325. 古いやり方
黴くさい汗の匂いと脂っぽい匂いの立ちこめる『ケルピー』の薄暗い店内には、労働者たちの重たげな世間話と、杯のぶつかる音だけが満ちていた。
イヒョンとライルが店に入って食事をし、酒を飲みはじめてから、かれこれ2時間を超えようとしていた。鱸のシチューの器が底を見せてからもずいぶん経っていたが、イヒョンとライルに近づいてくる者は誰ひとりいなかった。
ライルが匙を卓に置きながら口を開いた。
「アニキ、どうもあの浮浪者にやられたっぽいんだけど。硬貨を何枚かもらって、適当なことをほざいただけなんじゃないか?」
「もう少しだけ待ってみよう」
イヒョンは杯をもてあそんだ。指先に触れる杯の表面は、とうにぬるくなっていた。
急ぐ必要はない。まだ時間はたっぷりある。
日はすでにずいぶん前に沈み、外は完全な闇に沈んでいたが、密輸団にとっては、まさに今こそが動くのにもっとも適した時間だったからだ。
「ただ待ってるのも退屈だしな……。もう1杯飲まなきゃやってられない」
ライルはしばらく体をもじもじとよじってから、手を上げて店員を呼んだ。
「すいませーん、シケラを一つください! 俺も飲んでみたかったんですよ」
イヒョンは短く溜め息をついたが、特にライルを止めはしなかった。
いつまで待たねばならないか分からない状況で、酒まで飲ませないとなれば、もう帰ろうとしつこくイヒョンを煩わせるに決まっていた。
卓に甘い果実の香りの漂うシケラの杯が置かれると、ライルは浮かれた様子で、また杯をちびちびと傾けはじめた。
だが、果実酒の甘さの陰に潜むアルコールは、思いのほか強かった。
時間が経つにつれてライルの頬は赤い灯りを受けていっそう赤く火照り、声は少しずつ大きくなっていった。とろんとした瞳の上を、心地よい酔いが泳いでいた。
「うおー、甘くてぐいぐい入るな! これ本当に酒かよ? これ、子どもか女が飲む酒みたいなんだけど?」
「……飲みすぎるなよ」
時間が経つと、店の中の客も一人、また一人と席を立ちはじめた。賑わっていた居酒屋の熱気はいつの間にか冷め、空いた卓の上に、かすかな灯りの影だけが長く伸びていた。
濃い闇を貫いて降る雨音と、湖のほうから吹いてくる風の音が、もはや残った客たちの声よりも大きく聞こえてきていた。船着き場の労働者たちが1日の疲れを癒やす、がやがやとした夕食の時間もとうに過ぎ、店の中にはただライルのぺちゃくちゃと喋る声と、厨房のほうから聞こえてくるかちゃかちゃという音だけが響いていた。
「天下のイヒョンも、あの飲んだくれの浮浪者にやられたのは間違いなさそうだな」
ライルがほろ酔いの赤らんだ顔で、ふらふらと体を揺らしながら笑い声を弾けさせた。瞳はすでにぼんやりととろけはじめていた。
「いったいいくら毟り取られたんだ? 俺はうまい夕飯に酒まで飲めたからいいけど、うちのアニキはどうするのさ? はっはっは」
「もう少し待ってみよう」
「俺たち、ここに来てからもうちょっとで3時間だぞ」
イヒョンの胸中も、そろそろ複雑になりつつあった。
あの浮浪者は、裏面同士を貼り合わせた硬貨を間違いなく見分けた。一般の平民や酔客には察しようのない密やかな連絡法を見破ったからこそ、約束の時刻と場所を暗示する言葉をかけたに違いなかった。
だが、変数というものは常に存在する。
シケラと麦のエールを代わる代わる注文して、すでにいい具合に出来上がっているライルを見ながら、このままではまずいと思い、そろそろ腰を上げるべきだという考えが浮かんだ。こいつのとろけた瞳とふらつく身振りを見るに、もう少し放っておけば、居酒屋の床に伸びてしまうのも時間の問題だった。
手を入れて食事代を払うために懐の硬貨をまさぐり、席を立とうとしたその瞬間、厨房のほうから、垢と脂に汚れたエプロンを締めた主人が、重い足音を立てて大股で歩いてきた。
イヒョンは空になったシチューの器をじっと見下ろしながら、もう店じまいをするつもりなのだろうと推し量った。闇はこれ以上ないほど深まり、客といえば自分たちと数人の商人くらいのものだったのだから。
「鱸のシチューはいかがでしたかね?」
主人の声に滲んだ自負を読み取ったイヒョンは、心からの思いを込めて答えた。
「とてもおいしかったです」
イヒョンは穏やかな口調で言葉を継いだ。
「去年もプルベラにいたのですが、あのときこの店を見つけられなかったのが惜しいほどですよ」
主人の表情と店の様子を見るに、間違いなく十数年は続けてきたに違いない店。主人の顔には、その自負が滲み出ていた。
イヒョンの賛辞に、主人の顔に満足げな笑みがそっと広がった。
「ありがとうございます。食事と酒で、しめて65ペラです」
イヒョンは1デント銀貨を1枚取り出して主人に差し出した。銀色の硬貨が灯りの下でかすかな軌跡を描き、主人のごつい手のひらの上に落ちた。
主人は銀貨を受け取って仕舞うと、釣り銭とともに、懐から手のひらほどの木札を一つ取り出し、イヒョンにそっと手渡した。
何の文字も、どんな文様も刻まれていない、ただ人の手垢が染みついてつるつると光る木片だった。
ライルはその間、イヒョンと主人の密やかなやりとりにまったく気づかぬまま、給仕をしていた若い女のほうへ身を傾けて、くだらない戯れ言をかけていた。
「お嬢さん、ここで働いてどれくらいになるんです? こんな重い器や杯を1日中運んでたら、しんどくないですか? 俺が手伝ってあげられますけど」
女がにべもなく鼻を鳴らして背を向けても、ライルはただへらへらと笑いながら、その後ろ姿から目を離せずにいた。
イヒョンは主人から受け取った木札をしばし見つめてから、主人の目を静かに見返した。
主人は何ひとつ言葉を付け足さなかった。
ただ顎先をそっと持ち上げる仕草で、店の奥、脂染みと埃でまだらに色褪せた、薄汚れたカーテンの下がった扉を指し示すだけだった。
イヒョンはしばしライルの様子をうかがってから、席を立った。
給仕の女に戯れ言を投げていたライルが、とろんとした目を上げてイヒョンを見た。シケラと麦のエールを遠慮なく代わる代わる飲んだせいか、瞳はすでに酔いでぼんやりと濁り、顔は赤く火照っていた。
「どこ行くんだ?」
ライルが、わずかに呂律の回らない声で尋ねた。とろけた視線が宙をあちこち彷徨った。
「厠にな」
「お、じゃあ俺はその間にもう1杯……」
ライルが浮かれた様子で、また厨房のほうの女へ手を上げようとすると、イヒョンは上がっていくライルの手を柔らかく押しとどめた。酔いが心地よく頭のてっぺんまで回ったライルの手首は、ふにゃふにゃと力が抜けていた。
「おまえはもう飲みすぎだ」
イヒョンはライルを見ながら、宥めるような顔で言葉を継いだ。
「会計はもう済ませたし、おまえは今かなり酔ってる。これから飲む日はいくらでもあるんだから、今日はここまでにしておこう」
イヒョンは、すでに酔っているこいつをここで臍を曲げさせたところで、エダンに会うのに邪魔になるだけだと思い、落ち着いて宥めることにした。こいつが酒の勢いで暴れだすか、女にもっとくだらない言葉を投げて追い出されでもしたら、せっかく手にした接触の機会が宙に消えてしまうはずだった。
「けち臭いなあ……」
ライルが口を尖らせて、空になった杯を所在なげにもてあそんだ。杯の縁に沿って、ライルの指が名残惜しそうに回った。
ライルは臍を曲げたような表情でぶつぶつ言いながらも、イヒョンの制止に唇を突き出した。
「分かった、分かったよ。さっさと行ってこいよ、死んだみたいに静かに待ってるからさ」
イヒョンは答える代わりに、小さく頷いた。
イヒョンは主人から釣りとともに受け取った、手垢の染みついたあの木札を懐にそっと忍ばせ、奥へと足を運んだ。
埠頭の労働者たちの汗の匂いと食べ物の匂い、そして酸っぱい酒の匂いの入り混じった酒場を横切り、主人が指し示した店の奥、垂れ下がったカーテンをかき分けて中へ向かった。
イヒョンが手を伸ばして、その湿った重い布の裾を持ち上げてめくると、薄暗い廊下がイヒョンを出迎えた。
汚らしく湿った脂染みの匂いが壁面に染みついた廊下を進んでいくと、その突き当たりに、周囲の雰囲気とはまるで釣り合わない扉が一つ現れた。
周りの古びきった壁とは違い、一目で頑丈だと分かる金属板で補強された扉だった。分厚い木板の上に打ち込まれた鉄のフレームが、冷ややかな威圧感を放っていた。
扉の上部には小さな鉄格子の覗き口があり、内側から開け閉めできるようになっているらしかった。
イヒョンは慎重に、分厚い扉を軽く3回叩いた。
『コン、コン、コン』
鈍い金属音が暗い廊下を伝って長く響き渡った。冷たい金属的な反響が鎮まった瞬間、覗き口の蓋が、がらりと音を立てて内側から横へ滑った。
しばらくして、扉の上部に開いた小さな鉄格子が、軋む音を立てて内側へ開いた。
その四角い狭い隙間の向こう、闇の中から鋭い目が一対現れ、イヒョンを上から下まで眺め回した。湿った黴の匂いとともに睨めつけてくる瞳には、明らかな警戒心が宿っていた。
イヒョンは何も言わずに懐から、手垢でつるりと艶の出た木札を取り出し、覗き口の前に掲げてみせた。赤い灯りを受けててらてらと光る、通行証だった。
「……」
静寂が流れた。
小さな窓からイヒョンと木札を交互に見ていたその眼差しが消え、その隙間へ木札を入れろとでもいうような手つきが見えた。
イヒョンは木札を狭い隙間から手渡した。染みついた脂の匂いの滲む木札が、鉄格子の向こうへ呑み込まれるように入っていった。
続いてガチャリと、掛け金の外れる重々しい金属音が廊下に響き渡り、重い扉が内側へゆっくりと開いた。
扉が開くと、冷たく湿った空気がむわりと吹き出してきた。
扉の内側には、腕っぷしの強そうな巨体の禿頭の男が1人、無愛想に立っていた。分厚い腕と肩には、喧嘩で負ったと思われる傷跡が、無秩序に絡み合っていた。
男は隙間から入ってきたイヒョンを上から下まで眺めると、何も言わずに顎をしゃくって奥を指し示した。
イヒョンは軽く頭を下げて会釈をすると、門番の脇を抜けて奥へと足を踏み入れた。
小さな部屋だった。
部屋の真ん中には地下へ下りる深い穴があり、片側の面には古びた木の梯子が、地下通路の下へと続いていた。穴の周囲は石を削って作った煉瓦でしっかりと補強されており、地下から上ってきた湿気のせいで、石の表面が湿ってぬらぬらと光っていた。
『もうここまでしなくてもいいだろうに』
イヒョンは床の下の遥かな闇を見下ろしながら、内心でそっと笑いを呑み込んだ。
かつてオルディン商団の護衛隊長だった男、ニルバスによって濡れ衣を着せられ、死刑宣告まで受けて拘禁されていたところを、部下たちの助けで脱出し、流通網を切り拓いたベルティモ。
その彼が今やエセンビア伯爵の信任を得て、貿易連合社の兵団長の座にまで上りつめた今でさえ、彼の密輸団を引き継いだエダンが、相変わらずこんな古めかしい接触方式を守り続けているという事実が、懐かしくもあり、一方では苦笑を誘いもした。
梯子に足をかけて下りていくと、空気が瞬く間に冷ややかに、じめじめと変わった。長らく閉じ込められていた湿っぽく冷たい湿気と苔の匂いが、不快に押し寄せてきた。
足元には古びた石の床が長く続いていた。かつてバセテロンの下水道として使われていたに違いないと見える、アーチ型の石造りの通路だった。
『あの爆発にも残っていた下水道があったんだな』
壁面を伝って絶え間なく流れ落ちる湿気が、小部屋の壁に掛けられた油灯から漏れる明かりを受けて、蛇の鱗のようにぬらぬらと光っていた。
ぽつ、ぽつ、ぽつ。
遥か遠く、闇の向こうで一定の間隔を刻んで落ちる水滴の音が、静寂を破って規則的な拍子を作り出していた。
イヒョンは胸の奥深くまで一度息を整えてから、冷ややかな湿気の染みついた石の通路の中へ、足を踏み入れた。
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