたこが幾重にも重なってできていた。
荒い鋤の作業や、重い荷を運ぶ単純労働者のたことは、明らかに質が違っていた。人差し指の第二関節と親指の内側、そして手のひらの中央部にだけ集中してできた摩擦の痕。木の柄や、丸い鉄製の武器の握りを、何年にもわたって固く握り締めたときにのみ形成される、戦いに鍛え上げられた者たちの手だった。
次いで遺体の上体をそっと押し上げると、右の脇腹の肋骨の間に長く引かれた、太い傷跡が姿を現した。すでに完全に塞がって久しく、白く変色した刺し傷の跡。鋭い刃物が体の奥深くまで食い込んだ、戦場でかろうじて命を拾って得たと思われる、明白な戦闘の痕跡だった。
『職業軍人だった可能性が高い。傭兵か、商団の護衛兵だったんだろうな』
訓練と実戦の経験を備えた武装人員。イヒョンは手についたものを払い落としながら、ゆっくりと立ち上がった。
「職人を護衛していた兵士たちだったようだな。盗賊の群れに襲われたらしい」
ライルが相変わらず青ざめた顔で、手で鼻を押さえたまま、蚊の鳴くような声で問い返した。
「じゃあ……その職人とかいう人も……?」
襲撃の現場で惨殺された兵士たち。それはつまり、彼らが守ろうとしていた対象もまた、命を保証されてはいなかっただろうという推論につながった。
だがイヒョンは、視線で草むらの周りの踏み潰された跡と血の痕を、もう一度精密に調べはじめた。
「分からん。ひとまず周囲に遺体は3つだけだ。職人のものと思われる遺体はない。この死体は、全部がその職人のものじゃなさそうだ。おそらく、ほかの者たちは人質に取って、身代金を要求しようとしているのかもしれん」
イヒョンの低く落とした視線が、街道の脇に長く連なる鬱蒼とした森の境界線へ、自然と向かった。
朝の陽射しすら割って入れないほど、枝々がびっしりと入り口を塞いでいる森だった。太い広葉樹と苔に覆われた岩があたり一面に巨大に立ちはだかっていて、外からの者が身を密やかに隠すには、この上なく完璧な天然の陣地も同然だった。
逆に言えば、内部の事情を知らない軍や兵士たちが、迂闊に隊列を組んで近づくには、悪条件だという意味でもあった。
イヒョンが躊躇なく草むらを掻き分けて森のほうへ重い足を運ぶと、後ろに立っていたライルがぎょっとして、イヒョンの肩をがしりと掴んだ。
「ちょ、ちょっと待て!」
ライルが瞳を四方へ巡らせ、声を慌てて落として叫んだ。
「確かでもないのに、あの暗い森に入るってのか? 俺たち今、ろくに準備もできてないじゃんか!」
悪臭の立ちこめる死体を3つ、目の前で目撃した直後だった。どこから敵が飛び出してくるか分からない森の沈黙は、ライルを刺激するのに十分だった。
イヒョンは肩を引く手にも一切揺らぐことなく、淡々と答えた。
「もし職人か、一緒に来た商人の中に生きている者がいるなら、一刻も早く見つけなければならない」
感情に振り回されるよりも、目の前の事実と生存者の可能性を優先するイヒョンの気質が、また発動していた。
「そりゃそうなんだけど……」
ライルが唾を呑み込み、肩をすくめたままイヒョンを見た。
こいつは相変わらず怯えきった表情で、森の闇を睨みつけていた。
「分かったよ、行く。その代わり、アニキが先に立ってくれよ」
イヒョンは特に答えもせず、足を運んだ。
いかに草むらが生い茂り、人の足を拒む傾斜した森だとしても、人が定期的に行き来したり、巨大な貨物が通ったりした場所であれば、小さな道の痕跡が必ず残るものだった。踏まれて潰れた苔の断面、枝の先に細く引っかかった繊維の切れ端、そして重い荷重に土が押されて固く締まった跡。
イヒョンは鋭い観察眼を総動員して、地面に散らばったその微細な痕跡を一つずつ拾い上げながら、森の奥へゆっくりと足を踏み入れた。
森の境界線を越えた途端、頭上を照らしていた陽射しが、嘘のように消え失せた。
数十メートルはゆうにありそうな太い広葉樹と古木がびっしりと空を塞いでいるせいで、たしかに真昼のはずなのに、夕闇が降りたかのように四方が薄暗く染まっていった。
闇の中のどこかから、名も知れぬ獣の陰気な鳴き声が不気味に響き渡り、足元の湿った落ち葉をかさかさと踏む音さえ、やけに大きく響き渡った。
ライルは腰から引き抜いた短剣の柄を、手が白くなるほど固く握り締めていた。先ほど遺体を目撃した残像がまだ残っているのか、こいつは肩をすっかりすくめたまま、イヒョンの背中に蝉のように張りつかんばかりについて歩いた。
「暗すぎるから、松明でも……」
ライルが震える声で囁いた。こいつの瞳が不安げに揺れていた。
「だめだ」
イヒョンが視線も向けぬまま、断固として低く切り捨てた。
「火は諸刃の剣だ。こちらが周りを見られるようになるぶん、どこかに潜んでいるかもしれん盗賊どもにも、俺たちの位置がいとも簡単に割れる。視界を得る代わりに、標的になるってことだ」
イヒョンの淡々とした返しに、ライルは文句も言わずに口をつぐんだ。
びっしりと並ぶ木の幹と生い茂る茂みが延々と繰り返されると、ライルは生唾をごくりと呑み込んで、足取りをしだいに緩めていった。こいつがイヒョンの袖をそっと引きながら、不安がぽたぽたと滲み出る声で、低く囁いた。
「アニキ、俺たちこのままじゃ道に迷うんじゃないか? 四方が全部同じに見えるんだけど……どこもかしこも似たような木ばっかりじゃんか」
イヒョンは足を止めぬまま、懐に手を入れて小さな羅針盤を一つ取り出した。真鍮で彫られた羅針盤の針が、かすかに震えながら方位を指し示した。イヒョンは羅針盤をそっと傾けて、ライルの目の前に見せてやった。
「この森を北西へまっすぐ進み続ければ、必ず川に出る。方角さえ押さえていれば道に迷うはずがないから、心配するな」
ライルは瞳を二度ほどしばたたかせて、小刻みに揺れる羅針盤の針と、少しの動揺もないイヒョンの素っ気ない顔を交互に見やった。こいつは理屈で言い返す言葉を見つけられず、やがて口を尖らせて、悔しそうにぶつぶつと呟いた。
「いや……そういうことじゃなくて……」
ライルの不平に、イヒョンは微笑みを浮かべると、ふたたび足を運んだ。
そうしてしばらく歩を進めていたイヒョンの鼻先に、ふと見慣れぬ空気の筋がかすめた。
湿った土の生臭さと苔の香りの間に、きなくさくかすかな……しかし確かな、何かが焼けるような匂いだった。木が燃えながら吐き出すぴりりとした煙の香りが、風に乗って密やかに忍び込んできた。
周りのどこを見渡しても、薄暗い森の奥に灯りや松明の類いは見えなかった。濃い樹木の陰影が視界を完全に遮っていたが、空気の中に散っていく匂いまでは、ごまかしきれるものではなかった。
『近くに奴らの本拠地がある』
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