318. 黄金の庭園
明るい黄色の扉だった。
扉の真ん中には、金糸で縫い取ったかのような、太陽をかたどった文様が精巧に彫り込まれていた。
近づくと、扉から温かな気配がほのかに滲み出してきた。
怒りの部屋が心臓を焼き尽くさんばかりの火の玉のごとき熱気だったとすれば、この扉から漏れ出る温もりは、気だるい春の日差しが肌にそっと降り立つような温もりだった。
そしてそれは、愛の部屋が与えてくれた温もりとも、微妙に違っていた。
愛が互いに握り合った手から伝わる体温のようなものだとすれば、これは世界のすべてを照らし出す、まばゆく明るいものだった。
イヒョンは手を上げ、扉にそっと手を置いた。
すると重々しい扉が、軋み一つ立てることなく、ひとりでにするりと開き、その隙間からまばゆい陽光がどっと溢れ出した。
黄金色の庭園だった。
枝がしなるほど甘い果実を実らせた木々が長く立ち並び、その間を煌めく細い小川が、澄んだ音を立てて流れていた。
空気はまるで蜜を溶かしたように、ふんわりと甘かった。息を吸い込むたび、その甘い香りが肺の奥深くまで沁み込んで、長いあいだ無表情のまま硬く凍りついていたイヒョンの口元に、知らず小さな笑みが広がった。
イヒョンは澄んだ小川に沿って、ゆっくりと庭園を横切っていった。
足を運ぶたびに草の葉が柔らかく踏みしだかれ、驚いた蝶たちが足元から四方へと舞い上がった。
どこからか聞こえてくる小鳥たちのさえずりは、庭園全体を一つの美しい歌のように温かく包み込んでいた。この果てしない温もりの中では、どんな憂いも絶望も、足をつける場所など見つけられそうになかった。
小川に沿ってゆっくりと歩いていたイヒョンの足が、やがて一点で止まった。
小川の果てに、世界中の光を掻き集めたかのような、静かな池が佇んでいた。水は底が透けて見えるほど澄んで穏やかで、さほど深くもなさそうだった。
木の葉の間から差し込んだ温かな陽光が水面に低く降り立つと、さざ波が揺れるたび、撒き散らされた金色の鱗のように四方へ煌めいた。
そして、池の真ん中に、まばゆく輝く1枚の鏡が、何の支えもなく水面の上に静かに浮かんでいた。
鏡は庭園の穏やかな陽光を全身に含んだまま、ほのかに澄んだ光を放っていた。その滑らかな表面に何が映るのかは、まだ分からなかった。
イヒョンは躊躇なく、浅い池へそっと足を踏み入れた。
足首を包み込む水は、絹のように柔らかかった。
足首まで浸かった水面が陽光を受け、黄金色の波となって揺らめいた。イヒョンが1歩ずつ池の静寂を渡っていくたび、穏やかな水面の上に丸い波紋が絶え間なく広がっていった。
その波の割れる場所ごとに、金色の鱗が砕けて煌めき、四方へと明るく散っていった。
池の真ん中には、黄金色の太陽の文様が精巧に刻まれた縁を持つ鏡が、まるではるか昔から彼を待っていたとでもいうように、静かに立っていた。
イヒョンは鏡の前に立ち、そっと胸に手を当てた。
感情の烙印が、胸の内側から重々しい気を放っていた。
そして、残された最後の空白のうちの1つ。
『喜び』
他者の不幸に対する憐憫でもなく、世界へ向けた激しい怒りでもない、ただ存在しているというだけで胸を満たしてくれる、純粋な歓喜。
イヒョンは静かに息を吐きながら、鏡の表面へ向けてゆっくりと手を伸ばした。
鏡の表面に、イヒョンの指先が触れ合った瞬間。
ちゃぷん、という音とともに鏡の中の表面が波のように揺らめき、ただの1度も見たことのなかった自分自身の、心からの表情が映り始めた。
鏡の前に立ったイヒョンは、堪えていた息を低く止めた。
透きとおって揺らめく水面の上を、深い闇の奥に封じ込めていた過ぎし日の瞬間が、よくできた1本の映画のように、ほのかに流れていた。
どれもこれも、美しく、まばゆい瞬間だった。
淡い桜色の花びらが舞い散っていた、ソウルのとある総合病院の前庭。夜を徹して12時間にもおよぶ大手術を終えて出てきた明け方、冷たい手術台の上で死にかけていた患者が奇跡のように目を開けたとき、その家族たちがイヒョンの汚れた白衣にすがりつき、慟哭しながら泣き、笑っていた瞬間。
命を救い出したというあの圧倒的な胸の昂ぶりを、イヒョンはあまりにも長いあいだ、贅沢なものだと思い込んで忘れて生きてきた。
この世界、アルテラで積み重ねてきた記憶も絡み合いながら流れていった。
冷たいトラクシル川から生きて戻り、初めて目を開けたときのリセラの、ほのかな微笑み。
エペリア最初の医師として、自らの手で救い上げた兵士を見つめながら、晴れやかに笑っていたセイラの顔。
発作を起こすイアンに触れたエレンの小さな手から、コルディウムが立ちのぼった、あの奇跡のような日。
そしてライルとともに、漆黒の闇に沈んだカレオストラの城門の外で、互いを見つめながら、わけもなく虚ろな笑いを弾けさせた瞬間まで。
「ああ……」
イヒョンの目頭が赤く燃え上がり、熱くなった。
『……俺は、こんなにも大切なものを……』
この世界に落ちてから生き延びることに必死で、一瞬一瞬を分析し計算することに追われて、本当は自分の胸を叩いていたこの大切な瞬間を、ただの1度も丸ごと感じ取ったことがなかった。
喜びという感情を、地獄でひとり生き残った者の罪悪感の後ろへ、はるか遠くに押しやって生きてきた。
それなのに今、抑えつけていたそのすべての瞬間が、波のように一度に押し寄せて、彼の胸を激しく打ちつけてきた。
喉がからからに焼けつくように詰まってきた。
懐かしさと感謝、そして世界のすべてを抱きしめてやりたいような胸の昂ぶりが熱く絡み合い、目元に満ちた涙が、鏡の表面にぽとりと落ちた。
ちゃぷん!
その涙が黄金色の水面に触れた瞬間、池全体が巨大な光となって大きく揺れ動いた。
イヒョンの胸の内側、すでに刻まれた烙印の隣で空白のまま残されていた5番目の窪みが、燦然たる黄金色に、狂おしく脈動しはじめた。
「もう……」
イヒョンはゆっくりと、鏡の滑らかで冷ややかな表面に、豆だらけの手を触れさせた。
刹那、硝子の質感を突き抜けて温もりが滲み出してきた。
ふんわりと柔らかな温もり。
春の日差しか、気だるいそよ風のような気配が指先を伝い、血管に沿って腕を過ぎ、ゆっくりとイヒョンの胸の内側へ流れ込んでいった。
透きとおっていた水面の上で、鏡に触れたイヒョンの手が、しだいに黄金色に染まりはじめた。
指先から始まった燦然たる光は手首を伝ってさらりと広がり上がり、やがてそのまばゆい黄金色は腕を遡って、イヒョンの胸の真ん中にぴたりと居座った。
胸に刻まれていた文様が、待ちかねていたとばかりに激しく光を放ちはじめた。
温かくまばゆい黄金色の波が、イヒョンの全身をびっしりと包み込んだ。
同時に、イヒョンを取り囲んでいた黄金色の庭園が、さらさらと流れていた細い小川が、穏やかな池が、目が眩むほど真っ白に輝きながら、遥かかなたへ消え去っていった。
光の爆発が一瞬にして引いたとき、イヒョンはいつの間にか、レンの小屋の木の椅子に腰かけていた。
「……はあ」
イヒョンは苦しいほど堪えていた息を吐き出しながら、ゆっくりと目を開けた。
肺の奥深くまで沁み込んでくるのは、甘い蜜の香りではなく、薬草を煮る匂いと木灰のほろ苦い匂いが混じり合った、馴染み深い空気だった。
悲しみと愛、怒りと欲望、恐れ、そして喜び。
イヒョンは自分でも気づかぬうちに、ゆっくりと椅子から立ち上がっていた。
ただ胸の内側から激しく押し寄せる熱い波と、新たに取り戻した感情が導くままの純粋な本能のままに、イヒョンは躊躇なくイアンのもとへ歩み寄った。
そして、その小さな子どもをそっと、それでいて世界そのものを抱きしめるように、腕の中へ包み込んだ。
イアンの丸い目が見開かれた。
予告もなく訪れた突然の抱擁に、どうしていいか分からず、体がぴんと凍りついたように強張った。
イヒョンの胸の内にくっきりと刻まれた7つの文様のうち、5番目の黄金色の文様が、ほのかに光を放ちはじめた。
すると、イアンの薄いシャツの向こうの胸からも、それに応えるように、温もりとともに温かな光が立ちのぼった。
黄金色に広がるイヒョンのコルディウムと、イアンの胸から立ちのぼった澄んだ温もりが、宙で柔らかく触れ合った。
2つの光はまるでずっと以前からひとつだったかのように、互いを押しのけることなく、心地よく優しく包み込みながら、染め合っていった。
呆然としたまま強張っていたイアンの痩せた体から、緊張がほどけていった。
子どもの短い息づかいがイヒョンの頬に触れた。そしていつの間にか、その小さな両腕が、イヒョンの硬い背中を抱き返していた。
イアンもまた、イヒョンの胸板に顔を埋めて、ぎゅっと抱きついた。
誰ひとり、口を開いて言葉を発する者はいなかった。
小屋の中を満たしていた木灰の匂いと薬草の香りの上に、2人の胸から放たれる黄金色のコルディウムの温もりが、満ち潮のようにあふれていくのを、その場で息を殺して立っていた全員が、体じゅうで感じ取ることができた。
2人が交わしたものは、ただの抱擁ではなかった。
それはこの世界アルテラに存在するどんな魔法や奇跡よりも強力な——『感情の回復』であり、救いそのものだった。
レンとフローラは、その奇跡のような光景を黙って見つめていた。
まるで訳が分からなかった。
久しぶりに訪ねてきた客が、それもいつも理性的で落ち着いていた男が、突然席を立ってイアンを抱きしめるなど。
普通の状況であれば、怪訝に思い、戸惑うところだった。
それなのになぜか、ただの1人も、その温もりを乱すことができなかった。
温かくて、胸がいっぱいになるほど込み上げてきて、不思議なくらい切なくて涙ぐましい何かが。
フローラは知らず知らずのうちに赤くなった目頭を、汚れたエプロンの裾でそっと拭った。
隣に立っていたテオは、目をぱちくりとしばたたかせた。
イヒョンとイアンを交互に見やっていた子どもは、胸の内側から押し寄せる見慣れぬ響きに、わけもなくこほんと咳払いをして鼻をすすった。
「……なんだかよく分かんないけど」
テオは首筋を掻きながら、ぎこちなく呟いた。
「オレもなんか、胸がじんとする」
小屋の中を満たしていた黄金色のコルディウムの心地よい温もりが鎮まると、イヒョンはそっと回していた腕をほどいた。そして、イアンの痩せた肩を労わるようにそっと掴んだ。
イアンを見下ろすイヒョンの瞳には、これまで誰ひとり見たことのない、柔らかく深い光が宿っていた。
地球では冷静な外科医として、そしてこの世界アルテラに落ちてからは、一瞬一瞬を精密なメスのように冷徹に、分析的に生きてきた彼の眼差し。だが今日ばかりは、かちかちに凍りついた世界を溶かす春の陽光のように、どこまでも温かかった。
「よかった。本当に……」
胸の奥深くで硬く凝り固まっていた塊が、さらりと溶け落ちていくような気分だった。
すると、イアンが恥ずかしそうに、それでいて黄金色の庭園に降りそそぐ陽光よりもなお晴れやかに、微笑んでみせた。光を失っていた子どもの灰色の瞳に、澄んだ生気が宿った、完璧な微笑みだった。
込み上げてきた胸を鎮めようとするかのように、フローラが汚れたエプロンの裾でそっと目元を拭ってから、つとめて明るく軽やかな声で空気を変えた。
「さあ、さあ! みなさんこんなに久しぶりにいらしたのに、お茶だけ出してお帰しするわけにはいきませんよ!」
彼女が持ち前の威勢のいい仕草で、袖をきゅっとまくり上げた。薬草と木灰の香りの沁みついた小屋の空気が、ふたたび活気を帯びはじめた。
「ちょうど主人が獲ってきた野ウサギがありますから、あたしの腕を思いきりふるってみせます。お食事、きっと召し上がっていってくださいね」
「鹿もあるぞ。持ち帰ってはおらんがな」
急に我に返ったかのように、隣に立っていた狩人のレンがぶっきらぼうな声で口を開いた。
イヒョンはゆっくりと立ち上がり、レンを見た。
「鹿は重いですからね。私も一緒に行って運んできましょう」
「ははは。その必要はないんだ」
レンが軽く手を振りながら笑い声を上げた。イヒョンはわずかに眉をひそめた。大きな鹿が1頭あれば、家族総出で何日も食べられる肉に、皮と角と骨まで取れるはずだ。熟練の狩人であるレンが、あの巨大な野生の鹿をそのまま放っておくはずがなかったからだ。
「それでも、そのままにしておくわけにはいかないでしょう?」
「ああ……それがな、イアンのおかげで、もう重いものをわざわざ担いで歩く必要がなくなったんだよ」
「え?」
イヒョンは訝しげにレンとイアンを交互に見やった。
イアンはただ淡々とした表情で立っているだけだった。レンはイヒョンに向かってにやりと笑い、ついてこいとでも言うように顎をしゃくってみせた。
「百聞は一見に如かず、だ。表へ出てみなさい」
レンが裏庭へ向かうと、まるであらかじめ示し合わせていたかのように、テオとイアンが自然な足取りでその後に続いた。
イヒョンもまた、訳が分からぬまま子どもたちの後について、小屋の裏庭へ出ていった。
小屋の裏手には、深い森の鬱蒼とした木々とともに、レンが獲物を解体し、さばくための広い木製の作業台が据えられていた。
レンが作業台のそばに立ち、静かにイアンを振り返って口を開いた。
「イアン、頼む」
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