320. テオ
「もう平気なのかい?」
イヒョンは作業台に腰かけたテオを、ちらりと見下ろした。
「父ちゃんがどんな人か知らないんですか? 前にあのお姉さんだって助けたじゃないですか」
テオは作業台から足をぶらぶらさせながら、誇らしさのたっぷり詰まった声で答えた。
『愚かな質問だったな』
イヒョンは内心で笑いを呑み込んだ。
鹿の首から流れ落ちる血をしばらく眺めていたレンが、首を傾げた。ごつい手で顎鬚を撫でおろす狩人の目元に、訝しげな色がちらりとよぎった。
「そういえばこいつは、もともと怪我などせん子だったんだがな。獣に出くわしたこともない。この前のことは、やけに妙だった」
レンの低い独り言に、イヒョンの頭の中で何かが引っかかり、その感覚が鋭く閃いた。
初めてテオに出会った日、森の闇の中で何頭もの狼に囲まれ、木の上に登っていた少年の姿が、稲妻のように蘇った。
「そういえば前に僕たちが初めて会ったとき、狼のせいで木に登っていたよね?」
「ああ、あのときですか」
テオが何でもないことのように、手に持っていた木の枝をくるくる回しながら答えた。少年にとっては、過ぎ去ったちょっとした出来事にすぎないらしかった。
「父ちゃんが夜に薬草を採ってこいって言うから。それを探すのに夢中で、狼が来るのに気づかなかったんです」
「あんな夜更けなら、狼がうろついているのは当たり前だからね」
イヒョンが落ち着いた口調で言うと、テオは作業台から飛び降りるようにして下り、手を振ってみせた。
「えー、平気ですよ。普通はあいつらがどこにいるか分かるもん。気にもしません」
「狼の習性をよく知っているんだな」
さすがは罠猟師の息子だと思った。森で積み重ねた経験が体に染みつき、動物の移動経路を予測しているのだろうと判断した。だが、イヒョンの言葉にテオは首を左右に振った。
「習性はよく知りません。ただ、どこにいるか分かるんです。分かるっていうより、感じるっていうか……」
テオの言葉を聞いた瞬間、イヒョンは動きを止めた。どこか不自然な言い回しだという感覚があったからだ。
『どこにいるかを、感じる……だと?』
一般的な表現の仕方とは少し違うという感じがした。単に子どものつたない言い回しと片づけるには、語の選び方がどこかおかしかった。
普通は「この地域には狼が多い」とか「あの谷には熊がいる」というように、環境と種を結びつけて範疇化するのが一般的だ。耳に聞こえる音や匂い、あるいは地面に刻まれた足跡を追う、空間的学習の結果として表現するのが常識だった。
だが、特定の個体の位置を「感じる」という表現は、次元の異なる領域だった。推論や分析の産物ではなく、感覚と直観の言葉だった。
「どうして分かるんだい? 今、この瞬間にどこにいるのかが」
イヒョンの瞳が深く沈み、低い声で問い返した。
テオは本当に不思議だとでもいう眼差しで聞き返した。
「そんなの、みんな分かるんじゃないんですか?」
「いや。普通は分からない」
イヒョンのきっぱりとした否定に、テオが首をひねった。
「うーん……父ちゃんだって、そうやって動物を獲ってるんじゃなかったの?」
テオは少し驚いたような表情でレンを見た。狩人のレンは血のついた解体ナイフを拭いて仕舞うと、からからと笑い声を上げた。
「いや、わしは動物がどこを通るか観察して分かるだけで、感じているわけじゃないぞ。動物がどこにいるか分かるなら、こんなに手間をかけて罠をいくつも仕掛ける必要もないだろう? はっはっは」
レンの答えに、テオはまた訝しげな表情を浮かべた。自分の持っている感覚が、他人にはないという事実を、どうしても理解できないという顔だった。
「僕も、どうやってそれを感じてるのかはよく分からないんですけど、ただ感じるんです」
少年が何気なく投げ出した、無邪気なひと言。イヒョンはテオのきらきらした瞳をじっと見つめた。
『これは単なる野生の勘じゃない』
コルディウムの力を操れるようになったイアンと同じように、テオもまた自分でも気づかぬうちに、内に秘められた感情の力、あるいは特定の対象を感知する感覚系のコルディウムを発現させているのではないか、と思えた。
「じゃあ、普段からお母さんやお父さんがどこにいるかも分かるのかい?」
「当たり前じゃないですか」
テオが、なぜそんな当たり前のことを訊くのかとでもいうように、目を丸くした。
イヒョンはレンを振り返り、レンは自分も初めて聞く話だという表情で、肩をすくめてみせた。
「テオ、それをもう少し詳しく……」
「まあ、その前に……」
レンが鹿の背をぽんと叩いた。
「血はあらかた抜けたようだな。手入れして中に入ろう。話は中でするほうがいい」
小屋の中は、暖炉の樫の薪が燃えながら放つほのかな温もりと、鼻につんとくる木の焼ける匂いで満ちていた。
フローラは竈の前にしゃがみ込んで鉄鍋を掛け、下処理を済ませた鹿肉を大ぶりに切り分けて放り込んだ。乾燥タイムとクローブ、ぴりりとしたマングリンの香辛料の匂いが、室内の空気を急速に満たしていった。
レンは工房の片隅の低い縁台の上に、いま手入れを終えたばかりの鹿のごわついた皮と白い骨、優雅に反った角をきちんと並べ、解体ナイフで残った肉片を削ぎ落とす作業に没頭していた。
しゅっ、しゅっ、と、なめし用の刃が皮の裏を削る冷ややかな摩擦音。まな板の上でフローラの刃に肉が切り分けられる重い打音。その合間合間に薪の火がぱちっと火花を散らす音だけが、室内の沈黙を裂いていた。
イヒョンはテーブルを挟んで、テオと向かい合って座った。
「さっきのあれ、もう少し詳しく話してくれるかい?」
イヒョンの落ち着いた問いに、テオは手のひらに顎を載せ、天井の木の梁を見上げながら、しばし考える顔をした。
「ただ……何かを見て、それが何なのか分かるとするでしょ。そしたら、その後からはそれがどこにあるか、ただ……感じるんです。別に頑張る必要もありません」
テオは大したことではないというように、軽く肩をすくめてみせた。
「みんなそうだと思ってたのに」
イヒョンは何も言わず、革のベルトに提げていた多用途の短剣を取り出し、テーブルの上に置いた。年季の染みついた黒い木の柄に、刃の長さは手のひらの幅にも満たない、短くありふれた作業用の短剣だった。
「これをよく見てごらん」
テオが気のなさそうな表情で、テーブルの上の短剣を見つめた。少年の瞳が、短剣の木の柄から鋭く研ぎ上げられた刃先へと、ゆっくり移っていった。数秒、十数秒。
テオの顔には、これといった表情の変化はなかった。
「もういいです」
テオが視線を逸らしながら、無頓着に呟いた。
イヒョンは席を立ち、扉の外へ出た。
小屋から少し離れた岩のそばに、中が空洞になった巨大な古木が1本立っていた。
イヒョンは木の皮の上にこびりついた湿った苔を指先で押しのけ、手に握っていた短剣を、木の洞の奥深い闇の中へと押し込んだ。
イヒョンはふたたび小屋へ戻り、テオの前に向かい合って座った。
「さっきの短剣、今どこにあるか分かるかい?」
テオは目を閉じもしなかった。思い悩んだり記憶を手繰ったりする素振りすらなく、ただ軽く指を伸ばして、古木のある方角を正確に指し示した。
「あっちのほうにある、中が空っぽの大きな木の洞の中です」
正確だった。
偶然か? 自分が外に出たとき、足音で距離と方角を推し量ったのか? だが、小屋の分厚い樫の扉越しに足音が聞こえるとは思えなかった。
何より、古木のある方角には窓もなく、わざわざ外に出なければ覗き見ることもできなかった。イヒョンが短剣を隠している間に小屋から誰かが出てきていれば、間違いなく軋む扉の音が聞こえたはずだ。
これは直観だとか、野生の狩人の五感といったものではなかった。知覚と認知の境界を飛び越えた現象だった。
『これは間違いなくコルディウムだ』
テオは自分でも自覚しないまま、特定の事物や存在の空間座標を感じ取るコルディウムを持っているに違いなかった。
空間を飛び越えて人や物を運べるイアン1人だけでも大きな問題だというのに、テオの能力もそれに劣らず途方もないものだったからだ。
対象を認識していなければならないという前提こそあるものの、一度認識した対象の位置を感知できるという、驚異的で危険極まりない能力の持ち主がもう1人いるとは。
竈の上の鉄鍋から、白い湯気が細く立ちのぼった。
フローラが心を込めて鉄の玉杓子で鍋の中をゆっくりとかき回すたび、大ぶりに切った鹿肉と野菜がとろりとした出汁の中で重々しく混じり合い、濃く粘りのある香りが小屋の小さな室内をびっしりと満たしていった。
ぴりりと刺激的な匂いの間から、鹿ならではの濃く香ばしい肉の香りが深く滲み出してきた。テオが目を輝かせて鼻をひくつかせた。
しばらくして木の食卓に全粒粉のパンが並べられ、続いてレンがシチューをよそった大ぶりの木の器を、イヒョンの前に置いた。
肉は繊維に沿ってほろりとほぐれるほど柔らかく煮込まれていて、噛むたびに濃い肉汁が口いっぱいに広がった。
イヒョンはひと匙を大きくすくいながら、心から感嘆した表情を浮かべてみせた。
「おいしいですね。手際がいいんですね」
「まあ、そんな。材料がよかっただけですよ」
フローラが笑いながら、恥ずかしそうに手を振った。
小さな樫の食卓を囲む空気は、小屋の暖炉の灯りと同じくらい温かく和やかだった。テオとイアンは昼間、森で罠にかかった鹿を見つけた瞬間のことをはしゃぎながら言いふらし、フローラはそんな2人の子どものおしゃべりを、微笑ましい眼差しで眺めていた。
イヒョンもまた、軽い笑いで応じながら会話に調子を合わせた。
だが、イヒョンの口は理性とはまったく別に動いていた。
『テオも、イアンも』
空間を越えて転送するイアンの奇跡のような力。そして、特定の対象の位置と感情の座標を、空間を飛び越えてリアルタイムで追跡してみせるテオの能力。
どちらもきちんと磨き上げられたなら……戦争の趨勢を、いや、この大陸全体の歴史と権力の構図を、まるごとひっくり返してしまう力だった。同時に、インテルヌムには決して知られてはならない力でもあった。
イヒョンは口元にしきりに温かな笑みを浮かべていたが、たった今口に入れて噛んだ鹿肉の味は、まともに感じ取れていなかった。
食事が終わり、ほかの家族が後片づけをしに外へ出ているあいだ、イヒョンはひとり食卓の前に座り、消えかけていく熾火を見つめていた。
残り火が薪の上で静かに崩れ落ちた。室内を満たしていたぴりりとした香辛料の香りと、じっくり煮込んだ鹿のシチューの匂いは薄れていったが、イヒョンの内側を蝕む冷ややかな悪寒は、炎の温もりをもってしても覆い隠せなかった。
ペルトゥスには自意識がない。
人の体を材料にして造り上げた戦闘人形。
感情も、意志も、抵抗もなく、ただ命令のままに動くよう設計された人形。
ところが、イアンは違った。
イヒョンはそっと頬杖をつき、イアンを観察した。もしイアンがほかのペルトゥスたちのように、意識までも完全に取り除かれた肉塊の人形にすぎなかったなら、空間を行き来する力は、勝手に暴走するだけの凶器でしかなかったはずだ。
だが、意志で方向を定め、対象を選り分け、距離を繊細に測ることのできる意識が残っているのなら、話はまるで変わってくる。それはもはや制御不能の危険要素などではなかった。
戦場のもっとも致命的な急所、敵の包囲網や鉄壁の防衛線の向こうへ、一息に最精鋭の兵力を注ぎ込むことのできる『絶対的な戦術輸送機関』となる。一瞬にして数百、数千の武装軍団を敵の城壁の真ん中に叩き込み、都市を内側から屠ることのできる扉。
『だからこの子にだけ、自意識を巧妙に残しておいたのかもしれんな』
瞬間、背骨を伝って身の毛もよだつ鳥肌がぞくりと立った。インテルヌムの冷酷な計算が頭の中に描き出されると、首筋の毛先がぴんと逆立つような冷ややかさが走り抜けた。そんな危険極まりない、おぞましい設計を施された存在が、今まさに目の前ではしゃいでいるという事実が、あらためて奇怪に、そして冷ややかに迫ってきた。
そして、イアンが奴らの手中から逃れることができたのは、エペリア大陸全体から見れば、気が狂いそうなほどの幸運だった。
テオもまた同じだった。
まだはっきりと解明されてはいない位置認知の能力だが、もし彼のコルディウムがインテルヌムの手に渡り、制御されたとしたら、どうなるのか?
大陸のいかなる軍隊も、影に潜む暗殺者も、伏兵や逃走さえもことごとく無用の長物へと成り下がるだろう。天の上から敵の位置を見下ろす、神の目を手に入れたも同然なのだから。
『この子たちを守り、さらには自分の力を自ら制御できるよう育てなければならない』
頭の中で下した結論は明確だった。だが、目の前に立ちはだかる現実の壁は、霧の中のように遥か遠く霞むばかりだった。
具体的な保護の手立てどころか、今すぐにもライルとともに北西部へ向かい、与えられた任務を遂行し続けねばならない身の上だった。
イヒョンは長く息を吐き出し、こめかみを押さえた。
『仕方ないな。またベルティモと相談してみるしかない』
読んでくれてありがとうございます。
本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。
ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。
お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。




