322. 悩み
朝早く、陽光がプルベラの新たに敷かれた青みがかった石畳の上に長く差し込んでいた。
一晩のうちに降りた薄い露が石の表面にとどまり、銀色の波のようにきらめいていて、埠頭のほうからは、夜明けの出航を終えた商船の荷を運ぶ怒声と荷車の軋む音が、港町ならではの活気とともに絶えることなく響き渡っていた。
イヒョンとライルは、貿易連合社の建物へ向かって足を運んだ。
「ってかさ、俺マジで気になってるんだけど……」
ライルが隣で長々と伸びをしながら、いまだ抜けきらない二日酔いの目を細め、おそるおそる口を開いた。
「昨日のあの、『戦争の勢力図を変える話』ってやつ、本当にそんなに大層なことなのか? ただでさえ今、腹の中はひっくり返ってるし、二日酔いで頭は割れそうだってのに……また面倒な状況になるんじゃないかって、もう今から心配なんだよ」
「本当に重要な話だ」
「いやだから、それが何なのか少しくらい分かってないと、俺だって心構えができないだろ」
ライルが悔しさで膨れ上がった唇で不満をこぼしたが、イヒョンは返事もせず、ただ黙々と歩を速めた。
テオの空間座標を感知する能力と、イアンの空間移動のコルディウム。インテルヌムが子どもたちを再び見つけ出して兵器に変えてしまう前に、どうすれば安全に守りながら、その能力を伸ばしてやれるのか。その思案でイヒョンの頭の中は入り組んでいた。
貿易連合社の正門に着くと、門を守っていた兵士は以前とは違い、イヒョンに恭しく腰を折って礼を尽くした。
「中へご案内いたします」
高い天井と上等な絨毯の敷かれた応接室へ案内され、しばし待たされる間、ライルはもう我慢できないとばかりに、革張りの椅子に体をまるごと沈めた。半ば目を閉じたまま、ふかふかの椅子に埋もれた格好で、むにゃむにゃとした声が漏れ出てきた。
「あー……ここの椅子はマジで楽だな。宿の硬い椅子とはまるで別物だぜ。ここには客用の部屋とかないのかな?」
「しゃんとしろ」
イヒョンが低くライルに一言くれてやっているうちに、ほどなくして制服姿の案内の兵士がふたたび扉を開けて入ってきた。
「ベルティモ兵団長がお待ちです」
イヒョンとライルは、兵士の案内に従って執務室へ向かった。
重々しい扉がぎいっと音を立てて開くと、机の上に山のように積み上げられた貿易台帳と領地報告書の向こうに、ベルティモの巨大な体躯が目に入ってきた。羽根ペンを手に書類の山に埋もれていた彼が顔を上げ、イヒョンを見つけるなり、むさ苦しい髭を上機嫌に揺らして破顔した。
「おう、イヒョン! ライル、おまえさんも来たか!」
ベルティモが席を立ち、大股で近づいてきた。黒く日に焼けた顔の深い傷跡までもが愉快そうに揺らめくほど、嬉しそうな様子だった。
「北西部の話がよほど気になっていたとみえる。こうして朝っぱらから訪ねてくるところをみるとな。はっはっは」
イヒョンは軽く会釈をした。
「あの日はずいぶんと心残りでした。ですが今日は、もっと重要な用があって参りました」
挨拶を終えたイヒョンは、ベルティモの執務室をそれとなく見回した。
机の片側でせっせと羽根ペンを動かしながら書類を整理している副官が1人、そして武装したまま槍を手に戸口に立つ護衛兵が2人、部屋の中にいた。
信頼に足る兵士たちだとはいえ、今から持ち出す話は、外へ漏れてはならない重大な話だ。
「いったいどんな話だから、北西部の情勢の問題よりも重要だというのか、気になるところだな」
「兵団長、部下の方々を下がらせていただけますか?」
イヒョンの落ち着いた、それでいて含みのある声に、執務室の中の空気がずしりと沈んだ。すると、隣に立っていたライルが、うんざりだとばかりに肩をすくめて腕を組んだ。
「いつもいつも重要な話、重要な話って……。毎回こんな調子だよ。ろくに説明もしてくれないしさ。そばで聞いてる人間の心臓を縮み上がらせる才能だけは、大したもんだよな」
ライルが唇をこれでもかと膨らませて不満をぶちまけたが、ベルティモは彼のぼやきに大きく笑った。
「部下を下がらせるくらい、どうということはない。だがわしは、どんな話が出てくるのかのほうが楽しみだよ」
ベルティモは副官と、入り口に立っていた兵士たちを見やった。
「みな、しばらく外していてくれ」
副官は護衛兵2人と一度目を合わせてから、静かに会釈をして外へ下がっていった。
扉が完全に閉まる音が部屋に響いた。
外の物音が遮断された執務室の中には、ただ3人の呼吸の音だけが残った。
ベルティモは執務室の中央に置かれた椅子を勧めると、自分もイヒョンの向かいにどっかりと腰を下ろした。広い胸を張り、腕を組んだ。
「さあ、話してみろ。何があった」
イヒョンは、レンの小屋で目にした2人の子どもの衝撃的な能力——テオの空間座標感知と、イアンの戦術的な空間移動を、頭の中で精密に並べ直した。しばし息を整えてから、口を開いた。
「去年のプルベラの戦い、覚えておられますか」
「覚えていないはずがあるか。街が半分崩れた日だぞ。おそらくわしは、死ぬまであの一件を忘れんだろうな」
ベルティモの眼差しが、一瞬重々しく沈んだ。
「あのとき戦いを終えてから、伯爵が主催された会議がありましたね。あの場で多くのことが決まったと記憶しています。ですが振り返ってみると、重要な内容を一つ見落としていました」
「見落としただと?」
「ええ、そうです。ほかでもない、ペルトゥスたちが都市へ入り込んだ方法です」
「それは……わしの記憶では、ただ黒い霧を通って入ってきたものだと聞いていたが」
「その黒い霧の門を開いたのは、人間でした」
ベルティモの眉がぴくりと動いた。組んでいた丸太のような腕に、じわりと力がこもった。
「人間だと? それは……」
ベルティモは顎鬚を撫でながら、イヒョンをじっと見つめた。
「その言い方だと、誰がやったのか知っているように聞こえるな」
イヒョンは断固とした表情でベルティモを見据え、口を開いた。
「ほかでもない、イアンという子どもです。プルベラ近郊に暮らす狩人が引き取って育てている」
「ああ……」
ベルティモはしばし記憶を手繰る顔をしてから、指をぱちんと鳴らした。
「そうだ、あの子か。たしか、街の近郊の森に住むレンという狩人が引き取ったという話を聞いたな」
「昨日、その家へ行ってきました」
「子どものためにか?」
「いいえ。実のところ、ただ挨拶がてら立ち寄っただけです。そこで偶然、その能力を目撃しました」
イヒョンの声が、いっそう低く沈んだ。
「あの子のコルディウムは……私にもよくは分かりませんが、おそらく空間を移動する門を開くものです。物も、人も、望む場所へ送ることができます。直接見ました。仕留めた鹿を、遠く離れた場所から移動させてくるのをです」
ベルティモの顔から笑みが完全に消え去った。かつては騎兵隊長として戦場を駆け回り、密輸団を率いたこともあった男だ。今は貿易連合社エクイタス同盟の護衛兵団長として身を置く彼の鋭い直観と経験が、イヒョンの持ち出した話が決して尋常な問題ではないと告げていた。
「それは本当か? 人間まで、だと?」
「以前、崖から落ちかけた子どもを、瞬く間に移動させたこともあるそうです」
ベルティモが低く口笛を吹きながら、革張りの椅子に深く背をもたせかけた。ごつい指で顎鬚をごしごしと擦る彼の瞳が、激しく揺れていた。
「……そりゃ武器どころの話じゃないぞ。戦争そのものをひっくり返しかねん力だ。補給路を完全に無力化するのはもちろん、精鋭の兵力を敵の指揮部や城壁の向こうへ直接投入できるということじゃないか」
さすがはベルティモだった。
イヒョンから聞いたひと言だけで、戦に使われうる数々の手立てが、頭の中に浮かび上がっているようだった。
「それだけではありません」
イヒョンが落ち着いた声で言葉を継いだ。
「レンさんの息子、テオという子もいます。確かめてみたところ、位置を感知する能力があるようでしてね。一度目にしたものであれば、人であれ物であれ、今どこにあるのかを正確に言い当てます」
ベルティモがどすんと音を立てて、体を前へぐっと乗り出した。険しい眼差しの中で、圧倒的な興味と極度の警戒心が濃く絡み合い、火花のように弾けた。
「……一つの家に、そんな力を持った子どもが2人だと? 領地じゅうを探しても、コルディウムを戦力として使えるほどの力を持つ者は、片手で数えるほどだろうに……」
「ええ。テオが物や人の位置を確かめ、イアンが空間を越えて軍を移動させるとしたら……大陸のいかなる城砦も戦線も、意味を失います」
執務室の中に、しばし重い沈黙が押しつぶすように降りた。いつもぼやいてばかりのライルさえ、これ以上は口を動かすこともできず、唇を一文字にぐっと結んだ強張った顔で、2人の会話をただ静かに聞いているほかなかった。
「兵団長もご存じのとおり、インテルヌムは人の感情を収穫する連中です」
イヒョンが言葉を継いだ。
「極限の恐怖と絶望を抜き取って、結晶体に精製する。そしてあの子たち、イアンであれテオであれ、そんな力を持った子どもが奴らの手に落ちたなら……」
「……考えただけでも、おぞましいな」
ベルティモがごつい指で顎鬚を擦りながら、低く呻いた。イアンの戦術的な『空間移動』と、テオの『位置感知』。この2つの力が結びつき、インテルヌムの手中に落ちた瞬間、エペリアのあらゆる城砦と戦線は意味を失い、地獄へと変わるはずだった。
「もしふたたび奴らの手に落ちれば、エペリア大陸の未来など、わざわざ考えてみるまでもありません」
イヒョンの眼差しが冷ややかに沈んだ。
「ですから、私はこの子たちを守りながら、その力をきちんと伸ばし、制御できるよう助けてやりたいのです。そこで、王都にあるアカデミアへ送るのはどうかと考えています」
ベルティモが顎鬚を撫でながら考え込んだ。太い指が机の天板を叩く音が、執務室の静寂を破った。やがてベルティモが顔を上げ、口を開いた。
「アカデミアか……その前に、バセテロンにいるシエラのところへ連れていくのはどうだ?」
「シエラさんなら……」
イヒョンの顔に、一瞬ためらう色がよぎった。
「以前、エレンの能力を伸ばすために助けを求めたところ、エレンを王都のアカデミアのほうへ送ってしまいましてね。ですから、何の縁もない子どもたちを引き受けてくれるかは分かりません。それにシエラもまた、仕事をしながら子どもの面倒を見るには限界があります」
「ふむ。だがな、その子たちの能力が確かめられたら、エセンビア伯爵だって黙ってはおられんだろうよ。おまえさんも知っているだろうが、領主たちが優れたコルディアルになりそうな人材を探すのに、どれほどの金を注ぎ込んでいるか分かるか? そんな状況で、優れたコルディウムを持つ者が城へ訪ねてきたのに、それをむざむざ帰すだと? ありえん話だ。それに、アカデミアへ入学させたいなら、後援か推薦状が要る。もしそれが嫌だというなら、旅人になる道くらいしか見当たらんな」
ベルティモが肩をすくめた。
イヒョンは、ふと浮かんだ考えに顔を上げた。
「でしたら兵団長、先日、今月末にバセテロンへ行かねばならないとおっしゃっていませんでしたか」
「そうとも。エセンビア伯爵に、貿易情勢の報告の件と、海軍艦艇の改造の件で行かねばならんのだ」
「そのとき、この子たちを連れていって、シエラに預けていただけませんか?」
ベルティモはしばし目をしばたたかせてから、腕を組んで困った表情を浮かべた。
「子どもを連れていくくらい、いくらでもできるさ。バセテロンへ向かう軍艦に乗せれば、安全もある程度は保証されるだろう。だがな、わしがシエラに状況をきちんと説明して、説得できるかどうかも問題だ。わしはコルディウムのほうは門外漢だからな」
ベルティモはしばらく間を置いてから、言い添えた。
「それに……そういう問題は措いておくとしてもだ、子どもたちはまだ幼いのに、素直について来るだろうか? いや、ついて来る以前に、親が同意するだろうか? コルディウムを伸ばすということ、それも戦に使われるような能力を伸ばすということは、戦に加わるということを意味する。むしろ、自ら危険に身を晒す羽目になるかもしれん話だ。危険を避けるのではなく、真正面から受け止めにいくと言ったほうが、より正しいかもしれんな」
その言葉に、イヒョンの表情が曇った。
ベルティモの言うとおりだった。
レン氏が城壁の外でひとり暮らしている理由からして、都市の喧騒が嫌だからだった。
そんな人物が、息子と、息子も同然の子どもを、大きな都市の教育機関へ送ることに同意するはずがなかった。しかも、そこが戦争の渦中になるかもしれない場所だというなら、なおのことだった。
「……ひとまず、レンさんに直接会って話してみます」
「そうだな。それが先だろう。どのみち船で動けばすぐだ、まだ少しは時間がある」
イヒョンが低く呟きながら、深く息を吐き出した。
「それはそうと、これがおまえさんの頼んでいた資料だ」
ベルティモが書類の山の中から書類挟みを一つ、卓の上に取り出して置いた。
「これはわしが昨日、執務室へ来て探しておいたものだ」
その中には、地図と北西部地域の情報が整理されていた。
「2日前に宿で話しきれなかった話の続きだ」
イヒョンは書類挟みを開いて中身に目を通した。
「まず、デュッセルヴァイン侯爵領とベルーズ伯爵領の関係も書いてある。ルベンハルト公爵はバルネリオン公爵と仲が悪い。ということは、その下のフォルカレン伯爵も同じだろうよ。統一戦争の後でさえ、2つの領地の間では局地戦が起きていたほどだからな。昔から領土のことで、恨みが根深かったと見える。今でもあそこを行き来する商団ですら、護衛隊なしでは通らないほどだそうだ。詳しいことは読んでもらえばいい。ところで、わしが不思議に思っているのはペンダーマーク子爵だ」
「ペンダーマーク子爵、ですか」
イヒョンが低く問い返した。
「そうだ。情報がほとんどない。領地も、正直なところ領地と呼ぶのもはばかられるほど狭い。だが、その位置がまた実に絶妙な場所でな。北西部の領地からレオブラム侯爵の領地へ続く道筋に位置している」
「交通の要衝というわけですね。ですが、情報がほとんどないということは……」
「商業が発達していないという話さ。それに、領地が小さい割に人口はそう少なくもない。領地から採れる作物で養える人口を上回っているんだ」
「まるで……」
「そうだ。要塞のようだ、という話だよ」
「小さな領地の領主が反乱を企てるはずがありません。ということは……」
「おまえさんの考えているとおりだろうよ。ペンダーマーク子爵は、国王の盾である可能性が高い。ごく忠実な部下を、北西部の反乱に備えて据えておいた門番であり、監視者である可能性が高いという話だ」
「それで私に、ペンダーマーク子爵のところへ先に行けとおっしゃったのですね」
「まさにそれだ」
隣から聞こえてくる退屈な話に、ライルは口を開けて欠伸を堪えるのに必死で、目尻に涙を滲ませていた。
イヒョンは、ベルティモが指し示していく部隊の配置、検問の穴、アクイロニア湾の地域情報の一つひとつを、頭の中の戦術地図に精密に刻み込んでいった。
話が一区切りついて締めくくられると、イヒョンとライルは軽く頭を下げて席を立った。扉へ向かうイヒョンを、ベルティモがふと思い出したように手を上げて引き止めた。
「ああ、そうだ。エダンが、明日コランのほうへ行く船便が一つあると言っていたぞ。おまえさんたち、あの変わり者の職人を探しに行くつもりなら、その便で多少は便宜を図ってもらえるだろう。話は先に通してある」
「ありがとうございます、兵団長」
「兵団長だなんて、やめてくれ。ただベルティモと呼べばいい」
イヒョンは丁重に挨拶を述べてから、重々しい扉を開けて外へ出た。
貿易連合社の建物の外へ出ると、いつの間にか真昼の強烈な陽射しが、プルベラの青い石畳の上に降りそそいでいた。昼の活気が都市全体を覆っていたが、ライルは腹を押さえながら、イヒョンに向かって情けない表情を浮かべてみせた。
「アニキ、もうそろそろマジで飯を食いに行こうぜ。頭は割れそうだし、腹の皮が背中にくっついて、本気で腹が減って死にそうなんだけど……」
「軽めにしておけよ」
イヒョンが視線を森の道のほうへ向けながら、落ち着いた声で言った。
「午後にまた、レンさんの家へ行かなきゃならないからな」
その言葉に、ライルの瞳が飛び出しそうなほど見開かれ、顔が瞬く間に容赦なく歪んだ。
「……またですか? どこへ行くって?」
「なんなら宿で休んでいてもいいぞ」
「いや、それは嫌だ!」
ライルがむっとして、悔しそうに足をどんと踏み鳴らした。
「誰が行かないって言ったよ! ただ……すげえしんどいって話だろ!」
イヒョンは返事もせずにくすりと笑い、商店街のほうへ足を向けた。
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