324. 接触
霧のような雨が降りはじめると、埠頭は昼の活気を失い、しだいに沈み込んでいった。
細く降りそそぐ雨脚が木箱の表面を叩き、白く濁った水蒸気を立ちのぼらせた。瀝青の匂いと湿った潮気の混じり合った空気の間を、古びた倉庫と倉庫の狭間の暗い日陰ごとに、雨水が細い流れとなって螺旋を描きながら伝い落ちていった。
イヒョンの視線が、港の下層民の住まいに沿ってゆっくりと移っていった。歪んだ軒下、人が2人ようやく通れそうな狭い路地で、その足が止まった。
油染みと汚れがまだらにこびりついた古びた毛布を全身に巻きつけ、濡れた帽子を眉深くかぶった老人がひとり、うずくまっていた。
雨水が毛布の裾を伝ってぽたぽたと落ちていく間も、老人は石像のように身じろぎ一つしなかった。
遠くから見れば、ただバセテロンの港にあふれかえる、ありふれた浮浪者の1人にすぎなかった。
イヒョンの口元に笑みが広がった。
「ライル、ついてこい」
「なんだよ、急に」
後をついてきていたライルが目を細め、イヒョンの視線の先を追った。濡れた髪を掻き上げるライルの目に、警戒の色が滲んだ。
「あの浮浪者? 気の毒な爺さんに何ペラか小銭を握らせて、浪漫ごっこをしてる場合じゃないと思うんだけど。雨が強くなってきてるんだぞ」
イヒョンは答える代わりに、その浮浪者の老人に向かって足を運んだ。
「風が冷たいですね。風邪をひかぬようお気をつけて」
穏やかなイヒョンの声が、静かに広がった。
うずくまっていた毛布の裾が、かすかに揺れた。帽子のつばの下、深く皺の刻まれた目元が、ちらりとイヒョンを見上げた。濁った老人の瞳には、好奇心も関心の色も、何ひとつ浮かんでいなかった。
返事の一言もなく、老人はただ、雨に濡れた毛布を胸元へもう少しかき合わせるだけだった。
ライルがイヒョンの袖口をそっと引きながら、囁くように尋ねた。
「あんな浮浪者が密輸団と関わりがあるって? ただの酔っ払いの爺さんにしか見えないんだけど……」
「いや、間違いない」
確信に満ちたイヒョンの言葉に、ライルは唾をごくりと呑み込んで口をつぐんだ。
イヒョンは懐の奥から、先ほど貼り合わせた1ペラ銅貨2枚を取り出した。
「昼飯は召し上がりましたか」
イヒョンは視線を落としながら、わずかに腰をかがめた。
彼は裏面同士が向かい合うように貼り合わされた1ペラ銅貨2枚を、老人へゆっくりと差し出した。
「パンでも買って召し上がってください」
その硬貨を目にした瞬間、老人の眼光がきらりと光った。
つい先ほどまでイヒョンやライルを見向きもしなかったその瞳に、生気が差したような錯覚を覚えた。
老人の視線が、イヒョンの指先に握られた、貼り合わされた硬貨へと移った。そしてゆっくりと、まるで相手の内面を推し量るような目つきで、イヒョンとライルを見定めていった。
「……」
老人は何も言わず、毛布の下から痩せた手を伸ばして、その硬貨を受け取った。
老人は手のひらの中で、松脂で固められた硬貨の表と裏を指で擦り、2枚が裏面を向かい合わせにして一つに貼り合わされていることを確かめた。その唇の間から、低く嗄れた声が漏れ出た。
「……予定にない者が訪ねてくるとは、珍しいこともあるもんだ」
老人はイヒョンの靴の先から頭の先まで、上から下へと舐めるように眺め回した。
「私はイヒョンと申します」
続いて、すぐ隣で警戒心をたっぷり浮かべた目で自分を見下ろしていたライルへと、老人の視線が滑っていった。老人は濡れた帽子のつばをそっと引き上げながら、まるで通りすがりの独り言を放るように口を開いた。
「『ケルピー』で出す鱸のシチューは、なかなかいいぞ」
「え? ケルピー?」
ライルはぽかんと目をしばたたかせてから、慌ててイヒョンの肩のほうへぴたりと身を寄せ、耳打ちをした。
ライルの声には、呆れと苛立ちがわずかに混じっていた。
「これ何なんだよ? 施しをもらったなら、ただありがとうって言えばいい話だろ。急にシチューの話なんかして何なんだ? あの爺さん、まさか金をもっとよこせって遠回しに催促してるのか?」
イヒョンはライルのぼやきに応えなかった。
イヒョンは躊躇なく金をもう少し取り出し、老人の手のひらの上にそのまま載せた。
じゃらりと硬貨の重みが加わると、老人の口角がそっと持ち上がった。
「鱸が1匹まるごと入っているうえに、西のほうから入ってきた香辛料まで使ってあってな、風味がじつにいい」
老人は手のひらの中の硬貨を握り締めながら、曇った灰色の空をちらりと見上げた。
「……夕食にちょうどいいだろうな」
「よい情報を、ありがとうございます」
イヒョンは折り曲げていた膝を伸ばし、穏やかにその場から立ち上がった。
ライルは相変わらず訳が分からぬまま、老人とイヒョンを交互に見やって、目玉をきょろきょろと動かした。
イヒョンが先に大股で船着き場のほうへ歩きだすと、ライルは濡れた髪を払いながら、その後をぴたりと追いかけた。
「いやマジで、せっかく施しをして、もらったのが美味い店の紹介だけかよ? アニキ、本当にあの浮浪者に引っかかったんじゃないよな? そもそもあの金があったら、エールが何杯飲めると思ってるんだ?」
ライルのぼやく声が、激しくなる雨音と埠頭の静寂の中へ、しだいに溶け込んでいった。
「……戻ろう」
埠頭を抜けて広場へ向かう道すがら、細かった雨脚はしだいに太くなり、石畳の表面を打ちつけた。
髪を伝ってぽたぽたと落ちる雨水を軽く払っていたライルが、ついに我慢できないとばかりにイヒョンのそばへぴたりと寄り、質問を浴びせかけた。苛立ちと呆れの入り混じった声だった。
「ああもう! じれったくて死にそうだ。ちょっと話してくれよ。さっきのあれ、本当は何だったんだ? 密輸団を探すのは諦めたのか? まさか、美味い店を教えてもらうためだけに、あの奇妙な硬貨と追加の金まで渡したわけじゃないよな? それに、訳の分からない鱸のシチューってのは何なんだよ?」
イヒョンが薄く笑いながら、歩調をわずかに緩めた。
イヒョンもまた、髪を伝って顔へ流れ落ちる雨水を払ってから、ライルを見て言葉を継いだ。
「昔と同じやり方を、今でも守っていたんだよ」
「何だって? 昔のやり方だって?」
「裏面同士を貼り合わせた硬貨は合図だ。あの浮浪者のような爺さんは、密輸団と接触したいという意思を伝えてくれる、伝令のような役割なんだ」
イヒョンの説明に、ライルは眉間にぎゅっと皺を寄せた。唇をつんと突き出し、目玉をあちこちに動かしていたライルが、なおも頭を掻きながら尋ねた。
「じゃあケルピーってのは何で、鱸のシチューはまた何なんだよ? 本当にあの爺さんが、腹が減ってシチューのことをぼやいたわけじゃないってことだよな?」
「ケルピーは接触場所だ。場所は俺も知らん。これから宿へ戻って、主人に位置を訊いてみないとな」
イヒョンが低く笑った。
「『夕食にちょうどいい』という言葉は、夕食の時間ごろに来るという意味だ。そして鱸のシチューは、食堂で鱸のシチューを注文して食べていれば、向こうが俺たちを見つけて近づいてくる、という意味だよ」
「ああ……つまり、店の名前、料理の名前、食事の時刻と場所が暗号だったってことか?」
ライルは眉間にぎゅっと皺を寄せたまま、しばらく考え込む顔をしていたが、結局は自分の頭ではどうにも理解できないとばかりに首を振った。
「いや、でもさ、貿易連合の兵団長が関わってるのに、なんでいまだに密輸団なんだ? 兵団長が後ろ盾になってくれるなら、堂々と市場に店を構えて商売すればいいじゃないか。なんでわざわざ、あんなじめじめして潮くさい倉庫の隅っこで、暗号なんか使ってこそこそ取引するんだよ?」
「密輸団には密輸団なりのやり方があるからさ」
イヒョンが、雨粒が透明に弾け飛ぶ石畳の上で歩を速めながら答えた。
「以前プルベラで大事が起きたとき、この街を支えてくれたのが密輸団の秘密の流通ラインだったんだ。紛争なんかで公式の交易路が塞がっても生き残る、秘密の流通網のようなものだな。密輸団のほうは税だの何だの、いろいろ問題があるから大っぴらに商売をしない。ベルティモの立場からすれば、自分がかつて率いていた組織だから、その情報網を役立てるために放っておいているんだろうと思う」
「だったらまた分からないのが、いっそベルティモさんにエダンだか何だか、その人を呼んでくれって頼めばよかったんじゃないのか? なんで面倒なこんなやり方で会わなきゃならないんだ? おかげで濡れ鼠だよ」
「ベルティモは今や公職に就いているから、表向きには密輸団と完全に手を切ったことになっているはずだ。おそらく俺たちが頼んだところで、すぐには連絡が取れないだろう。俺もその手を考えなかったわけじゃないが、そういう頼み事を続けるのは迷惑だからな」
「とにかくややこしいですねえ、ややこしい……」
ライルはまだ腑に落ちないという表情をしばらく浮かべていたが、頭を何度か振って払うと、すぐに関心が別のほうへ移ったのか、舌なめずりをした。
不満と疑念の消えた場所に、鱸のシチューへの期待が入り込んできた。
「……ともあれ、今日の夕飯は鱸のシチューで確定ってわけだな」
ライルがそっと期待に満ちた眼差しで、イヒョンの顔色をうかがいながら言い添えた。
「ケルピーってとこで出す酒も美味いといいんだけどな。アニキ、密輸団だの暗号だのはさておき、まずは腹を満たしてから始めるってことでいいんだろ?」
太くなっていく雨脚の向こうで、遠く広場の赤や黄の灯りが、一つ、また一つと朧げに灯った。2人の影が、雨水の溜まった暗い石板の道の上に、静かに長く伸びていった。
———
船着き場の片隅の古びた建物に構えられた『ケルピー』は、見かけからして並々ならぬ年季を漂わせていた。
1年前、ペルトゥス軍団の攻撃を防ぐためにイヒョンがプルベラの街の半分を爆発で吹き飛ばした、あの凄惨な場所にあってよくぞ生き延びた、という証のように、灰白色の石壁のあちこちには黒く焦げた痕と、新しく継ぎ足された茶色の板材が、ぼろ布のように入り混じっていた。
イヒョンが扉を開けて中へ入ると、人々のがやがやとした喧騒とともに、古い食堂の粘つくような匂いがむっと押し寄せてきた。
室内は埠頭の労働者たちと、暮らし向きの豊かでない下層の商人たちでごった返していた。古びた卓ごとに深く刻まれた傷と脂の染みが過ぎ去った歳月を物語り、カウンターの垢染みた木の表面は、幾千回と人の手と酒杯に擦られた末に、つやつやと光を放っていた。
腹の突き出た中年の主人が、垢じみたエプロンで大きな手をごしごし拭いながら厨房とホールを行き来し、コイフの外へはみ出した髪を気にする暇もなさそうな若い女が、あちらの卓こちらの卓を忙しなく回りながら、湯気の立つ皿を運んでいた。
「こちらへお掛けください!」
女が隅の小さな卓を手で指し示し、愛想よく笑った。客をもてなす人懐っこい態度だけは、このじめじめとした粗末な食堂の空気と、妙に釣り合っていなかった。
イヒョンとライルが椅子を引いて腰を下ろすと、女がすぐさま近づいてきて尋ねた。
「何になさいますか?」
「鱸のシチューを2つ」
イヒョンの淡々とした注文に、ライルが目を大きく見開いて、ぱっと顔を向けた。
「アニキ、酒はなんで頼まないんだよ? こんな店に来て、ただの水だけ飲むつもりじゃないよな?」
イヒョンはライルの目をしばらく見つめ、ライルは「だから何だよ」とでもいう態度で目を大きく見開いたまま、イヒョンの視線を逸らさずに見返した。
イヒョンは小さく溜め息をついてから、注文を取りに来た女へ視線を移した。
「酒は何がありますか?」
「麦のエールと、シケラがございます」
「俺は麦のエール!」
ライルが嬉しそうに、さっと手を上げた。イヒョンはわずかに頷きながら言い添えた。
「私はシケラをお願いします」
女が承知したというように頷き、厨房のほうへ消えていった。ライルが好奇心を抑えきれず、顔をぐっと近づけて尋ねた。
「シケラって何だ? 名前がやけに変わってるな」
「林檎や梨で造る果実酒だ」
「おお、甘そうじゃないか。エールを飲んだら、次にそれを試してみようかな」
ライルの瞳が期待にきらめいた。
「今日は飲みすぎるなよ」
「おやおや。いつだったら、たくさん飲んでもよかったんですかね?」
「今日は酔ったら、広場に捨てていくからな」
「くくく、ご心配なく」
ほどなくして、湯気の立ちのぼる重々しい陶器に盛られた鱸のシチューが2皿と、杯に注がれた酒が卓に置かれた。
白く濁った出汁の上には細かく刻んだハーブの粉が浮かび、まるごと入った分厚い鱸の身は、匙を当てた途端に繊維に沿ってほろりとほぐれた。香辛料ならではのぴりりとした異国めいた香りが、鼻先をぴりっと刺激した。
ライルがシチューを大きくひと匙すくって口に入れるなり、ぎゅっと目を閉じて、むせび泣くような感嘆の声を漏らした。
「……うおっ、これマジでうまいな」
鱸の風味に感嘆するライルの向かいで、イヒョンはシケラの杯を握ったまま、淡々と酒場の中を見渡し、密輸団らしき人物がいないか目を配った。
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