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319. 能力

レンがゆっくりと首を巡らせ、作業台の片隅に立っていたイアンを見つめた。


「この前やってみせたやつだ」


イアンが頷いた。


その動作はどこかぎこちなかったが、その細い身振りには、不思議なほど固い決意がこもっていた。


イアンは作業台の近くにある、少し開けた空き地へ黙々と歩いていった。


そして、ためらいもなく体を丸めた。


膝を胸元までぴったりと引き寄せ、両手で頭を抱え込む姿勢。子どもの唇がかすかに震え、何かを低く呟いた。


聞こえるか聞こえないかの、低く静かな囁きだった。


その姿を目にした瞬間、イヒョンの心臓が、がくんと底へ落ちていくようだった。


『……あれは』


息が詰まった。


イヒョンの視界がたちまち歪み、記憶の底に沈んでいたプルベラ広場の血まみれの光景が、嵐のように蘇ってきた。


痙攣するように四肢をよじって丸まっていた子ども、そしてその押しつぶされた体の底から立ちのぼっていた漆黒の黒煙。制御を失い、狂気をまき散らしていた発作。


暴走。


心停止患者のモニターの警告音よりも鋭い音が、イヒョンの脳裏を打った。


あの惨劇がまた繰り返される。


イヒョンの体が、理性よりも先に飛び出していた。


「イアン!」


絶叫に近い叫びが、森に響き渡った。


だが、イヒョンの手が子どもの肩に届く直前、レンがその腕を掴んで押しとどめた。


「大丈夫だ」


イヒョンの不安とは裏腹に、その口調は恐ろしいほど落ち着いていた。


レンはイアンに視線を据えたまま、低く言い添えた。


「ただ見ていなさい」


イヒョンは足を止めた。


掴まれた腕から伝わるレンの力のせいではなかった。レンの眼差しに宿った、揺るぎない信頼のせいだった。


それでもイアンへ向けられたイヒョンの瞳には、依然として濃い懸念と緊張が揺れていた。


丸まっていたイアンが、ひどい悪夢から覚めるように、ゆっくりと体を伸ばした。


少年の細い腕が伸びをするようにまっすぐ伸びたかと思うと、刹那のためらいもなく、片方の手が天へ向かってぐっと掲げられた。


少年の指先から噴き上がった青い光の筋が、空気を裂いてまっすぐ上へと伸びていった。


どこでも見たことのない、濃い藍色の光だった。


光の筋が空に届いたかと思うと、雨雲が広がるように、イアンの周囲に青みがかった霧のようなものがゆらゆらと立ちのぼりはじめた。


裏庭に広がっていく青みがかった気配は、瞬く間に濃くなっていった。やがてイアンの姿かたちさえ霞むほどに、裏庭全体が立ちこめる霧に覆われた。


プルベラのあの凄惨な夜。漆黒の闇の中からペルトゥスが現れ、広場全体を奇怪な暴走で呑み込んでいった、あのときの光景と、ぞっとするほど似ていた。


だが、決定的に違う点があった。


身の毛もよだつ狂気と憎しみの代わりに、凍てつくほど透きとおった霧の中には、精密に制御された冷ややかさだけが宿っていた。空気を裂く微細な悪寒は、肌を刺す脅威ではなかった。それは水面に落ちた露のひと雫が静寂を破るように、空気の流れを物差しで測るかのごとく正確に鎮めていく感覚だった。


『暴走……じゃない?』


この青い光と霧は、オーケストラの指揮者が音律を操るように、落ち着いて調律されていた。


霧が視界を完全に覆い隠さんばかりに立ちこめた頃、空へ伸びていた青い光の筋が、焚き火の最後の残り火のように、すうっと消え去った。


光が消えると、青い霧もか細い糸束のようにするすると解け、しだいに晴れていった。


霧が完全に散ると、イアンの足元に巨大な鹿が1頭、静かに横たわっていた。


つい先ほどまで、そこには確かに何もなかった。散らばった木屑と、古びた作業台だけがぽつんと置かれていただけだった。


イヒョンは魂を抜かれたように、イアンと鹿を交互に見つめた。


宙から、それこそ何ひとつ存在しなかった未知の空間から青い霧が晴れたかと思うと、鹿が1頭まるごと現れたのだ。ごわついた皮の目、優雅に伸びた角の質感、果ては毛皮の上に細かく結んだ水滴まで。


幻影ではなかった。まぎれもなく実在する、実体を持ったものだった。


「……これは、いったいどういうことですか?」


イヒョンが強張った唇を開き、レンを振り返った。


レンはイアンの乱れた髪を、誇らしげに無骨な手で撫でてやりながら、からからと笑った。


「わしも初めて見たときは気絶するかと思ったよ。はっはっは」


レンが木の切り株にどっかりと腰を下ろし、言葉を継いだ。


「あれはな、去年の初冬のことだ。忘れられんよ。初雪の降った日だったはずだ。夕方に仕掛ける罠の支度をしていたら、突然イアンが家へ駆け込んできてな」


レンの回想が続いた。


「その日、テオのやつが山で足を踏み外して崖から転がり落ちたというんだ。はあ、その話を聞いたときのあの驚きときたら。最初は信じられなかったよ」


レンの顔に、当時の肝を冷やした記憶が、稲妻のようによぎっていった。


「支度していたものを放り出して、イアンについていった。幸い、崖の中腹の小さな段に引っかかって、大怪我はしていなかった。だが、問題はそこからだったんだ」


レンがゆっくりと首を振り、イヒョンは黙って耳を傾けた。


「日は暮れていくし、おまけにその辺りには、縄を結わえて固定できる木が1本もなかった。どうやっても縄が木まで届かんのだ。わしが下りていって連れ帰る手立てがなかったんだよ」


「テオはどうだったんです?」


イヒョンが低い声で尋ねた。


「こいつも怪我をした体だから、自分の手で縄を巻きつける力がなかった。呼んでも、かろうじて呻き声を漏らす程度だったんだから、推して知るべしだろう。ふふ、後で見たら手足が折れておったよ。それでも死ななかっただけ儲けものだ」


レンが笑い混じりの溜め息をついた。


「ああもこうもできず、腹の中だけが真っ黒に焦げついていったちょうどそのとき、イアンのコルディウムが発現したんだ」


イヒョンがもう少し詳しい話をせがむと、レンは手を振った。


「ああ、ちょっと待ってくれ。まずはこの鹿に手をつけんとな」


彼は革のエプロンを結び直し、太い袖を肘の上までまくり上げた。


「死んでから時間が経ちすぎると、血が固まって抜きにくくなるんだ。仕事をしながら続きを話そう」


レンが作業台のそばに立っていたテオとイアンを振り返った。


「おい、道具を持ってきてくれんか」


その言葉が落ちるが早いか、テオとイアンが、長らく息を合わせてきたかのように手慣れた動きで動きだした。テオは壁に掛かっていた鉄の鉤と解体用のナイフを、イアンは大きな木の盥を、すばやく運んできた。イアンの細い腕に抱えられた盥が、がたがたと音を立てた。


レンは鹿の後ろ脚を太い麻縄でしっかりと縛り、木の柱に逆さに吊るした。


レンが解体ナイフを握るや、鹿の首筋を引いて血管を正確に断ち切った。


黒ずんだ赤い血がどくどくと流れ落ち、下に据えた木の盥の底を打って、ぽたぽたと滴った。粘つく生臭い血の匂いが空気に混じり、裏庭に広がっていった。


だがイアンはその血まみれの光景にもまるで怯えず、血が飛び散らないよう、両手で盥の縁を慣れた手つきで支えていた。指先に赤い血の粒が飛んでも、子どもの瞳は微動だにしなかった。


1年前、日陰にうずくまり、制御を失った暴走に呻いていたあの惨めな子どもだとは、とうてい信じられない、しっかりとした成熟した姿だった。


イヒョンの胸の片隅に、重々しい憐憫と誇らしさが同時に押し寄せてきた。


血が盥にひたひたと溜まっていくと、傍らで刃の血を拭き取ったレンが、ふたたび話を継いだ。


「テオのやつが崖の下に取り残されて、気を揉むばかりだった、ちょうどそのときだったな……」


レンは盥へ落ちる血を見つめながら、言葉を続けた。


「あのとき、イアンがわしにこう言うんだよ」


レンは鹿をしばらく見つめてから、作業台の上を片づけた。


「『僕を縄で縛って、崖の下に下ろしてください』ってな」


「……イアンが、自分をですか?」


イヒョンの片方の眉が高く吊り上がった。


まるで納得のいかない話だった。子どもを危険区域へ送り込むなど、常識的な救助の手順とはまったく筋を異にしていた。


「わしも飛び上がったさ。そんなことはできんと。1人失っただけでも胸が張り裂けるというのに、2人とも危険に晒すわけにはいかんからな」


レンがゆっくりと首を振った。


「ところがイアンが、わしの目をまっすぐ見てこう言うんだ。『僕を信じてください』とな」


レンはしばし手を止め、血の溜まった盥のそばに黙って立っているイアンを、じっと見つめた。


「……ほかに手立てがなかったんだ。日はすでに暮れていたし、下から聞こえてくるテオの呻き声は、だんだんかすかになっていったからな。だからイアンを縄で縛って、あの崖下の段へ下ろしたんだ」


イヒョンは知らず知らず、ごくりと唾を呑み込んだ。


「イアンは下りていって、まずテオの様子を見てな。大怪我はしていないようだと、わしに向かって叫んで知らせてくれた」


そのときの記憶が生々しく蘇ったのか、レンの声がかすかに震えた。


「それから、テオの隣にしばらく座って、何をしているのか、じっとしていたよ。日が暮れた後だったから、何があったのかはわしには分からんがな。しばらくして、自分をもう一度引き上げてくれと言うんだ」


レンが皮を剝ぐためのナイフ類と、臓物を入れる木桶を整えながら、話を続けた。


「ところがイアンが崖の上へ上がってきた、その次にな……」


レンが短く息を整えた。


「たった今見たのと、まったく同じことが起きたんだよ」


イヒョンの目が細くなった。


「イアンが手を掲げると、青い霧がぶわっと広がって……」


レンがその瞬間を再現するように、宙へ向かって腕を振り回した。


「霧が晴れたときには、崖の下にいたテオが、イアンの前に移されていたんだ……」


瞬間移動。


感情が物理的な実体として発現するというコルディウム。


『空間移動……いや、座標の再構成か?』


たった今、裏庭で鹿を移動させた現象。そして、崖の下にいたテオを上へ引き上げた出来事。


『自分の意志でコルディウムを制御している』


イヒョンはイアンの顔をじっと見つめた。


「わしはその場で、そのまま腰を抜かすところだったよ。はっはっはっは」


レンが荒れた手で顔を撫でおろしながら、苦笑いを浮かべた。狩人の硬い肌に深く刻まれた皺の間から、当時の気が遠くなるような驚愕が、濃く滲み出ていた。


「これはいったい何事かと思ったさ。だが、目の前に倒れているテオを見たら、はっと我に返ってな。そのまま息子を背負って、小屋まで死に物狂いで駆け戻ったんだ」


話を終えたレンは、逆さに吊るされた鹿の首筋を伝ってぽたぽたと落ちる黒ずんだ赤い血を見下ろしながら、淡々と言い添えた。血は裏庭の冷ややかな空気を裂き、木の盥の底に溜まりをつくっていた。


「……それからイアンは、少しずつあの力を完璧に操れるようになっていった。今じゃあの通り、仕留めた獣を家まで運んでくることもあるんだ」


イヒョンは、逆さ吊りのまま血を抜かれていく鹿と、その足元に立つイアンを交互に見やった。


胸が高鳴った。


『人を。それも崖の下から上へ。空間を飛び越えて、まるごと運んだ』


プルベラであった出来事、ヴェナトルが人々を拉致していた手口……あの凄惨で奇怪な事件の全容が、一瞬にして鮮明になった。


空間を歪め、移動させる、神の領域とでも呼ぶべきコルディウムの能力。


イヒョンの頭の中に、無数の戦場のパノラマが一瞬で描き出された。


『……この力が磨かれたなら』


考えがそこに及んだとき、背筋を冷たい悪寒が走り抜けた。


前線で負傷した兵士を、治癒神官の手が届く安全な後方の野戦病院へ、一息に引き抜くことができる。敵の手中に落ち、四面楚歌で包囲された味方の部隊を、瞬く間に救出することも可能だ。輸送船や荷車が泥濘にはまり、補給が麻痺する事態も防げる。


いや、それ以上だった。


空間移動が可能であれば、重装甲の騎兵隊や精鋭部隊を、戦場のもっとも致命的な急所へ瞬時に送り込み、敵の指揮部を一撃で皆殺しにすることさえできる。


プルベラで、奴らがそうしたように。


戦況の勝敗を、いや、全世界の戦争の歴史そのものを、まるごとひっくり返してしまう反則じみた力だった。


だが、イヒョンの思考はそこで止まらなかった。そのまばゆい可能性の裏に潜む残酷な一面が、同時に浮かび上がってきた。


知識という資産は、使い方しだいで薬にもなれば、悪魔の武器にもなる。


『この力を、敵が手に入れたなら』


もしインテルヌムが再びこの子を見つけ出したなら……奴らは少年の灰色の文様の奥に眠る深淵をしっかと握り締め、大陸全土を血に染める武器へと造り変えるだろう。想像するのも厭わしい惨劇が、目の前に幻のようにちらついた。


『……この子を、このままこの森に置いておくわけにはいかない』


イヒョンの瞳が深くなった。少年の細い肩に載せられることになる世界の重みを、彼は目を背けるわけにはいかなかった。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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