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327. 密輸船

夜がまだ明けきらぬ頃。街全体がなお濃い藍色の静寂に沈んでいたプルベラの夜明け、戸口を叩く音がイヒョンの眠りを覚ました。


イヒョンは目を閉じたまま、じっと息を殺して神経を研ぎ澄ませた。


『この時間に訪ねてくる者などいないはずだが……』


しばらくして、扉の向こうから人の気配が続いているのを感じたイヒョンは、軋む古びた木のベッドから起き上がり、静かに扉へ向かって歩いていった。


取っ手を回して引くと、まだ闇の退かぬ宿の廊下に、10歳にも満たなそうな見知らぬ男の子が立っていた。


ぶかぶかのベージュ色のリネンのシャツを着た子どもは、イヒョンと目が合うと、何も言わずに小さく折り畳まれた紙を1枚差し出した。


イヒョンが紙を受け取るが早いか、子どもは靴底で廊下の床を打ち鳴らしながら、階段の下へ駆け下りていった。


子どもが廊下の角を曲がって階段を下りていく音が聞こえ、続いて廊下には、ひそやかな静寂だけが残された。


イヒョンは部屋の扉を閉めてから、卓の上のランプに火を灯し、折り畳まれた紙を広げた。


急いで走り書きされた文字は、インクが乾ききらぬまま折り畳まれたのか、文字の周りがかすかに滲んでいた。


密やかな時刻と場所。


『密輸船が思ったより早く動くな。もっとも、どう考えてもこの時間がいちばん警戒が緩いか』


イヒョンは紙片を懐の奥深くへ押し込み、すぐさま隣の部屋へ向かった。扉を叩こうかとしばし迷ったが、昨日こいつが飲んだ酒の量を思えば、ノックごときでライルが起きるはずがないのは明らかだった。イヒョンは取っ手をそっと押して、慎重に部屋の中へ足を踏み入れた。


部屋の中では、イヒョンの予想どおり、ライルがベッドの上に無造作にのびていた。


イヒョンは足音を殺して近づき、のびているライルの肩を揺すった。


「起きろ、ライル」


「……ああ、アニキ。なんだよ、マジで……」


ライルは目もろくに開けられないまま、窓の外の濃い闇をちらりと見やると、布団を頭のてっぺんまでかぶって呻き声を漏らした。


「まだ日も昇ってないのに……もうちょっと寝る……」


「今しがたエダンから連絡が来た。今すぐ行かねばならん」


「今? この時間に?」


ライルがこめかみを手で押さえて唸っていたが、やがて「エダン」という名が耳に入ると、ゆっくりと体を起こした。二日酔いで割れるような痛みが押し寄せてくるのか、眉間が歪んだ。


「今行かなきゃダメなのか? いったい何時だと思って……」


「この船を逃したら、馬で行くことになる。馬で行くなら、少なくとも3日3晩、いや、まる4日はかかるだろうな。早く支度しろ」


「はあ……本当に今行かなきゃダメ? 死にそうなんだけど……」


イヒョンは淡々と一言、放り投げた。


「あまりにきついなら、ひとりで行ってくるさ。おまえはここでもっと寝ていろ」


「ああ……マジでけち臭い出方をするな」


ライルはぶつくさ言いながらも、ふらつく体をどうにか起こし、昨日椅子の上に適当に放り投げておいた衣類をかき集めて身につけた。


________________________________________


窓の外はいまだ青みがかった夜明けだった。バセテロン特有の灰白色の石造建築が、濃い藍色の霧の中から、少しずつ輪郭を現しはじめていた。


プルベラの城壁を抜けて川を渡り、湖畔に沿って湿った水路を少し遡っていくと、ついにリエント川へと続く川の入り江が姿を現した。


エダンが寄越した手紙に記されていたとおり、川の入り江の片隅には柳が数本寄り集まっており、その真ん中に古びた桟橋があった。


こぢんまりとした大きさから見るに、近隣の貧しい漁師たちが使っていたものらしかった。生い茂った草むらと垂れ下がった柳の枝が周囲を覆い隠していて、知る者でなければ目の前にあっても見つけるのは難しそうだった。


早朝の立ちこめる川霧が、水面の上に薄く垂れこめていた。


冷ややかな川風に揺らぐ波が苔むした木の柱にぶつかるたび、ちゃぷちゃぷという低い水音が静けさを破った。


ライルは桟橋に着くなり、ふらつきながら身を横たえる場所を探し、近くの柳の木陰の湿った草地に、そのまま倒れ込むように寝そべった。


「ああもう、俺死にそう……朝飯も食ってないし、胃がずっとひっくり返ってムカムカするんだよ。アニキ、俺はここでちょっと横になってるわ。空がぐるぐる回って……」


イヒョンは軋む桟橋の端に腰かけ、足元の川の水をじっと見下ろした。


薄暗かった川霧が、朝の風に少しずつ晴れていった。霧の向こうから満ちてきた朝陽が冷たい水面の上で細かく砕け、まるで銀色の鱗がうごめくようにきらめいた。


ちゃぷちゃぷと鳴るさざ波の音を聞いていると、胸の底の深いところから、古い記憶の欠片が浮かび上がってきた。


コランからプルベラへ向かう道。リセラとセイラ、そして幼いエレンとともにした旅路。トラクシル川を渡る最中、だしぬけに荒れ狂った激流にフェリーが揺さぶられ、リセラが猛る川の中へと呑まれて消えた、あの絶望の瞬間が、つい昨日のことのように鮮明だった。


イヒョンの口元に、知らず薄い笑みが広がった。


『もう1年以上も前のことか』


絶望と救いの間を行き来しながら、失っていた自らの人間性を一つずつ取り戻してきた日々。感情を取り戻すたびに胸へ刻まれた烙印が、朝陽に応えるかのように、ほのかで熱い温もりを放っているようだった。


そうして深い物思いに沈んでいるあいだに、静かな川霧の彼方から、黒い船影が一つ、ゆっくりと形を現しはじめた。


船はイヒョンが思っていたより大きかった。


長さはおおよそ20メートル、幅は6メートルほどありそうだった。


歳月の垢が黒々と染みついた古い帆を掲げてはいたが、水面下に太く伸びた竜骨と流線型の木の船体はかなりがっしりと頑丈で、たいていの荒い流れも難なく押し分けていきそうだった。


甲板の上へ視線を上げると、エダンと彼の部下たち5、6人の姿が目に入った。彼らは機敏に動き回っていて、誰もが腰と胸にしっかりと武装を備えていた。


「ライル! 船が来たぞ」


柳の木陰の湿った草地からようやく身を起こしたライルが、桟橋のほうへふらふらと近づいてきた。川霧を突き破ってそびえ立つ雄大な船体を目にすると、ただでさえ青白い顔色が、いっそう白く変わった。


「マジで……あれに乗るんですか?」


ライルがまだ酒の抜けきらない舌でもごもごと呟きながら、イヒョンのそばへ寄ってきた。


「これ、完全にヤバいんじゃないのか?」


「心配する必要はない。エダンも乗っているようだからな」


「どうやって心配せずにいられるんだよ! 密輸船だぞ! 密輸船ってのは、基本的に海賊と変わらないって話じゃんか!」


ライルが四方をきょろきょろ見回して慌てて声を落としながらも、悔しくてたまらないという表情でぐずぐず言った。


「ベルティモが後ろについているんだ、そんな真似はせんよ」


「いや、俺が言ってるのは、あの人たちが俺を襲うって話じゃなくて! 見つかったら、俺たちが警備兵や兵隊に攻撃されるかもしれないって話だよ!」


「俺の知る限り、この密輸団はもう10年以上も続いてきたベテラン揃いだ。おそらく、たいていの都市の守備隊や役人には、すべて賄賂を渡してあるだろうから、大きな問題は起きないさ。それにコランへ行くのなら、心強い後援者がいるから心配はいらん」


「後援者?」


ライルが目を丸くした。イヒョンが素っ気なく言い添えた。


「ああ。コランのレオブラム侯爵が、もともと俺の後援者だったんだ」


「……マジで?」


「本当だ」


ライルは呆れ返ったように顎をぽかんと開けると、頭をがりがりと掻いた。


「いや、アニキっていったい何、玉ねぎなのかよ? 剝いても剝いても、知らない話がどんどん出てくるのはなんでだ?」


「言っていなかったか?」


「言うわけないだろ!」


「とにかくそういうことだ。だからあまり気にするな」


船は古びた桟橋に直接は寄せず、少し離れた深い安全な場所で停まった。重い貨物と装備を積んでいるせいで喫水が深く、うっかり浅い岸に近づけば、底を擦って座礁する危険があったからだ。


綱の音とともに、甲板の上から太い縄梯子が水面へ向かって投げ下ろされた。


イヒョンは手袋をしっかりと締め直し、先に手慣れた機敏な動作で梯子を上っていった。


一方、下に残されたライルは、ぎしぎしと揺れる梯子の下端を両手でぎゅっと掴んだまま、長いことためらっていた。冷たい流れが足元でちゃぷちゃぷと音を立てるたび、こいつの顔は無様な泣きっ面になっていった。


結局ライルは、屠殺場へ引かれていく子牛のように悲痛な溜め息をつきながら、後に続いて足を踏み出した。


「ああ……俺マジでこういうの苦手なんだよ……」


甲板の上へ足を踏み入れると、エダンが微笑みを浮かべて手を差し出した。


「ようこそ! フルティバ号へ、ようこそいらっしゃいました。どうぞ楽にお座りください!」


イヒョン一行が完全に乗り込むや否や、甲板の上の男たちがふたたび迅速に動きだした。


彼らは慣れた手つきで綱を巻き上げると、長い竿で川底を力強く突き放した。


どん、と重々しい響きとともに、船はゆっくりと、穏やかな水面を切り裂きながら、上流へ向かって再び動きだした。


リエント川を遡る旅路は、現代の動力船に慣れ親しんでいたイヒョンの想像を超える、極度に精巧な水運技術の連続だった。


風を存分に受けた帆がぴんと膨らむときには、フルティバ号は西風を背にして、小気味よく水を切って進んでいった。


だが、曲がりくねった水路に差しかかったり、激しい正面からの流れが押し寄せてきたりすると、船上の空気は瞬く間に一変した。


「馬を下ろせ! 綱を引け!」


エダンの鋭い号令が落ちるが早いか、船員たちが陸に向かって分厚い木の踏み板をどんと下ろした。


同時に、甲板の下にいたがっしりした体躯の馬が2頭、陸へと駆け下りた。手綱を握った人夫たちが川辺の砂利地をざくざくと歩きながら、船体の竜骨とつながった太い綱を馬の鐙台に掛け、巨大な船を力強く曳いていった。


水深が浅く、瀬がぼんやりと立つ地点に差しかかると、男たちが船体の両側にびっしりと並んで立ち、長い竹竿で川底を強く突いて押し出した。


とりわけ岩山の角を急激に回り込み、激しく渦を巻く急流の区間では、それこそ集団労働と計算の粋を見せつけた。


陸に頑丈に打ち込んだ木杭に太い綱を固定し、船上の中央に据えられた巨大な木の円筒を、男たちが何人もで十字の柄を握って力任せに巻き上げるワーピングの技法まで動員された。


イヒョンは、理論としてしか触れたことのなかった大航海時代と中世の水運技術が、目の前で歯車のように精巧に噛み合っていく光景をじっと見つめながら、あらためて深い感嘆を覚えた。


内燃機関という現代の奇跡がなくとも、ただ人間の執拗な意志と、緻密な物理的構造の計算だけで、この巨大な船体が西風海の乳の流れを賢く遡っていけるという事実が、胸の底を重々しく揺さぶった。


一方で、こうした水路を風もなしに遡っていけるというのは、ルカエルの関心を引くにも十分だという気がした。


船員たちが忙しなく立ち働くさなかにも、船べりの片隅では、実況中継さながらの地獄絵図が繰り広げられている最中だった。


「うぅ……」


ライルは古びた木の船べりに頬を擦りつけるようにのびたまま、死地をさまよっていた。


昨日、居酒屋で飲んだエールと果実酒の二日酔いに、船が瀬を通過するたびに上下へ激しく揺さぶられる、ひどい船酔いまで重なって、それこそ魂の抜け出た屍も同然の有様だった。


「うぅ……アニキ……マジで……俺死にそう……」


ライルが呻きながら呂律の回らない声で、イヒョンの裾を掴もうと震える手を伸ばしたが、指先から力が抜けて、そのまま甲板の床へ落ちた。


エダンが綱を点検する手を止めて、そんなライルをちらりと見下ろすと、笑い声を弾けさせた。


「あの方、本当に大丈夫なんですか? 今にも全部吐き出しそうな勢いですが」


「放っておけば良くなりますよ。自分で飲んだ酒なんですから、自分で引き受けないとね」


イヒョンが素っ気ない眼差しで応じると、エダンは深紅の酒瓶を手に握り、イヒョンの隣にどすんと腰を下ろした。ほろ苦くも甘い葡萄酒の香りが、冷ややかな川風に乗ってかすめていった。


「それで、そのイカれた職人とかいう人のことですが。正確にどこにいるかは分からないんですよね?」


イヒョンは数日前に噂で耳にした『ディオニシウス』という人物について、知っているかぎりを説明した。


カルボリア出身の職人。


イヒョンがベルティモから聞いて知っている話と、巨大な船を陸路でまるごと曳いてコランまで来ようとしたという、あの奇怪で無謀な話まで。


「え? 船を陸で曳いてくるって?」


エダンが目を丸くして、呆れたように苦笑を漏らした。


「あんな深い山奥に住んでる御仁が、いったいなんで船なんか造るんです? あそこは、まともな川すらない土地だって話じゃありませんか」


「私もそれが気になっているんですよ。いったい何を考えているのか」


イヒョンが船べりにそっと身をもたせかけたまま、水面を眺めながら低く答えた。


「ともあれ、コランまでは、私たちもどのみち行かねばならない道です」


エダンが腕を組み、自信ありげに言った。


「いい場所で下ろして差し上げますよ。コランに着いたら、一緒に探してみますか?」


「そうしていただけるなら、ありがたいです」


「いいでしょう。コランまでまっすぐ参りましょう」


イヒョンは葡萄酒の瓶に口をつけて飲むエダンを見て、ふと思い出したように尋ねた。


「ちなみに、コランにはどのくらい滞在されるんですか?」


「仕事しだいですが、今回は3日ほど留まる予定です。もしコランで急ぎ接触をご希望でしたら、コランの広場の市場にある『沈黙の杯』という居酒屋へお越しください。接触の手順は、いつもお使いのやり方そのままで構いません」


船は船首で銀色の水を容赦なく切り裂きながら、水面の上を揺るぎなく進んでいった。


川の両脇に生い茂って並ぶ青い葦原が、風を受けてさらさらと、物寂しくも澄んだ音を立てた。


遥か遠くの山の尾根の上へ赤い陽が完全に昇り、薄暗かった川の水を、ゆらめく黄金色の鱗へとまばゆく染め上げていった。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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