328. 船酔いと身分証
フルティバ号は、3日3晩休むことなく川筋を遡っていった。
風が良いときには帆がぴんと膨らみ、船は荒い水面を切り裂いて、滑るように進んでいった。
だが風が途切れたり、曲がりくねった急流の瀬に差しかかったりすると、2頭の馬にハーネスを掛けて綱を結び、船を曳いたり、船員たちが木のウインチを巻き上げながら、流れに逆らって船を引き上げたりした。
陸路で移動していたなら、曲がりくねった街道を通るせいで、ずいぶんと余計にかかる距離だった。
だが川を押し分けて遡ったおかげで、彼らは貴重な時間を稼ぐことに成功した。
「俺はもう、水なんて……見るのも嫌だ……」
ついに陸地へ靴底が触れた瞬間、船酔いで落ち窪んだ目をしたライルが、力の抜けた脚でふらつきながら草むらの中へ身を投げ出した。
湿った土に顔を擦りつけるようにうつ伏せたこいつが、ぶるぶると震えながら、呂律の回らない声で力なく呟いた。
「二度と船には乗らねえ、マジで。死んでも乗らねえ……」
イヒョンは背嚢の紐を締め直しながら、地面にのびているライルを見下ろした。
「おまえ、南部の自由都市の出だと言っていなかったか?」
「そうだよ……」
「あそこは海岸都市だろう。船に乗ったことがないのか?」
ライルが悔しそうに、泥だらけになった顔をがばっと上げて、ぐずぐずと言い立てた。
「ほとんどないんだって! 海岸都市に住んでるからって、みんなが船に強いわけじゃないんだよ。海岸都市でだって、魚を獲ったり商売したりする連中が船に乗るんであって、海岸都市の出だからって全員が船に乗ると思ったら、そりゃマジで大間違いだからな!」
「それもそうだな。俺はおまえがこんなに船酔いするとは、想像もしていなかったよ」
「前に乗った船は、全然こんなじゃなかったのに……」
「前に乗った船は、なかなか大きかったんだろうな」
イヒョンの素っ気ない返しに、ライルはふたたび土の地面に額を押しつけ、深い溜め息を吐き出した。
船が停泊した場所は、コランの正式な船着き場からずいぶん離れた、人の足がまったく届かない密やかな川岸だった。
背の高い薄と雑木が鬱蒼と生い茂っていて、黒い船体を外から隠すには、この上なく完璧な緑の木陰だった。
早朝の立ちこめる霧が水面の上にかすかに散っていくなか、船べりに身をもたせかけたエダンが手を振ってみせた。
「我々は3日後にまた発ちます。もし合流するおつもりがあれば、先ほど申し上げたとおり、コランの広場の市場にある『沈黙の杯』へお越しください。手順は同じです」
「ずいぶんとお世話になりました」
イヒョンとライルが湿った川岸へ完全に降り立つと、エダンの部下たちが長い竹竿で川底を押し出した。
フルティバ号は低い水音だけを残して、静かにふたたび川の水の上を滑るように戻っていき、夜明けの川霧の中へと姿を消した。
フルティバ号が残していった波が、川岸に沿って密やかに散っていく様子をじっと眺めていたイヒョンは、生い茂る葦原の向こうに威容を現したコランの巨大な城壁へと、ゆっくり視線を向けた。
湿った薄の間を掻き分けて歩き出ると、冷ややかな湿り気の混じった夜明けの風が鼻先をかすめた。
ライルはまだ船酔いが残っているのか、腹をぎゅっと押さえたまま、断続的にえずく声を漏らし、全身をぶるぶると震わせた。
「……これからどうするんだ?」
「ひとまず情報を集めないとな」
「ルカエルとかいう御仁に、もうちょっと詳しく訊いてくればよかったんじゃないのか?」
ライルは口を尖らせながら、イヒョンの後ろをよろよろとついてきた。不満でいっぱいの顔には、冷や汗がてらてらと浮いていた。
「ついてきたはいいけど、あまりにも漠然としてるじゃんか。砂漠で針を探すんじゃあるまいし……」
「ルカエルさんも、あの職人についての消息が途絶えた状態で、それ以上知れることがなかったんだ。もう、自分の足で歩いて探すしかない」
イヒョンは応じながらも足を止めず、城門へ向かって歩を進めた。その頭の中では、現実的な問題が忙しなく噛み合って回っていた。
『地球の最初期の実用蒸気船も、少なくとも十数メートルから20メートルには達していた』
1807年にフルトンが建造したクラーモント号や、初期の実用外輪船の規格が思い浮かんだ。ボイラーを支えるための頑丈な構造と動力機関、巨大な外輪を備えた船舶は、物理的に一定以上の大きさにならざるを得ない。
そんな巨大な機械構造物を、誰にも知られずに川へ浮かべたり、陸路で移動させたりすることは、不可能に近かった。
まして、噂で耳にしたディオニシウスの行跡によれば、船をまるごと運ぶために、馬8頭が曳く巨大な特殊荷車を動員したという話だった。
『馬8頭の牽引力を考えると、大きさはおおよそ10メートルほどか……』
10メートルに達する巨大な構造物が陸路を進んでいったのなら、間違いなく道端の大勢の人々の視線を一身に浴びたはずだった。そして、それほどの規模の貨物となれば、検問所を通らずに入ってくる方法はない。
『これだけの大きさの貨物で、しかも貿易連合の委員長が直接要請した輸送だというなら、検問所が見落としたはずがない』
厳格さで知られる城門の検問所の性質上、輸送書類と通行許可証、そして通行税の記録台帳に、必ずその貨物の記録が残っているはずだった。
「ライル、ひとまず検問所から行ってみよう」
「……そんなこったろうと思ったよ。どうせ行って、また人を捕まえて訊いて回るんだろ?」
ライルが疲れた声で、長々と溜め息を吐き出した。
コランの中央検問所は、朝早くから噴き出す熱気で満ちていた。
雄大にそびえ立つ石壁の下へ、商人たちの連なる荷車と馬車が、長い蛇のように数珠つなぎになって延びていた。獣たちの鳴き声と、車輪が砂利の地面を踏んで通り過ぎるがたがたという音とともに、川から吹いてくる風が土埃と混じり合って鼻先を刺激した。
「次!」
鎧をきちんと身につけた城門の兵士たちが、よそ者の身分証と貨物目録を一つひとつ検める。
長らく列に並んで待った末、ついにイヒョンとライルの番が回ってきた。
兵士が兜をそっと押し上げ、素っ気ない、警戒の滲む眼差しでイヒョンを見やった。
「身分証をご提示ください」
「ああ、はい」
イヒョンはいつものごとく、自然な仕草で首に掛けている認識票を取り出そうと、革の服の懐へ手を差し入れた。
だが、手に触れるのは、旅人の上級試験のために受け取ったカラディウムの認識票と、レミュ子爵からもらったペンダントだけだという事実に、すぐに気がついた。
『しまった……!』
一瞬、イヒョンの眉間がかすかに引きつった。
ここ数日、物事があまりにも順調に運んで気が緩んでいたせいだろうか、それともディオニシウスという職人を探さねばという思いに、神経がすっかり奪われていたせいだろうか。
よりにもよってコランの城門を通る際に、もっとも基本的に差し出すべき、まともな通行証や身分証を用意していなかったのだ。
『ベルティモに通行証だけでも先にもらっておくべきだった……失策だな』
ためらうイヒョンの手つきをじっと見ていた兵士の眼差しが、ただならぬ色に沈んだ。検問所の兵士とイヒョンの間に、奇妙に張りつめた静寂が漂った。
「……ああ、少々お待ちを」
イヒョンはぎこちなく咳を一つ吐き出しながら、冷や汗をかきつつ懐の隅々まで探った。
結局その指先がようやく探り当てたのは、以前アクイラ村のジモンから受け取った、印章の押された田舎の身分証だった。
検問所の兵士は眉をひそめたまま、イヒョンが差し出した古びた羊皮紙の書類を、素っ気なく受け取った。
兜の下を伝う汗を拭いながら、アクイラ村のジモン村長の無骨な署名と、その下に記された『ソ・イヒョン』という文字を目で追っていた兵士の瞳が、瞬く間に真ん丸に見開かれた。
「……え?」
兵士が顎をがくんと落とし、慌てて顔を上げた。手にした書類とイヒョンの顔を二度ほど容赦なく見比べる、その眼差しが激しく揺れた。
兵士の唇が何度かぱくぱくと動いたかと思うと、ついに昂ぶった感嘆の声を弾けさせた。
「……え? もしや、まさかあのイヒョン様でいらっしゃいますか⁉」
「私をご存じなんですか?」
イヒョンが思いがけない反応に、つい尋ねると、兵士はまるで伝説の中にしか出てこない英雄を目の前に迎えたかのような、呆けた表情で、気さくな乾いた笑いを弾けさせた。
「レオブラム侯爵閣下のご子息、ライネル公の皮膚病を完治させたのに、裁判で死刑になりかけたという、あの方ではありませんか!」
兵士の割れんばかりの声が城壁の下に響き渡ると、周囲に立っていたほかの警備兵はもちろん、検問を待って並んでいた大勢の商人や馬方たちの視線が、瞬く間にイヒョンへと集まった。
「何だって? イヒョン様がどこにいらっしゃるって?」
「ライネル公を助けたっていう、あの方か?」
「本当かよ? あの不思議な薬を作った方が、あの人だっていうのか?」
ざわめきが波のように四方へと、手がつけられないほど広がっていった。検問所の前を埋め尽くす数百人の視線が、いっせいにイヒョンへ注がれた。
兵士は驚きの色を少しも隠さぬまま、歯を晴れやかに見せてにっと笑った。
「あなたはここコランではなかなか有名人なんですよ! 貴族だろうが平民だろうが、そちらの話が出ようものなら、夜を明かすほどなんですからね!」
イヒョンは自分に容赦なく降りそそぐ熱く好奇心に満ちた視線に、ぴりりとした気まずさを隠しきれなかった。彼は突き刺さる視線をそっと避けながら、ぎこちなく口角をひねり上げて、薄い笑みを浮かべてみせた。
「は。ははは。そうなんですか」
「ですが、たしか侯爵閣下の直接の推薦状を受けて旅人になられたと聞いていますが、旅人の認識票はどうされて、こんな田舎の身分証をお出しになるんです?」
兵士が首を傾げたかと思うと、すぐに悪戯っぽさのたっぷり混じった眼差しでイヒョンを見やり、からかうように笑った。
「まさかどこぞで何か大事でも起こして、指名手配にでもなられたんですか?」
「そんなはずがあるでしょうか。ただ、うっかり持ってくるのを忘れただけですよ」
イヒョンが手を振りながら、慌てた色をつとめて押し隠し、淡々と微笑んだ。
傍らで黙って状況を見守っていたライルの顔は、いつの間にか酒の酔いと羞恥が混じり合って、赤く火照っていた。
ついさっきまでは、身分証を用意し忘れて慌てるイヒョンを見て呆れていたライルも、四方から押し寄せる熱い視線に耐えきれないとばかりに、イヒョンの脇腹を肘でそっとつついた。
「いや、アニキ……これはちょっと恥ずかしいんだけど……」
ライルがイヒョンの耳元に顔をぐっと寄せ、声を落として低く囁いた。
兵士は快活な笑い声を弾けさせると、握っていた古びた田舎の身分証を、イヒョンに恭しく返した。その眼差しには、いまだにほのかな好奇心と敬意が、濃く滲んでいた。
「それはそうと、どういったご用でコランまでいらしたんです?」
「プルベラから来たところです。貿易連合から依頼を受けましてね」
「ああ……そうでしたか。貿易連合の依頼とは、さすがでいらっしゃいますね」
イヒョンは身分証を受け取って革のベストの懐にふたたび差し込みながら、淡々と話を続けた。
「カルボリアから来た職人を1人探しているんです。ディオニシウスという名でして、もともとコランを経由してプルベラへ来ることになっていたのですが、途中で消息が完全に途絶えたようでしてね。城門で何かお聞きになったことはありませんか?」
イヒョンの問いに、兵士はしばし考えをまとめるように、ごわごわの顎鬚を撫でおろした。
検問所を通り過ぎた数えきれない貨物と人波の記憶を忙しなくめくっていた兵士の瞳が、一瞬きらりと光った。彼はふと何かを思い出したように、指を「ぱちん!」と音を立てて鳴らした。
「ああ、そういえば……!」
兵士は周囲の様子をうかがうように四方へ視線を巡らせてから、イヒョンに向かって上体をぐっと傾け、声をぐっと落とした。
「少し前に、何やら妙な荷物がコランの城門へ入ろうとしたことがありました。巨大な覆いを掛けた貨物だったんですがね……検査官が荷車の上を検めようと、馬車の覆いを剥がそうとした途端、その職人とかいう御仁が、発作でも起こしたみたいに検査を拒否しましてね。結局、通行の許可が下りなくて、城の中に入ることもできずに引き返しました」
「引き返した、と?」
「正確には、一緒に来たほかの一行は全員コランの城内に入って、支度を整えたようなんですが……噂では、その職人という人は、城の外に停めた馬車でずっと寝起きしていたらしいですよ」
「その職人は、かなり偏屈な性格だと聞いています」
「そうだったようですな。荷を検めようと手をかけた途端、城門の真ん中で、自分の偉大な発明品を盗もうとしていると言って大暴れしたそうです。普段なら即座に地下牢へ放り込まれていたでしょうが、一緒に来た一行の中に、なかなか名の知れた商人が混じっていたもので、そのままうやむやで済んだようですね」
「なるほど。その職人がどこへ行ったか、ご存じですか?」
「それは我々にもよく分かりません。おそらく城内で支度を終えた一行とふたたび合流して、まっすぐ南へ下っていったと聞いていますが」
「南へ? 川沿いに行かずにですか?」
「ええ、私もそう聞きました。荷車を曳いて南の街道に乗ったとか」
「ありがとうございます。すぐに探してみなければなりませんね」
イヒョンが革の背嚢の紐をしっかりと締め直し、ライルとともに検問所の敷居を越えて城内へ入ろうとすると、兵士が慌てて手を伸ばし、その袖をそっと掴み止めた。
「そうだ、イヒョン様。ここであなたの名を知らない者はそういないでしょうが、ここに何日か滞在されるのでしたら、通行証を新しく発給してもらってはいかがです?」
兵士が如才なく笑いながら言い添えた。
「毎度こんな確認の難しい書類で入ってこられると、こちらも毎回ややこしいんですよ。出入りの台帳に記録を上げるのも厄介でしてね」
「お願いします。そのほうが私も楽ですね」
イヒョンの返事に、兵士は机の上に置かれた書類を1枚引き寄せた。
彼は羽根ペンの先に黒いインクをたっぷりと浸すと、手慣れた筆づかいで文字を走らせた。さらさらという摩擦音が、静かな検問所の机の上を満たした。
「では、毎回いちいち身元検問を受けるのも煩わしいでしょうから、当分はこの通行証をお使いください」
兵士はコラン検問所の公式通行証に有効期限を几帳面に書き入れ、翼の生えた獅子の彫られた印章を押した仮の通行書類を、イヒョンに差し出した。
「レオブラム家に認められた方ですから、この書類さえお見せになれば、少なくともコランでは困ったことにはならないはずです」
「お世話になりました。ありがとうございます」
イヒョンは心からの感謝を伝えながら、書類を受け取った。押されたばかりの赤い印章が乾くように軽く振ってから、二つに折って懐の奥深くへ仕舞い込んだ。
その一部始終を傍らでじっと見守っていたライルが、口を思いきり尖らせてぶつぶつ呟いた。
「ほらみろ。最初からちゃんと書類を用意してりゃ、こんな苦労をせずに入れたじゃないか……」
イヒョンはライルの不平を軽く聞き流しながら、城門の向こうへ続く南の街道をじっと見つめた。
「ひとまず街道に沿って、南へ行ってみよう」
「何だって⁉ ここまで苦労して来たのに、宿にも行かずにすぐ出発するってのか⁉」
ライルが呆れ返ったという表情で声を張り上げた。
イヒョンは背嚢を担ぎ直しながら、眉一つ動かさずに、しれっと応じた。
「夕方まで余裕もあるからな。動くぞ」
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