321. 間違い
レンの小屋を出るころには、日はすでに西の尾根の向こうへ傾きかけていた。ブーケを急かして駆けたとしても、夕食の時間をだいぶ過ぎてから、ようやくプルベラの西門に着きそうだった。
低く降りた橙色の日差しが、森の入り口をねっとりと染め上げていた。
レンとフローラ、そしてテオとイアンが門の前まで見送りに出てきた。もうすっかり冷たくなった夕風の中でも、子どもたちの顔にだけは、春の陽光のような温もりが滲んでいた。
「お気をつけて。次にいらっしゃるときは、もう少し長く居ていただけたら嬉しいです」
「ずいぶんとお世話になりました」
イヒョンが軽く頭を下げた。
レンは腕を組んだまま戸枠に斜めにもたれかかっていたが、重々しく沈む低い声で言い添えた。
「プルベラを発つ前に、もう一度寄ってくれ。まだ話が残っているからな」
イヒョンは短く頷いて答えた。
「そうします。必ず寄らせていただきます。次に来るときには、お借りした手帳をお持ちしますね」
「手帳? ああ! あれか……かまわんよ。あんたが持っていなさい。わしはもう新しいのをこしらえたからな。はっはっはっは」
レンが豪快な笑い声を弾けさせると、森全体が鳴り響くようだった。
「本当に重宝させていただきました。ありがとうございます」
イヒョンの心のこもった感謝の言葉に、レンは照れくさいのか太い首筋を掻きながら、わずかに顔を伏せて背けた。
「あんな手帳がこの小屋に埋もれていたところで、何の役にも立たんからな。あんたが使いこなしてくれたなら、何よりだ」
イヒョンの姿が森の道の向こうへ完全に消えるまで、レンの家族は門の前を離れなかった。イヒョンは彼らを背にして森の道を抜けながら、ふと後ろを振り返った。背後で、小屋の煙突から立ちのぼったけぶるような煙が、夕暮れの空にほのかに散っていくのが見えた。
足の下では赤や黄に色づいた落ち葉がかさかさと鳴り、遠くから梟の鳴き声が、夕べの始まりを告げるように低く響いた。トラクシル川が岩にぶつかる荒々しい水音とともに、プルベラの西門が目に入るころには、日はすでに完全に尾根の向こうへ沈んで消えていた。
風に乗って運ばれてくる湖の水の匂いと、ひやりとした冷気が肌をかすめた。イヒョンは手綱を握り直し、ブーケを急かして速度を上げた。闇を裂く蹄の音が、静寂に包まれた森の道に小気味よく響き渡った。
プルベラに着いたときには、空はすでに濃い藍紫色に染まっていた。
昼間の騒がしさを洗い流したかのような都市の夜は、夢幻的で、なおかつ密度の高い静寂に満ちていた。広場の店ごとに油灯が一つ、また一つと灯り、近ごろ新たに敷かれた石畳が、最後の夕焼けの名残を受けてほのかに輝いていた。
商船がびっしりと停泊した埠頭のほうからは、船乗りたちの陽気な歌声と、がやがやとした笑い声が流れてきた。居酒屋の戸の隙間から漏れ出る安酒のエールと燻製魚の匂いが、湖の冷たい夜気と混じり合い、プルベラならではの独特な息づかいを作り上げていた。
イヒョンはそっと手を上げて胸の上に置いた。
薄い布地の向こうで、心臓のあたりからほのかに脈打つ5番目の烙印——『喜び』の温もりが、手のひらを伝って全身へと柔らかく広がっていった。
イアンの取り戻した澄んだ微笑みと、レンの小屋で分かち合ったあの温もりが、胸の奥底から黄金色の渦となって溢れ出していた。
涙ぐましいほどに切なく、それでいて強烈な感覚だった。
イヒョンの瞳が、藍紫色の夜空の下で深く沈んだ。
次の目的地は北西部。
エセンビア伯爵領の北部に位置するペンダーマーク子爵の領地、そしてもう1人の地球転移者かもしれないディオニシウスの痕跡。そして、テオとイアン。
解きほぐさねばならない大きな事情と、絡まりもつれた問題の数々が、彼を待ち受けていた。
厩にブーケを預けて手綱を渡したあと、宿へ向かって足を運んだ。顎まで満ちてくるような夜気を吸い込みながら階段を上り、扉を開けて中へ入った。
扉が開くと、頬杖をついてテーブルに座っていたライルがイヒョンを見つけ、がばっと立ち上がった。
久しぶりに顔を合わせた嬉しさがよぎってもよさそうなものだったが、イヒョンの目にまず飛び込んできたのは、思いきり口を尖らせ、頬をぱんぱんに膨らませたライルの顔だった。
「……アニキ」
声に不満が滲んでいた。イヒョンは戸枠を掴んだまま、どこか妙な気配を感じて足を止めた。
「どうした?」
「どうした、だって?」
ライルの声が一瞬で跳ね上がった。下手くそに怒りを堪えようとしているようだったが、ライルの唇は震えていた。
「アニキ! こうして1日中出かけるつもりなら、せめて金くらい置いていくもんじゃないのかよ? 手紙1枚ぽんと残して消えちまったら、俺はどうすりゃいいんだって!」
「……ああ」
イヒョンはそこでようやくしまったと思い、額を押さえた。
共有の金として管理している路銀は、すべて自分の懐にあったという事実を、すっかり忘れていた。
ライルは朝に宿の主人が出してくれたパン1切れとスープを食べ、茶を飲んだきり、1日中ただの水以外は何も口にできずにいたのだ。ぱんぱんに腫れたように突き出た唇は、腹立ちまぎれに自分の歯で噛み、食いしばった跡だった。
「すまん。そこまで頭が回らなかった」
「すまんの一言で済む話じゃないって! 俺は1日中、腹からぐうぐう鳴る音を音楽代わりに聴きながら、窓の向こうを通っていく商人どもが売ってる香ばしい食い物の匂いに、鼻をひくつかせてるしかなかったんだからな!」
ライルは悔しさが顎の先まで込み上げてきたのか、鼻息を荒くして腕を組んだ。イヒョンを上から下まで眺め回していたライルの鼻が、ふとくんくんと忙しなく動いた。
「待った! ってかアニキ、その服から漂ってくる匂いはなんだよ?」
「何がだ」
「香ばしくて、ちょっと……肉と甘い野菜をじっくり煮込んだシチューの匂いなんだけど。いったい何してきたんだよ? 俺だけ宿に置いてけぼりにしといてさ!」
イヒョンは一瞬、言葉に詰まった。レンの小屋でフローラが丹精込めて出してくれた熱々の鹿肉のシチュー、その香ばしい匂いが、襟元にそっくり染みついていたせいだった。
「……友人の家へ行ってきた」
「友人の家だって⁉」
ライルの目がかっと見開かれた。声のトーンが、さらに1オクターブ高く跳ね上がった。
「まさかまた、うまいもんを1人でご馳走になってきたのか? 俺がぺこぺこに飢えて、腹の皮が背中にくっつきかけてる間に? 俺はこのかび臭い宿の部屋で飢え死にしかけてたんだぞ! 誰だよ? いったい今度はどこの貴族の家で、豪勢な食事をふるまわれてきたんだ? 匂いがただごとじゃないぞ!」
「いや、ただの……その友人は狩人だ。本当にただの食事だったんだよ」
「ただの食事の匂いが、こんなに濃く染みついてるってのか?」
ライルは鼻をイヒョンの襟元に近づけて、疑いの眼差しを引っ込めようとしなかった。ライルのくんくんという息の音は、まるで猪が鼻息を荒らげる音のように聞こえた。
「これ完全に、じっくり取った出汁の匂いじゃん。野菜も香辛料もたっぷり入れた、本物の濃い匂いだって!」
「ただの鹿の……シチューだ」
「ほらみろ! それ見たことか! さっきはただの食事って言ったよな!」
ライルが悔しさのあまり、足で床をどんと踏み鳴らした。古びた板張りの床が、けたたましい音を立てて揺れた。
「俺は1日中、水で腹を膨らませて苦しみに耐えてたってのに、アニキだけ暖かい家でこんな香ばしい匂いのするシチューを食ってくるなんて、これが道理に合うと思うのか?」
恨めしさと怒りは、そう簡単に解けそうな気配を見せなかった。唇をつんと突き出して睨みつけるライルの眼差しには、悔しさが溢れんばかりだった。
イヒョンは冷や汗をかきながら、こっそりと溜め息を呑み込んだ。
「……分かった。本当に悪かった。その代わり今日は特別に、ライル、おまえの行きたい店で酒と夕飯を奢ってやる」
ライルの眼差しが、少しばかり変わった。
ついさっきまで爆発しそうだった悔しさは跡形もなく消え去り、瞳が瞬く間に夜空の星のようにきらめいた。
「……もしかして、また1杯だけに制限するとか言わないよな?」
「制限はしない。その代わり、ぶっ倒れない程度にしておけよ」
ライルの突き出ていた口角が、そろりと持ち上がった。
そうしてふと、自分でもあまりに簡単に機嫌が直ってしまったと気づいたのか、わざとらしく素知らぬふりで横を向いて座り直し、こほんこほんと咳払いを繰り返した。
「んん、んん! まあ……アニキがそこまで反省して、心から謝ってるんだから、今回だけは特別に大目に見てやるよ。絶対に酒に釣られてるわけじゃないからな。誠意が伝わってきたから許すんだ」
ライルはもう一度喉を整えるように咳払いをしてから、言葉を継いだ。
「んん、んん、それとさ、アニキ。共有の金をアニキが管理するのは分かるよ。俺だって、自分が金を持ってたらあれこれ全部使っちまうかもしれないと思うし。でもさ、それでも俺の取り分ってもんが、少しはあってもいいんじゃないか? 最低限のプライドっていうか、品位維持費っていうか……またこういうことが起きないとも限らないだろ?」
イヒョンは内心でぷっと笑いを漏らした。
ぴんと張りつめた糸束のような緊張の中でも、いつだって息を抜かせてくれるのは、ライル特有の厚かましさだった。
「そうだな。分かったよ」
ライルの顔に、たちまち赤みが差した。
つい先ほどまでシャベルでも引っかけられそうなほど突き出ていた唇は、すっかりほどけていた。
イヒョンとライルは、昼とは違う夜の活気が訪れるプルベラの広場通りへと足を運んだ。
広場脇の商店街は、夕方になるとかえって昼よりも活気に満ちていた。灯りの吊るされた屋台ごとに燻製肉と焼きたてのパンの匂いがねっとりと絡み合って路地の隅々まで満たし、露天商たちの声を張り上げた値切りのやりとり、居酒屋の窓の向こうから漏れ出るがやがやとした笑い声が、肩をかすめて行き交う人々の間に乱雑に広がっていった。
再建された都市らしく、新たに建てられた建物の濃い木の匂いがまだ抜けきらないまま、長らくその場所を守ってきた古い路地の黴くさい風情と溶け合い、プルベラならではの独特な空気を作り上げていた。
ライルが先頭に立って堂々と案内したのは、木の看板に大きな鹿の角が掛かった、こぢんまりとした食堂だった。
店の奥の窓際の席に座ると、竈で肉がこんがりと焼ける匂いが、容赦なく鼻先を刺激してきた。ほどなくして注文した料理が運ばれてくると、ライルの目が盆ほどに見開かれた。
こんがりと焼き上げた丸鶏の脚に、バターをたっぷり絡めたじゃがいも、そして湯気の立ちのぼるパリッとしたパン。
外はカリッと、中は肉汁がじゅわりと溜まった鶏肉を、ライルが一口目から大きくかじりついた途端、口いっぱいに弾ける香ばしさに全身を震わせ、呻くような声を漏らした。
「うおー、これだよ! これ! これマジでたまんねえ」
酒杯が何度か行き交い、腹がずっしりと満たされて場が和んできた頃、イヒョンが杯を置いて、低く口を開いた。
「近いうちに、またベルティモを訪ねるつもりだ」
「そんな気はしてたよ」
ライルがもう片方の手で鶏の脚をむしりながら、何でもないことのように頷いた。口元を脂でてらてらと光らせたままだった。
「変わり者の職人を探しに行くんだろ? あの、なんだっけ、ディオニシウスだったか」
「それもあるんだが……」
イヒョンの声がわずかに沈んだ。
「それとは別に、重要な用がもう一つできた」
ライルは鶏の脚を口にくわえたまま、手をぴたりと止めた。噛んでいた肉を呑み込みもしないまま、目を丸くしてイヒョンを見つめた。
「また重要な用? 俺たちの任務より重要な用ってことかよ? それ、いったい何なんだ?」
イヒョンはそっと身を前に傾け、声を落とした。食堂の中を満たすがやがやとした喧騒の中でも、ライルにだけ届くほど低く、密やかに。
「大陸の勢力図を変えかねない話だ」
ライルの顔から笑みがすっと消え去った。
「いやいや、こんな田舎町に、エペリア大陸の勢力図を変えるような話の種が転がってる余地なんてあるのかよ?」
「そう言えるだけのことが起きたんだ」
「ってかアニキは、いったいなんでそんなに厄介事を引き寄せて回るんだよ? 行く先々で何かしら事件が起きて、重要な用ができるんだからさ。俺にはまったく理解できないね」
「おまえも聞けば考えが変わるさ。ここで話すのは難しいから、ベルティモに会って一緒に話すほうがよさそうだ」
ライルはもっと問い詰めたそうな顔をありありと浮かべていたが、イヒョンの断固とした表情に、結局はふうっと溜め息をついて肩を落とし、イヒョンをしばらく見つめてから、エールをもう一杯注文した。
「あのさ、俺、アニキがそういう話をすると、マジで心臓が震えるんだからな」
だが、エールが1杯、2杯と喉を通るうちに、いつそんな重大な話が口から出たのかと思うほど場の空気はふたたび和らぎ、2人はまた和気あいあいと食事を続けた。
ライルはイヒョンの予想どおり、いつの間にか呂律が回らなくなり、結局は食堂を出るころには自分の体すらまともに支えられず、イヒョンの背中でじたばたしながら負ぶわれる羽目になった。
プルベラの更けた夜の通り、ほのかな街灯の明かりの下で、2人の長く伸びた影が、青い石畳の上をゆっくりとかすめて過ぎていった。
背中で泥酔したライルがむにゃむにゃと呟く声に、イヒョンは微笑みを浮かべながら足を運んだ。
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