316. 休息
ベルティモは、その職人の姿が思い浮かんだのか、からからと笑ったが、イヒョンは笑わなかった。
頭の中に散らばっていた、無数の情報の欠片が、磁石に引き寄せられるように、一つに合わさり、噛み合いはじめた。
『質問に値をつける、とはな……それは、一般的なエペリアの考え方ではない。情報を売り買いすることはあっても、軍事情報でも、商人の情報でもない、一般的な知識に、金をつけるとは。本当に、金しか頭にない人間か……あるいは、知識こそが財産であることを、知っているのか、そのどちらかに違いない』
イヒョンの心臓が、激しく打ちはじめた。
あの者は、単なるカルボリアの天才職人ではない可能性が高かった。
シエラの師、ダニエル・ベルヌーイのように、時空を超えて、このアルテラの惑星へと流れ着いた「もう一人の地球の転移者」──その事実が、次第に、はっきりとしてきていた。
「その職人に、ぜひとも会ってみたいのです」
イヒョンの瞳が、鋭く燃え上がった。
『知識に値をつける者、うだるような夏にも、パウダーのカツラを意地でも被り続ける者、そして、風一つなくとも、川の流れを遡って進む、オーバーテクノロジーの持ち主……』
「ところが、今日、大浴場でルカエル様からお聞きしたところでは、コランを出発したという知らせを最後に、彼とは完全に連絡が途絶えたそうですね」
護衛隊長のベルティモが、分厚い顎鬚を荒々しく撫で下ろしながら、思索に沈んだ。傷跡だらけの顔の上に、灯火が斜めに掛かり、深い陰影が落ちた。
「それならば……」
ベルティモが、イヒョンをまっすぐに見つめた。
「俺が、人を少しばかり付けてやろう。川に沿って遡りながら、捜索隊を放って、あの者を探してみては、どうだ」
だが、イヒョンは、揺らぐことなく、やんわりと手を振った。
「そこまでしていただく必要は、ありません」
イヒョンの口調には、外科医ならではの、断固として、それでいて精緻な、分別が滲んでいた。
「いくら貿易連合の兵団長でいらっしゃるとはいえ、兵たちを、そのような私的な目的に、みだりに動員なさるわけにはいきませんよ。人目について、いらぬ言いがかりでもつけられれば、隊長の立場が危うくなります」
すると、ベルティモが、傷跡を歪ませて、豪快な笑いを漏らした。
「おまえ、俺が何者か、もう忘れたのか?」
ベルティモが、片目を、ちらりとつぶってみせた。黒い革のコートの裾に打ち込まれた鉄の装飾が、鈍く光った。
「密輸団を率いていた、あの時代の地下情報網、今もそっくりそのまま、維持しているのだ。いや、あの頃より、もっと大きくなった、と見るべきだろうな」
その一言に、イヒョンの目が、大きく見開かれた。
「……まさか、貿易連合の兵団長になられた今も、密輸を?」
「そんなわけが、あるか!」
ベルティモが、手を振って、豪快な笑いを漏らした。
「俺はな、公職に就いてから、そういうことからは、とうに足を洗って久しいのだ。ただ……」
ベルティモは、壁に掛かっていた帽子を手に取り、わざとらしく天井を見上げながら言った。
「今は、エダンが、その仕事を引き継いでやっていてな……俺は、貿易連合社の兵団長として、ただ知らんふりをして、目をつぶってやっているだけさ」
「エダンが?」
イヒョンが、思わず声を高めて、問い返した。
「はっは、何も驚くことはない」
ベルティモが、肩をすくめてみせた。
「公式の情報は、あまりに遅い。完璧を期すために遅れるのは、致し方ないとしてもだ、時には、迅速な情報のほうが、より重要なことがあるのだ。あの密輸団の情報のほうが、遥かに速く、信頼できる場合が多くてな」
ベルティモは、大きな上体を前へ少し屈めながら、囁くように付け加えた。
「そのうえ、民心の動向や、不満分子を探し出すには、密輸団の情報のほうが、遥かに役に立つのさ。ふふふ」
「なるほど。それなら、ルベンハルトとフォルカレンは、どうなのですか?」
「ルベンハルト公爵と、その下のフォルカレン伯爵、そしてペンダーマーク子爵は、裏切る可能性は、あまりないと見ている」
イヒョンは、何も言わずに、ベルティモの顔を見つめた。
ベルティモは、帽子を目深に被った。
「俺も、この場は名残惜しいが、そろそろ仕事に戻る時間でな……エダンには、おまえを一度訪ねるよう、言っておこう。それと、北西部へ行くときは、ペンダーマーク子爵を、真っ先に訪ねるがいい」
「え? 任務は機密ですので、子爵にすぐお会いするのは、少々……」
「俺の考えは、少々違うな。おまえの話を総合してみると、ペンダーマーク子爵は、おまえの味方になってくれる可能性が高い。詳しい話は、後ほど、また連合社でしよう」
「あ、申し訳ありません……はい、私が、あまりに長く引き止めてしまいましたね」
「なんの。プルベラを発つ前に、ぜひもう一度、酒の席を設けたいものだな」
ベルティモは、目をつぶってみせて挨拶を交わすと、扉を慎重に閉めて出ていった。
隣の席で、涎を垂らして眠り込んでいたライルが、扉の閉まる音で目を開けた。
「あれ……もう、行っちゃったのか?」
ライルは、伸びをぐっとすると、自分の部屋に行って、もう少し寝てくる、という言葉を残して、部屋を出ていった。
イヒョンは、服を脱いで椅子の背もたれに掛けておくと、荷物を軽く整えて、寝る支度を済ませたのち、ベッドに長々と身を横たえた。
かさかさと皺になるリネンのシーツの感触が、心地よく感じられた。
窓の外では、早起きの鳥たちがさえずって、夜明けを告げており、窓の向こうから、埠頭のほうで、船を舫ったり、荷を引き上げたりする滑車の音が、きりきり、ぎいぎいと、遠く聞こえてきた。貿易都市プルベラが、またも新たな一日を開く音だった。
天井をじっと見上げながら、イヒョンは、夜通しベルティモに聞いた話を、頭の中で一つずつ整理していった。
『バルネリオン、デュッセルヴァイン、ベルーズ……エペリア統一戦争の当時、王家に自らの土地と権力を奪われたという怨みを共有する、三つの家門。フォルカレンはルベンハルト公爵領傘下だから、そういう怨みはなさそうだし、ペンダーマーク子爵領は国王直属の封臣領だが、貿易連合に加盟していないため、税関の帳簿も、情報網も、届かない。だが、むしろ助けを得られる相手だとは……』
そして最後に、部屋を出る前、ベルティモがちらりと零していった、あの一言。
『……ペンダーマーク子爵は、おそらく、おまえの味方になってくれるだろう』
イヒョンは、目を閉じて、あの低い声を、耳元で、何度も何度も、噛みしめ直した。
『……なぜ、あそこまで断言したのだ?』
大陸北西部の中でも、最も情報の希薄な領地だった。交通も良くなく、貿易連合に加盟してもいない場所。それなのに、ベルティモは、いったい何を根拠に、あれほど確信に満ちて語ったのだろうか?
『ただ、国王直属の封臣領だから? いや、違う。ベルティモが、そんな単純な理由で、そう判断するはずがないのだが……』
何か秘密がありそうだ、という気がした。
上級旅行者の試験の課題に臨む自分のために、ベルティモが、あえてそれ以上、深くは説明せずに済ませた、ペンダーマーク子爵個人の、隠された来歴。エペリア王家と深く絡み合った、密やかな、何らかの事情でも、あるのだろうか?
『機会があれば、北西部へ出発する前に、ペンダーマーク子爵の過去も、深く探ってみなければならんな』
考えがそこまで及んだとき、疲れが、瞼を押し下げてきた。
イヒョンは、深い息を吐き出しながら、そのまま、はるかな眠りへと落ちていった。
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どれほど眠っただろうか?
イヒョンは、こめかみを鉄串でえぐり抉られるような、ひどい頭痛に、ゆっくりと目を開けた。
口の中は、からからに乾いていた。腹の底からは、夜通しベルティモと酌み交わした酒の、えぐみのある、とろりとした匂いが込み上げてきた。窓の向こうから差し込む陽射しは、すでに頭のてっぺんまで、高く昇っていた。
『酒が過ぎたな』
体を起こすと、頭痛で重くなった頭が、一拍遅れて、鈍く追いついてきた。イヒョンはベッドから下り、たらいに冷たい水をなみなみと汲んで、顔に何度も浴びせかけた。
冷たい水が肌を叩くと、ようやく、頭の中に立ち込めていた霧が、少しずつ晴れていくようだった。
濡れた顔を拭ったイヒョンは、鞄の隅を探って、小さな革の薬袋を一つ、取り出した。
柳の樹皮を煎じて固めて作った、鎮痛の丸薬だった。イヒョンは、丸い丸薬を二粒、口に放り込み、冷たい水とともに、喉の奥へと流し込んだ。特有のほろ苦い味が、舌に残った。
革の外套を羽織りかけて、イヒョンは、手にした薬袋を、ふと見下ろした。
ほろ苦い柳の樹皮の香りが鼻先をかすめると、頭の中に、忘れがたい顔が幾つか、おぼろげに浮かび上がった。
『レンさん……フローラ。テオ。そして、イアン』
トラクシル川の東の森の中、霧の立ち込めた丘の下に、素朴にたたずんでいた、狩人の小屋。
川の流れに呑まれて、死の淵まで行きかけたリセラを救ってくれ、貴重な薬材の手帖を、惜しみなく貸してくれた、温かな狩人の夫婦。
狼の群れを前にしても、ただ大胆であった少年テオ、そして、胸に光を失った紋様を抱えたまま、口数の少なかった、あの子、イアン。
『この近くまで来たのだ、顔も見ずに、そのまま行くわけにはいかんな』
イヒョンは薬袋を鞄に収め、口をしっかりと結んだのち、椅子の背もたれに掛けておいた革の外套を、羽織り直した。
ゆっくりと部屋の扉を出たイヒョンは、隣の部屋である、ライルの部屋の扉の前へと、歩を進めた。
こん、こん。
扉板を叩いたが、扉の向こうからは、何の物音も聞こえてこなかった。
「ライル」
低く名を呼んでみたが、依然として、何の返事も返ってこなかった。イヒョンは、しばし沈黙したのち、扉の取っ手を掴んで、そっと内側へと押した。きしむ蝶番の音とともに、扉が開いた。
目の前に広がった光景は、イヒョンの予想から、寸分も外れていなかった。
ライルは、昨日着ていた革のベストと、埃のついたズボン姿のまま、布団も掛けずに、ベッドのど真ん中に、大の字に、だらしなく伸びていた。
片方の足はベッドの外の宙へと、はみ出しており、両腕は頭の上へと、奇妙なほど、無造作に投げ出されていた。わずかに開いた唇の間からは、規則正しい鼾が、ぐうぐう、すうと、実に気持ちよさげに、流れ出していた。
イヒョンは、その呆れ返るような格好と、締まりのない寝相を眺めていたが、思わず、口の端を上げた。
「……まったく」
手を伸ばして、その逞しい肩を揺すって起こそうかと思ったが、イヒョンは、そっと手を引っ込めた。
『長い旅に、熱い湯浴み、そのうえ夜通しベルティモと、したたかに飲んだのだからな』
こいつも、人の子だった。
今日一日くらいは、この、腹も満ちて心地よい部屋で、何の心配もなく、思う存分眠らせておいても、よいはずだった。
イヒョンは、部屋の片隅の卓へと歩み寄り、上に置かれた紙を一枚、そっと引き寄せた。羽根ペンに黒いインクを軽く含ませ、短く、端整な筆致で、文章を綴っていった。
〔少し出かけてくる。夕方までには戻るから、心配せずに休んでいろ。酒は飲むなよ。〕
インクが乾くのを待ったイヒョンは、書き置きをきちんと折って、ライルの枕元、枕の脇に、そっと置いておいた。それから足音を殺して後ろへ退がると、扉の取っ手を握りしめ、静かに扉を閉めた。
1階へ下りると、宿の広間には、気だるい空気が、ゆったりと漂っていた。
窓の隙間から差し込む温かな陽射しの中で、埃の粒子が、物憂げに揺らめいていた。広間の片隅では、数人の商人が、声を低めて、他愛のない話を交わしており、古びた卓を擦り、打ち合わせるグラスの音が、静けさを、ぽつぽつと破った。
イヒョンは、広間の隅の、人目につきにくい静かな席に座り、宿の主人に、簡単な腹ごしらえを頼んだ。
しばらくして卓の上に整えられたのは、脂気のない硬いライ麦パンが数切れと、湯気がもうもうと立ちのぼる、熱い野生キノコのスープ、そして、ぬるい水が一杯、それがすべてだった。
イヒョンは、スプーンを取り、熱いスープを一匙、掬って飲み下した。
温かく香ばしい汁が、喉を伝って、静かに下りていくと、二日酔いと夜更かしで、痙攣するように捻れていた胃の腑が、じわじわと温もりを取り戻し、落ち着いていった。
食事をきれいに終えたイヒョンは、席を立って、宿の外へと出た。
外の空気は、冷たさを孕んで、いっそう爽やかだった。
イヒョンが扉を出るのに気づいた馬丁が、毛並みをきれいに梳かした「ブーケ」の手綱を引いて、ゆっくりと引き出してきた。
「フッ、ぶるるっ!」
主人であるイヒョンを一目で見分けたブーケが、頭をぐいと持ち上げると、太い鼻息をふうと吹き出しながら、嬉しそうに、イヒョンの胸元へと、大きな頭を軽く押しつけてきた。
イヒョンは、口元に穏やかな微笑みを浮かべながら、優しい手つきで、ブーケの逞しい首筋とたてがみを、ゆっくりと撫で下ろした。主人の手つきが心地よかったのか、ブーケは耳をぴくぴくと動かしながら、蹄で床を、こつ、こつ、と軽快に踏み鳴らした。
「よく休めたか?」
イヒョンが、ブーケの瞳を、じっと見つめながら、低く呟いた。
イヒョンはブーケに跨り、トラクシル川沿いの道へ向けて、ゆっくりと歩を進めた。
プルベラの城門を出ると、視界が一気に、ぱっと開けた。
頭の上から、真昼の熱い陽射しが、銀の粉のように、眩しく降り注いだ。
都市のざわめきと鉄の音が、背後へと、はるかに遠ざかっていった。代わりに、川から吹いてきた瑞々しい風が、野原の草の葉をかすめる、爽快な音が、耳元を、やわらかく満たした。
街道の道端には、夏の名残りの野の花が、咲き乱れて群れをなしていた。清らかな白、華やかな黄、そして、ほのかな薄紫。
ブーケの蹄が通り過ぎるたびに、花茎が静かに揺れ、その振動に乗って、ぴりっとして、それでいて甘い、野の草の匂いが、鼻先へと、ふわりと立ちのぼった。花びらに留まっていた小さな蝶が数匹、驚いたように宙へと、ぴょんと跳ね上がったかと思うと、ほどなく風に乗って、隣の花びらの上へと、ふわりと舞い降りた。
はるか遠く、プルベラを抱きかかえて流れるトラクシル川が、真昼の陽光を正面から受けて、まるで皺くちゃになった銀箔のように、砕けながらきらめいていた。
水路に沿って、絶え間なく立ち並んだ柳の木々が、長い枝を川面の上へと、緩やかに垂らし、風が過ぎるたびに、葉が銀色の裏側を、さっと翻しながら、青い水の流れとともに、揺らめいた。
道は、ほどなく、トラクシル川の東の、緑濃い森へと、なめらかに入り込んでいった。
びっしりと生い茂ったオークと広葉樹の木陰が、頭の上を、はるか高く覆うと、肌に触れる空気が、たちどころにひんやりとした。宿へ置いてきた二日酔いと頭痛を、洗い流すかのように、肥沃な土と、湿った苔、そして、長らく腐り込んだ落ち葉の入り混じった、森ならではの匂いが、肺腑の奥深くまで満ちてきた。
木の葉のあいだの、細かな隙間から漏れ入った陽光の欠片が、地面の苔の上に、まだらな模様を撒き散らした。その光の欠片は、ブーケの落ち着いた足取りに合わせて、馬のたてがみの上へと、ゆっくりと流れ落ちた。
どこか、木の幹の裏側の、深い静寂の中から、キツツキが古木を叩く音が、はっきりと聞こえてきた。
こつこつこつ、こつこつこつ。
その機械的な響きが、かえって、森が抱える静けさを、いっそう心地よく、際立たせた。
イヒョンは、手綱を握る指先の力を、緩やかにほどき、実に久方ぶりに、その平和な風景を、目に収めた。
『……このように、まったき平和の時間が、いったい、どれほどぶりだろうか』
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