323. 説得
商店街の片隅にあるこぢんまりとした食堂、その窓際の席に向かい合って座った2人の前に、湯気の立ちのぼる熱々の野菜スープと、こんがり焼き上がった小麦のパンが置かれた。
ライルが匙でスープをかき回して冷ましながら、そっと様子をうかがって尋ねた。
「それでさ、アニキの友人だっていうその人、レンさんだったっけ? その人のところへ行って、なんて言うつもりなんだ?」
「……分からん」
イヒョンの口から漏れ出たのは、意外にも率直な答えだった。
その反応が思いがけなかったのか、ライルはスープをすくおうとしていた匙を宙で止めたまま、イヒョンをまじまじと見つめた。
「あのさ、アニキ」
ライルは慎重に言葉を継いだ。
「俺、そういうのはよく分かんないけどさ」
「……」
「俺は親の顔も知らないし、親が子どもにどんな感情を持つもんなのかもよく分かんないけどさ。もし俺を愛してくれる親がいたなら、俺がこんな暮らしをするのには反対したと思うんだよな。その人だって同じなんじゃないか? 自分の子どもがこんな暮らしをすることに、反対するんじゃないか?」
イヒョンはパンをちぎろうとしていた手を止めた。
温かく湯気の立ちのぼるスープの器の向こうに、小屋で目にしたレンとフローラ、そして子どもたちの睦まじい顔が、残像のようによぎっていった。
「それが心配なんだ」
「俺が言ってるのもそこなんだよ。考えてもみなよ。俺たちが今やってることを、普通の人が想像でもできると思うか? アニキと一緒に回るようになって何か月か経ったけど、正直、死にかけた記憶だけでも、俺の指じゃ数えきれないくらいだぜ」
イヒョンが低い声で息を吐き出しながら、口を開いた。
「本当に重要な問題だから、説得しに行くことは行くつもりなんだが……正直、どんな話をどう切り出せばいいのか、俺にもよく分からん」
イアンの『空間移動』と、テオの『位置感知』の能力。
イアンの空間移動は、精鋭の兵力を敵の指揮部の真ん中へ投入し、城砦を内側から崩すことのできる絶対的な戦術輸送機関だった。そこへ、一度認識した対象の位置を完璧に言い当てるテオの感覚が結びつけば、大陸全体の戦史と権力の構図を揺るがしうる破壊力を持つことになるはずだった。
インテルヌムの野心がふたたびあの子たちに及ぶ前に彼らを守り、その力を正しく制御できるよう教えねばならないという大義は、明確だった。
だが、平和と安寧を求めて城壁の外の森に隠れ住んだレンとフローラに、実の息子と、実の息子も同然の子どもを王都のアカデミアへ送り、これから襲いかかってくる巨大な戦争の渦中へ踏み込ませるべきだと説得することは、その理由がいかに理にかなっていようとも、容易でないのが事実だった。
平穏を願う彼らの心をあまりにもよく知っているからこそ、イヒョンの理性はいっそう重々しく沈み込んでいった。
「よく分からないまま行くのは、かえってまずいんじゃないか?」
ライルの投げかけた言葉に、イヒョンはゆっくりと首を振った。
「そんな余裕はない。俺たちだって、ここに長く留まって説得している時間はないだろう」
「それは俺も分かってるけどさ」
ライルが指先でパンの欠片を長くちぎりながら、いつになく真剣な顔を突き出した。
「慌てて行って、かえってレンさんの反感を買ったら、そのほうが厄介なんじゃないのか?」
イヒョンはしばし何も言わず、ライルを見つめた。
いつも分別のない子どものように思っていたライルが、ときにこうして本質を貫く洞察でイヒョンを驚かせることがあった。
「おまえの言うとおりだ。がむしゃらに押しかけて済む話じゃないな」
イヒョンはほろ苦い笑みを浮かべながら、パンをかじった。
「だからといって、子どもたちをその危険の中に放っておくわけにもいかない。インテルヌムがイアンの能力に再び勘づいて先に動いたら、そのときはレンの小屋だけじゃなく、大陸全体が灰の山になるんだからな」
正午を少し過ぎた時分、低く傾いた陽射しが窓辺をほのかに照らすあいだ、向かい合って座った2人の間に、重く密度の高い静寂が漂っていた。食堂の中を満たすがやがやとした喧騒さえ、2人の周りの空気を貫けずに弾き返されていくようだった。
今レンのもとへ行って、いきなり「子どもたちを教育機関へ送ろう」と言ったところで、あの頑固な狩人が素直に受け入れるはずもなかった。
イヒョンもまた、内心ではその壁の高さをおぼろげに察していた。
それなのに気が急くあまり、どうにか直接ぶつかってみれば道が見つかるだろうという、甘い期待を抱いていたのも事実だった。
リセラがエレンをカレオストラのアカデミアへ送ろうと決心するまでにさえ、どれほど長い葛藤の時間が必要だったことか。
まして、城壁の外の森の中で、質素ながらも睦まじく身を寄せ合い、平穏な暮らしを営む家族に、何の縁もない大きな都市へ幼い子どもたちを送れという話が……いかにレンが自分を信頼しているとはいえ、一度で受け入れられるはずもなかった。
『俺はもともと、こんなに詰めの甘い人間だったか』
ふと、見慣れぬ違和感がイヒョンの脳裏を冷たくかすめた。
地球での自分は本来、すべてを整理し、起こりうるあらゆる変数を計算し、徹底して備えたうえで、ようやく動きはじめる人間だった。
救急室の修羅場の中でも、血の飛び散る手術室でも、医療機器会社のCEOとして数百億の金が行き交う契約の席でも、いつもそうしてきた。
それなのに、しだいに自分が性急に、詰めの甘い動き方をしているという感覚を拭えずにいた。
レンの小屋へひとりで訪ねていったことも、テオの位置感知能力を不意打ちのように確かめたやり方も、ベルティモに会っていきなり子どもたちをバセテロンへ連れていってくれと頼もうとしたことまで……すべて、かつてのイヒョンらしからぬ焦りの産物だった。
『感情……のせいか』
胸の襟の内側で、昨日レンの小屋で胸の奥深くに取り戻した烙印、『喜び』の黄金色の温もりが、重々しく脈打っていた。
取り戻した感情が、逆説的にも冷徹な理性の堤を揺さぶっていたのだろうか? 胸の内が温もりで満たされたぶんだけ、子どもたちを守らねばという重圧と焦燥が、理性を追い越してしまったのだろうか?
考えに深く沈み込んだまま微動だにしないイヒョンの肩を、ライルがそっと揺すった。
ライルの瞳には、温かな真心が滲んでいた。
「そう気負わずに、ちょっとは余裕を持てよ。今までさんざんしんどい思いをしてきたじゃないか。これから北西部へ行ったらまた目が回るんだろうし、まずはあのイカれた職人を探しに行ってくるってのはどうだ?」
イヒョンはそっと目を閉じ、また開いた。
目を開けると、黒曜石のような瞳に、落ち着いて静まり返った理性の光がふたたび蘇っていた。
「……おまえの言うとおりだ」
イヒョンは自分の焦りを短く認めた。
イアンとテオの力は、インテルヌムの野心から必ず守られねばならない。だが、今すぐ性急に押しかけて、レン一家との絆を壊すわけにはいかなかった。
とはいえ、ディオニシウスの痕跡を探し、そのあとで改めて考え直しても遅くはないだろう、という結論に達した。
「そうだな。作戦をもう一度、ゆっくり練ってみよう」
「作戦?」
ライルがパンをくわえたまま眉をひそめた。
「アニキ、まっとうな狩人の家の子どもを連れていくのに、作戦だなんて……それ、聞きようによっては完全に誘拐だの拉致だのって感じの、鳥肌が立つ言い方じゃないか。そういう言い方はふさわしくないと思うぜ」
「……分かった。計画と言おう」
「アニキ、作戦だろうが計画だろうが、同じようなもんだろ」
「計画で合ってるだろう」
「分かったよ。でもさ、そういう言葉を直接口に出さないほうがいいって話なんだよ。子どもたちを連れていく計画、子どもたちを連れていく作戦。何かおかしいって感じないか?」
「うむ……よく分からんが、とにかく考えてみよう」
イヒョンはくすりと薄い笑みを漏らしながらスープの匙を取り、ライルは長く溜め息をついてパンをつまみ上げた。
イアンの『空間移動』とテオの『位置感知』、あの2人の子どもが持つ能力の戦術的価値を思えば、むしろもう手遅れかもしれないという焦燥がイヒョンを苦しめたが、合理的で正当な手順を踏まない強要は、悲劇を招くだけだ。レンとフローラが子どもたちに注ぎ込んできた崇高な愛をあまりにもよく知っているからこそ、いっそう慎重でなければならなかった。
食堂を出たイヒョンが呟いた。
「エダンか……」
「ベルティモ兵団長が言ってた、あの密輸屋の友人のことだろ?」
「友人じゃなく、部下だったんだ」
「友人だろうが部下だろうが……貿易連合社の兵団長にまでなった人が、いまだに密輸団の情報をいちばん信頼してるなんてのも、まったく不思議な話だよな」
「公式の情報網は精密だが遅い。検証を重ねざるを得ないからな。不確かな情報はそのまま危険につながるから、仕方がない。反面、密輸は生き死ににじかに関わるから、速さが命だ。ベルティモが密輸団の頭だった時代から築き上げてきた底辺の情報網のほうが、はるかに速い」
イヒョンは襟を立てながら、落ち着いた声で答えた。
「はいはい。とにかく明日その人が来るってんだから、今日はこのくらいにして、宿に戻って少し休むってのはどうだ?」
「やることがある。明日発たねばならんのだから、先に支度をしておかないとな」
「明日来るのに、今日支度をするって?」
「正確に言えば、明日に備えるわけじゃない。ただ、エダンが密輸団を維持しているというなら、そっちを通して手に入れておきたい物があってな」
「それ、後回しにしちゃダメなのか?」
「エダンが密輸船に乗って出ていったら、いつ戻るか分からんからな。今のうちに手に入れておこうと思う」
「それ、何なんだよ?」
「材料だ。前におまえも見ただろう。閃光弾と炸裂音の弾の材料だ」
「ああ……あれか……材料って何なんだ?」
「火薬というものだ」
「火薬?」
「あとで説明してやる。旅の始めに持ってきた分を、イストリルの村で使い切ってしまったんだよ」
「はあ。アニキはちょっと休んだら死ぬ病気にでもかかってるわけ?」
ライルはぶつくさ言いながら、イヒョンの横にぴたりとくっついて歩いた。
「それにさ、密輸屋が『わたくし密輸人でございます』なんて、でかでかと看板でも掲げてると思うのか? エダンってやつがどこにいるか分かって訪ねていくのかよ?」
「見当のつく場所がある」
イヒョンは足を止めぬまま、1年前に訪れた場所の記憶を手繰った。
「ついてこい。遠くはない」
イヒョンが重々しく歩を進めると、ライルは溜め息をついて、その背中をぴたりと追いかけた。
イヒョンは足を止め、革袋から古びた1ペラ銅貨を2枚取り出した。
手のひらの上で硬貨をあちこちに転がしてみてから、腰の鞄から松脂を少し取り出し、裏面同士を向かい合わせにして重ね、貼り合わせた。
ライルはその様子をまじまじと眺めていたが、眉根を寄せた。
「……また何か妙なことをしてるな。その硬貨、なんで急に重ねて貼りつけるんだよ?」
「埠頭のほうへ、ちょっと行ってみよう」
「埠頭に何があるんだ?」
「密輸団がまだ残っていて、昔のやり方をそのまま使っているなら……」
イヒョンは重ねた硬貨を手の中にぐっと握り締めながら言った。
「この方法で、また会えるはずだ」
ライルがふうっと溜め息をつき、だらりと肩を落とした。
「その方法が通じなかったら、今日は頼むから休もうぜ。マジで」
「分かった。ひとまず行ってみよう。この方法が失敗したら、すぐに宿へ戻ろう。エダンに会えなければ、何の意味もないからな」
2人は活気に満ちた商店街を抜け、倉庫と小さな板張りの掘っ立て小屋がびっしりと並ぶ埠頭のほうへ足を運んだ。
商店街の喧騒がしだいに遠ざかり、風の音とともに揺れる滑車と鎖の音が聞こえてきた。路地ごとに、長い影が蛇のように伸びていた。
魚の生臭さと、船に塗るねっとりとした瀝青の匂いが絡み合った風が、トラクシル川と湖のほうから漂ってきた。埠頭では、停泊した大型商船の帆が川風にはためき、鈍い摩擦音を立てていた。
昼間は混み合っていた荷揚げ人夫たちのざわめきはまばらになっていたが、倉庫の裏手の日陰になった路地ごとに、どこか見慣れぬ視線が滲んでいるような奇妙な冷ややかさが、イヒョンの首筋をぴりりとかすめた。
ライルも妙な空気に気づいたのか、悪戯っぽい表情をすっかり引っ込めて、声をぐっと落とした。
「……アニキ、なんかちょっと薄気味悪いんだけど」
「心配するな」
ライルが生唾をごくりと呑み込んでイヒョンの背中にぴたりと張りつき、イヒョンは落ち着いた様子で、埠頭の日陰になった場所の下を隈なく見渡した。
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