317. 小屋
川に沿って下っていくと、びっしりと茂ったオークの木陰が、しだいに薄れていき、緑の森の彼方に、ついに視界が、ぱっと開けた。
森の縁に沿って曲がりくねった道を抜け、森へ向かって少し入り込んだ場所、川へと伸びた低い丘に構えた、レンの丸太小屋が、その姿を現した。
1年前の、あの頃と比べても、変わったところは、ほとんどなかった。
丸太の屋根の上には、苔が、相変わらず心地よさげに根を張っており、土壁に寄せかけて、びっしりと立てておいた薪の山からは、瑞々しい木の香りが滲み出ていた。
低く垂れた軒下には、風を受けて、ぱりぱりに乾いていくタンポポの根と、ぴりっとした薄荷、そして、名も知らぬ野の草の束が、隙間なく吊るされていた。
石を積み上げて作った小さな煙突からは、薪の燃える細い煙が、空へ向かって立ちのぼり、黄色い陽射しが斜めに差し込む庭の片隅では、雌鶏が数羽、平和そうに土をほじくり返しながら、餌をついばんでいた。
イヒョンは、ブーケの手綱を、庭の隅の杭に繋いでおいた。そして、気持ちよさげに鼻息を吹き出す、その逞しい首筋を、一度やわらかく撫でてやったのち、小屋の扉の前へと、歩を進めた。
こん、こん。
木の扉を軽く叩く音が、心地よい森の静寂に触れた。
しばらくして、内側から低い足音が床を踏んだかと思うと、きしむ摩擦音とともに、木の扉が、するりと開いた。
「どちら様ですか……?」
扉の隙間から、まず顔を覗かせたのは、フローラだった。
彼女は、イヒョンの顔を、すっかり見分けると、両の目を、たちまち、まん丸に見開いた。
「あらまあ、これは誰かと思えば。イヒョンさん?!」
フローラの顔の上に、どんな偽りも混じらぬ、純粋で明るい微笑みが、春の花のように、一息に広がった。
「まあ、本当にイヒョンさんだわ! これは、いったい、どれほどぶりでしょう! さあ、お入りになって。伯爵様とご一緒に、バセテロンへ発たれたという話だけは、聞いていましたけれど……」
彼女の、喜びに満ちた声が、庭の気だるい空気を、やわらかく破ると、胸元の衣の裾の向こうで、じわじわと温もりを孕んでいったイヒョンの感情の烙印が、温かくなった心臓の鼓動に合わせて、おぼろげに揺らめいた。
家の中には、フローラ一人だった。
心地よい小屋の室内には、乾いた薄荷と野の草の香り、そして、かまどのやわらかな薪の匂いが入り混じって、ほんわりと漂っていた。
イヒョンは、ゆっくりと中へ歩を進めながら、軽く視線を巡らせた。
「皆さん、狩りにでも行かれたのですか?」
イヒョンが、がらんとした居間と、子どもたちの小さな部屋のほうを見やりながら、低く尋ねた。
「ええ、レンと子どもたちが、罠を仕掛けに出ているんです」
「もう、そんな年になったのですか?」
「そろそろ、自分の役目を果たさなきゃならない年ですからね。それにしても、本当にお久しぶりです。バセテロンへ発たれたという話だけは聞いていましたけれど……どういう風の吹き回しで、こんな遠い所まで、いらしたんですか?」
「用があって、プルベラに立ち寄ったのです」
イヒョンが、やわらかな微笑みを浮かべてみせた。
「この近くまで来て、恩人にお会いせずに、そのまま行くわけには、いきませんからね」
そう言うと、手に持っていた包みを、フローラに、丁重に差し出した。プルベラの市場で、あらかじめ買ってきた贈り物だった。
仄かな紫色に、美しく織り上げた布に包まれた包装の中には、甘い干し果物と、貴重な香辛料、そして、少年テオと、幼い子どもたちの分にと、用意した甘い食べ物が、きちんと詰められていた。
「あらまあ、こんなものまで買ってきてくださって」
フローラは、どうしてよいかわからず、手を振ったが、イヒョンの心遣いに、どうにも感謝しきりの顔で、遠慮がちに包みを受け取った。
「少しだけ待っていてくださいね。レンも子どもたちも、出てから随分経ちますから、じきに戻ってくるはずです」
彼女が、贈り物を抱えて、台所のほうへと身を翻した。
「お茶を一杯、いかがです? まずは、楽になさってくださいな」
イヒョンは、軽く頭を下げて感謝を表すと、古びてはいるが、汚れ一つなく、きれいに拭き上げられた、木の椅子に、ゆっくりと腰かけた。
窓の隙間から差し込む、気だるい陽射しが、手垢のついた木の卓の上へと、温かく長い軌跡を落とした。
しばらくして、フローラが、花の香りを、ふんだんに漂わせる茶を手に、台所から出てきた。
「それにしても、どうお過ごしでしたか? リセラさんは?」
「バセテロンで暮らしていたのですが、少々用ができて、カレオストラに立ち寄ってきた帰りなのです。リセラは、おそらく元気にしているでしょう。私も、会わなくなって、数ヶ月になりますし」
「あらまあ、薄情ですこと。あのとき見た限りでは、お二人の仲、ただならぬ様子でしたのに……ほほ」
「はっはっは。今やっている仕事が、少々、時間がかかるものでしてね。リセラは、伯爵様がお心遣いくださったおかげで、城で伯爵様の仕事を手伝っているのです。ありがたいことに、住む場所も用意していただきました」
「あら、あら、よかったこと。よかったですねえ。それじゃあ、いつバセテロンへ、お戻りになるんですか?」
「さあ。まだ、少々仕事が残っていましてね。それが終わったら、戻らなければ」
「リセラさんのような美しい女性を、一人で長く放っておいては、いけませんよ。そんなことをしていると、きっと、おかしな連中が、言い寄ってくるんですから」
まさにその時、小屋の庭の外から、木の葉を踏む、快活な足音とともに、狩人と子どもたちの声が、低く聞こえてきた。
「母さん! 母さん、僕たち、今日、森の下の罠で、兎を3匹も獲ったんだよ! 大きな鹿も獲ったんだ」
活気あふれる声が、森の静けさを、軽やかに破った。
ほどなく、丸太で作った扉が、勢いよく、がばりと開き、狩人のレンと、二人の子どもが、どやどやと小屋の中へ入ってきた。草と土埃の匂いが、子どもたちの衣の裾に乗って、ほんわりとした室内の空気に、混じり込んだ。
「運が良かった。昨日、仕掛けておいた、塩の岩の近くの罠に……」
手にしていた獣の袋を下ろしながら叫んでいたレンの言葉が、宙で、ぴたりと止まった。後に続いて入ってきた二人の子どもも、見慣れぬ客のシルエットを見つけると、示し合わせたかのように、同時に、ぴたりと足を止めて立ち尽くした。
瞬間、小屋の中に、なんとも言えぬ静寂が、降りた。
シルエットの主を見分けたレンの、太い眉が、吊り上がった。
「……イヒョン?」
レンは、自分の目を疑うように、しばし呆然と立っていたが、ほどなく、頬髭を歪ませて、天井を揺るがす、大きな笑いを、爆発させた。
「なんと、これは、いったい誰かと思えば! 本当に久しぶりだな。はっはっは!」
レンは、肩に掛けていた狩りの道具の鞄を、壁に、ぽいと放り投げると、ずかずかと歩み寄り、イヒョンの手を、がしと握りしめた。
ざらついた木の樹皮のように無骨で、たこがびっしりと刻まれた、狩人の手だったが、その指先から伝わってくる、正直な温もりだけは、どんな貴族の絹の手袋よりも、嬉しく、ほんわりと温かかった。
「無事だったのだな。バセテロンへ発ったという噂だけは聞いていたが、こうしてまた会えるとはな!」
「あのとき、挨拶もろくにできずに発つことになって、申し訳ありませんでした」
「なんの。死にかけたと聞いたぞ。あんな状況で、正気でいられたはずが、あるまい……」
レンの、からからと笑う声の後ろから、傍らに立っていたテオもまた、目をきらきらと輝かせながら、一足に歩み寄ってきた。
「おじさん! 本当に、おじさんだよね? 久しぶり。でも、顔、どうしたの?」
「テオ! 失礼でしょう!」
テオの、物怖じしない質問に、フローラが慌てて止めたが、気になることを我慢できない性分のテオは、イヒョンの顔にある火傷の跡が、気になって仕方がない様子だった。
「はっはっは。旅の途中で、少し怪我をしてな。もう、すっかり治ったから、大丈夫だ」
テオの質問に、イヒョンは大きく笑うと、じっと少年の顔を見つめた。
そして、内心、深い驚きを、禁じ得なかった。
1年という歳月のあいだに、テオは、見違えるほど成長していた。1年前、狼の群れを避けて、木の上へと逃げていた、あどけなさを、すっかり脱ぎ捨てて、今では、一人前の青年と呼んでもよいほど、背丈がイヒョンの肩の高さまで、ぐんと伸びていた。父レンに従って、狩りに出ているためか、随分と太くなった腕と、広がった肩には、すでに、野を駆け巡る、本物の狩人の気概が、ほのかに滲み込んでいるようだった。
レンは、ため息を深くつくと、イヒョンを見て、済まなそうな表情で口を開いた。
「テオは、図体ばかり大きくなって、まだ子どもでな……すまないな」
「お気になさらないでください。テオも、心配で尋ねたのでしょう。はっはっは。大丈夫です」
「大きくなったな、テオ」
イヒョンは、温かな眼差しで、テオの逞しくなった肩を、ぽんぽんと叩いてやった。
そして、その後ろに立っていた子ども、イアン。
イヒョンの視線が、テオの後ろに、恥ずかしそうに立っているイアンに触れた瞬間、胸の底の底から、得体の知れない、こみ上げるものと、物悲しい切なさとが、同時に突き上げてきた。
感情を収穫され、インテルヌムの手で「未完成のペルトゥス」へと改造されていた、少年。
1年前、プルベラの共同墓地で、カルヌスに感情を奪われ、がらんと空っぽになっていた、あの瞳の奥には、今では、まったき生気の波が、おぼろげに揺らめいていた。
イアンは、まるで別の子どもに、なっていた。
血の気のない顔で、発作を起こして体を震わせていた、耳を塞いで、世界のすべての闇を、独りで背負ったまま、日陰の中に、うずくまっていた、あの危うい少年では、なかった。
憂鬱さも、世界へ向けた、荒々しく残酷な、悲しみの気配も、今では、その顔の、どこにも、見出すことは、できなかった。
外の、ひんやりとした森の風に当たって入ってきたのか、両の頬には、恥じらいを帯びた、ほんのりとした血色が、ほどよく差しており、がらんと、灰のように死んでいた瞳は、秋の朝の露のように、この上なく透き通って、澄んで輝いていた。
肩が随分と広がったテオの後ろを、小さな足取りで、ちょこちょことついて入ってきた、その子の姿は、誰かが傍で教えてくれなければ、初めから、狩人のレンとフローラの、実の子として生まれ育ったのだと言われても、誰も疑わないほど、自然で、安らいで見えた。
子どもの視線が、イヒョンへと、ゆっくりと移ってきた。
光を失った獣のように、ためらっていた、乾いた眼差しの代わりに、その瞳の中に、まるごと、イヒョンという男の姿が、端整に収まった。
「おじさん……」
イアンが、小さな指を、衣の裾の向こうで、そっともじもじさせながら、恥ずかしそうに、それでいて、ためらいなく、はっきりとした声で、挨拶を投げかけた。
「いらっしゃったんですか?」
その、短く、素朴な一言が、小屋の中の、温かな空気に乗って、イヒョンの耳元へと届いた瞬間、イヒョンは、胸の深いところから、とても言葉では説明できない、はるかで重々しい感情が、満ちてくるのを感じた。
あの子が、こんなに人間らしい表情で、まったき笑みを、浮かべられるようになるまで、狩人のレンとフローラ、そして、兄のように傍を守ってくれたテオが、いったい、どれほど深く、無条件の愛を、注ぎ込んだことだろうか……その献身と温もりが、そっくりそのまま、伝わってくるかのようだった。
長らく放置されて、凍りついていた、心の一番深い隅まで、生ぬるい温もりではない、重々しく、熱い、何かが、どっと押し寄せてきた。隙間なく満ちてくる、その温もりの中で、止まって、強張っていた息の道が、通った。
自分のことのように、いや、自分の命よりも、もっと大切なことのように、全身の血が、熱く噴き上がり、骨の髄まで、ぬくもりが、じんわりと広がった。
胸元のシャツの向こうで、烙印が、熱く脈打つ感覚が、伝わってきた。
その瞬間。
『……!』
世界が、瞬く間に、目が眩むほど、真っ白に消し去られ、めまいとともに、目まぐるしい感覚が、全身を、激しく巻きつけた。
トラクシル川の東の森の中、レンの小屋、少年イアンの恥じらいがちな挨拶、テオの快活さ、フローラの茶の香りまで、すべてが、刹那のうちに、はるかな彼方へと、呑み込まれた。
『……また、これか』
もはや、あまりにも慣れきっていた。
アルテラの惑星へと渡って以来、幾度となく経験した、異世界の奇怪な現象。慣れるどころか、胸の底から立ちのぼった、感情の密度だけでも、これから何が起こるのか、ありありと思い描けた。
イヒョンは、抗わなかった。
意識を押さえつけていた緊張を、緩やかにほどき、その、眩しく、ほんわりとした、白い光の渦に、自らのすべての精神を、委ねた。
耳元を鳴らしていた、非現実的な音が鎮まり、眩い閃光が、静かに晴れていくと、イヒョンは、四方がはるかに広がる、見慣れた空間の、ど真ん中に立っていた。
感情のホールだった。
高さの見当もつかぬ、巨大な黒いドームの世界。
床には、彼の心臓の鼓動と、完璧に同期したかのように、金色の幾何学模様が、生きて動くように、微細に光を放ちながら、脈打っていた。その中心を取り囲んで、四方へと、巨大な石の門が、円環をなして、静粛に居並んだ、静かで、はるかな、深淵の空間。
イヒョンは、もはや、自分がどの門へ向かって、歩を進めればよいのかも、直感的に、わかった。
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