315. 恨み
「無論、コルネリアもまた、弟のその想いを、知らぬわけではなかった。だが、決して受け入れはしなかった。いや、決して受け入れることなど、できなかったのだ。彼女はルートヴィヒを、幼い頃から、たった一人の弟として、温かく慈しんではいたが、男女の間柄として見たことは、ただの一度も、ただの一瞬も、なかったというのだからな」
ベルティモは、グラスを持ち上げ、酒をひと口、なめらかに飲み下した。
「そんなある日、社交の場で、コルネリアがリチャード・エペリアと出会った」
ベルティモの目元に、遠い昔の出来事を、たどり遡っていくかのような、奇妙な光がよぎった。
「当時のリチャードは、小領主の後継者にすぎなかったとはいえ、大陸全土で、騎士として、そして不敗の戦士として、名声が天を衝いていた男だった。コルネリアは、その男の堂々たる気概と、穏やかな人柄に、一目で心を奪われ、リチャードもまた、彼女に一目で魅了されたのさ」
イヒョンは、胸元の衣の裾の向こうで、じわじわと温もりを増していく紋様が、揺らめくのを感じた。
「結局、二人は結婚することを、決めたのだ」
ベルティモは、低く言葉を継いだ。
「当然、バルネリオン家門は、猛烈に反発した。とりわけ、姉への執着で理性を失いつつあったルートヴィヒは、『世にも取るに足らぬ辺境の男などに、姉を奪われるとは、バルネリオン家門の名誉が地に堕ちる』と、最後まで意地を曲げなかったというな。ルートヴィヒの狂気はさておくとしても、誰が見ても釣り合いの取れぬ婚姻だったのだ。だが、たった一人の娘を、それはもう溺愛していた、当時の先代バルネリオン公爵が、コルネリアの涙ながらの懇願に、ついに婚姻を許したのさ」
ベルティモは、グラスを空にすると、卓の上へ置いた。
低く沈んだ声が、宿の密室の、密度の高い静寂を裂きながら、いっそう重々しく沈み込んだ。
「それから数年の後、ついに、大陸全体を血に染めた統一戦争が起こった」
イヒョンは、身じろぎ一つせず、耳を傾けた。
「当時のバルネリオン家門は、小領主にすぎなかったエペリアが、他の地方の勢力を糾合して、大陸規模の戦争を起こしたことに、大きな不満を抱いていた。『取るに足らぬ家門ごときが、大陸の覇権を論じるとは』と、鼻で笑ったのだ」
ベルティモが、苦々しく口の端を上げ、乾いた笑いを飲み込んだ。傷跡だらけの顎の線の上に、灯火が斜めの陰影を落とした。
「だが、戦の勝機は、じわじわとエペリアの側へと傾き、リチャード王の威勢が、大陸全体を圧倒するようになると、バルネリオンは、しぶしぶ、戦争の極めて終盤になってから、参戦する素振りを見せたのだ」
ベルティモは、空になったグラスに、再び酒を注ぐと、言葉を継いだ。
「戦争が終わり、ついにエペリア家門が大陸を統一して、王座に上ると、バルネリオンは、名目上、王妃の家族であるという理由で、最高位である公爵の爵位を授かった。征服の過程で吸収された周辺の小領地までも、自らの領地として、大挙して下賜されてな」
「その下賜された小領地に属していた、中核の家門が……」
ベルティモが、目元を鋭く研ぎ澄まし、イヒョンをまっすぐに見据えた。
「まさに今、おまえが尋ねた、デュッセルヴァイン侯爵領と、ベルーズ伯爵領だったのだ」
イヒョンの目元が、精緻な刃のように細くなった。数十年前の政略と戦争が、今、北西部を包み込んで巡る、不穏な気配と、精巧に噛み合う瞬間だった。
「整理すると、こういうことだ」
ベルティモが、指を一本ずつ、開いていった。
「バルネリオン公爵家は、そもそも統一戦争の構図そのものが、気に入らなかったうえに、自分の愛する姉が、自分たちより遥かに低い家門の男に嫁いだことへの鬱憤を、数十年ものあいだ、いまだに晴らせずにいたのだ。無論、その根源には、姉への異常な執着のほうが、より大きく働いていたのだろうがな。いくら低い家門と婚姻で結ばれたとはいえ、すでに大陸を統一した王になったというのに、結婚前の身分に執着するなど、誰が見ても、筋が通らんのだからな」
彼が、次の指を、重々しく開いた。
「そして、その傘下のデュッセルヴァインとベルーズは、統一戦の当時、エペリア王家に敗れたのち、領地を強制的に奪われ、その後、バルネリオン公爵領の封臣として編入された家門なのだ」
「それなら、その家門は、取り潰されていて然るべきではありませんか?」
「そうだ。普通なら、そうなる」
ベルティモは、長く息を吐き出した。
「だが、エペリア大陸の全域で戦争が起こっていて、戦線が非常に広かった。あらゆる場所に、反逆を夢見る勢力を残しておくのは、当時としては危険なことだったろう。だから先王は、力を見せつけて服従させることで、その勢力を、どうにか糾合しようとなさったのだと思う。バルネリオンという、婚姻で結ばれた家門に、北西部の領地管理を任せた、と見るのが、より正確だろうな」
「なるほど。ですが、どうやってバルネリオン公爵は、彼らに爵位を、再び下賜させることになったのですか?」
「それも、随分と物議を醸したのだ。いくら先王が、統合を目的としておられたとはいえ、戦争で完全に反対側に立って戦った連中に、爵位をお下しになるのは、話にもならんことだったからな。ところが、バルネリオン公爵は、その頃から、別の考えを抱いていた可能性が高い。それで、デュッセルヴァイン、ベルーズの家門と、婚姻を通じて、関係を結んだのだ」
「ふむ……バルネリオン公爵、侮ってよい人物ではありませんね」
「そうとも。そうして婚姻で絡み合った関係となったのち、時が流れ、統一の偉業は達成され、すでにエペリア王家を脅かすほどの勢力は、残っていなかった。その時、バルネリオン公爵は、国王の許しを得て、二つの家門の爵位を再び回復させてやり、以前の土地の大半を、再び領地として下賜したのだ。表向きは侯爵、伯爵だが、実質は、公爵の部下に近い関係になった、と俺は見ている」
部屋の中に、ろうそくの揺らめきさえ止まったかのような、重々しい静寂が降りた。ベルティモが、低く言葉を結んだ。
「この家門は、いずれも、王家に奪われたという、しこりを、胸の奥深くに抱いている可能性が高い、ということだ」
「その出来事は、すべて先代の話でしょう。それでもなお、そんな怨みを抱いているものでしょうか?」
「なあ、友よ、ルカエルとエスベロの一件を、忘れたのか? 怨みというものはな、時が経つほどに、深まっていくものなのだ」
イヒョンは、グラスの中で揺らめく酒を、じっと見下ろした。
『……奪われた者たち、か。そして、深い怨み。戦争のさなかに、どれほど多くの家族と部下が、命を落としたのだろう。それを思えば、怨みを抱くのも、おかしなことではないのかもしれん……』
上級旅行者の試験の課題であり、北西部の辺境の防衛線を固め、隠れた裏切り者を探し出せという、ギルド本部の指令。そして、目の前に置かれた、王家に向けた大貴族たちの、長きにわたる怨みと、捻じ曲がった劣等感。
部屋を満たす、息の詰まるような沈黙に耐えかねたライルが、恐る恐る口を開いた。
「……アニキ」
ライルが、すっかり気圧された声で、イヒョンの耳元に、低く囁いた。
「つまり……俺たちが今から行かなきゃならない場所は、王家を相手に、歯ぎしりしてる、いかれた奴らの巣窟だってこと? そんな所へ、俺たち二人だけで、行かなきゃならないって?」
「そうだ」
「うわぁ……これは本当に、あんまりだよ。どう見たって、試験の応募者の力量を、遥かに超えてる気がするんだけど」
「俺たちがやるべきことは、それを阻止することじゃないからな。情報を探り出して、本部に伝えさえすれば、それでいい」
「それでもさ……背筋が冷たくなるっていうか、なんだか、予感がよくないんだよな」
イヒョンは、答えなかった。
仄かな灯火の下、酒の表面の上を、つい先ほどベルティモの口を通して流れ出た、大陸北西部バルネリオン家門の、数十年もの年月を経た、怨みの歴史が、よぎった。
『……ようやく、巨大な情勢の絵が、噛み合ってきたな』
この広いエペリア大陸の全域で、なぜ、よりによって、王都から遠く離れた北西部だったのか? なぜ、バルネリオン公爵領傘下のデュッセルヴァイン侯爵とベルーズ伯爵、ルベンハルト傘下のフォルカレン伯爵、そして、国王直属のペンダーマーク子爵領という、特定の四つの領地だったのか?
まだ、フォルカレン伯爵とペンダーマーク子爵に関する話は聞けていないが、最も重要なバルネリオン公爵についての情報だけでも、北西部が任務地域として決定された理由が、わかる気がした。
王家は、すでに、ある程度は把握していたのだ。
統一戦争の当時、表向きは王の前で膝をつき、その善政を讃えながらも、その袖の内に、王家の首を狙う、鋭い短剣を隠し持った家門が、どこに潜んでいるのかを。
インテルヌムの黒い仮面どもと、ペルトゥスという奇怪な戦争の影が、北の凍土から、大陸全体へと噴き出してくる、この危うい時点において、王権が真っ先に捜索し、防衛線を固めねばならない、情勢の火薬庫として北西部を指し示したのは、この上なく冷徹で、それでいて当然の道筋であろう。
『ベルティモが、これほどまでに事情を詳細に見通しているほどならば』
エペリア王家の中核の人物たち、そして、大陸の頂点を占める高位貴族の家門は、すでに数十年も前から、すべて知り尽くしている事実だと見るべきだった。ただ、互いの軍事力と権力の地形ゆえに、あえて口の外に出して触れずにいるだけの、遊撃戦の頂点に立つ、公然たる火薬庫。
そして、人間の極限の感情を抽出し、結晶体へと精製しようとするインテルヌムのベルダクは、大貴族たちの、まさにその腐り果てた怨みと、捻じ曲がった劣等感を、最も肥沃な養分として、根を下ろしているのかもしれない、という話でもあった。
ベルティモの、低く重々しい口調が、再び宿の密室の静寂を破った。
「それほどまでに、数十年も、エペリア王家に対する血の色の怨みを、胸の奥深くに抱いている者たちならば……」
ベルティモが、指に力を込めて、空になったグラスを、卓の上へと重々しく置いた。どん、という鈍い音が、部屋の中の、密度の高い空気を、一息に押し潰した。
「大陸全体に、戦争の暗雲が垂れ込めてくる、このように重大で、危うい時期に、王家に背を向けて、仮面どもの手を取る可能性も、決してないとは言い切れんな」
ベルティモの瞳に、灯火が映った。
「デュッセルヴァイン、ベルーズ、そのどこであろうと、インテルヌムと内通する裏切り者の本拠になっていたとしても、まったくおかしくはない、ということだ」
「なるほど」
「次に重要なのは、その領地が、いったい何で食っているのか、資金の源が何なのか、主に生産し流通させているものが何なのかを、把握する仕事だ」
ベルティモは、腰を後ろへぐっと伸ばして伸びをすると、再び言葉を継いだ。
「バルネリオンとルベンハルトの公爵領に含まれる、北西部のアクィロニア湾は、魚種も水産物も、実に豊富だ。そして、その北部高原から内陸へと、なめらかに流れ落ちた丘陵地帯には、地平線の果てまで、広々とした草原が発達している。だから、四季を通じて、牧畜業が大いに盛んなのだ」
「……水産物と、家畜、か」
イヒョンの目元が、細くなった。
「まさに、それだ」
ベルティモが、太い頬髭を撫で下ろしながら頷いた。
「その物流と物資の、巨大な流れを押さえてみれば、しかるべき準備をしているのか、それとも、表向きは王家に服従するふりをしながら、内心で戦争の準備を、どう隠しているのかが、たちどころに露わになるのだ」
『……塩漬けの魚、そして干し肉。それから、軍馬の移動』
大軍を移動させ、長期戦を目論むには、数万の兵を養う塩漬けの保存食が、陣中の戦闘糧食として、必須だ。
『バルネリオンのデュッセルヴァイン侯爵領とベルーズ伯爵領、フォルカレン伯爵領で、平時よりも塩が過度に消費されたり、屠畜量が異常に跳ね上がったり、倉庫に積まれているべき穀物が、どこかへと密かに消えていくなら……』
人の口は、巨大な野望と裏切りの匂いを、もっともらしい嘘と忠誠の誓いで、包み隠すことができる。だが、帳簿に記録される数字と、物流倉庫に積まれている物資は、決して嘘をつくことができない。
酒宴がたけなわになっていくあいだ、いつの間にか闇に沈んでいたプルベラの湖の彼方に、ほのかな赤みが差した。
すでに、日が東から昇りはじめていた。
「おっと。長居しすぎたな。そろそろ、行かねばなるまい」
窓の外に昇る日を見たベルティモが、ぎょっと驚いて、慌てて席を立った。
いつの間にか、ライルは、椅子にぐったりと伸びて、眠り込んでいた。
「私のせいで、こんな遅い時間まで……申し訳ありません。休むこともできず」
「くはっはっはっは。なんの。こういうのこそ、真の休息というものさ。それはそうと、これからの日程は、どうなっているのだ?」
「今日、大浴場でルカエル委員長にお会いしたとき、カルボリア出身の変わり者の職人の話を聞きました。ディオニシウスというそうです」
「ああ、あの変な爺さんか」
ベルティモが頬髭を荒々しく撫で下ろしながら、無造作に頷いた。
「彼が、このプルベラへ来る途中で、突然、連絡が途絶えたと聞きました。もしや、その件に関して、何かお聞きになったことはありますか?」
ベルティモが、ゆっくりと首を振った。
「それはな、貿易連合社が公式に呼んだのではないのだ。ルカエルが大浴場の設計を完成させて、個人的な親交で呼んだものだから、あの職人の動線までは、俺も確かには知らんのだ」
ベルティモは、ふと、何か面白い記憶が甦ったとでもいうように、ふっと気の抜けた笑いを漏らした。
「ただ、プルベラの大浴場を建てる折に、俺もあの者と、何度か直に顔を合わせたことがあるのだが……いやはや、思い返しても、不思議を通り越して、奇妙な人間だったよ」
「不思議とは、どのような点がですか?」
イヒョンの眼差しが、深くなった。
「まず」
ベルティモが、革の手袋をはめた手を上げ、自分の頭のてっぺんを、とんとんと叩いた。
「あの、うだるような真夏の日にも、いつも白くて、気味が悪いほどくるくると縮れた、おかしなカツラを、すっぽりと被って歩いていてな。汗をだらだらと流して、顔じゅうしかめっ面だというのに、死んでも脱がんのだ」
イヒョンの眉が、わずかに吊り上がった。
『……カツラ? うだるような夏の日に、汗を流しながらも、意地でも被り続けるパウダーのカツラ、だと』
地球の17~18世紀、ヨーロッパの貴族たちや裁判官、そして学者や知識人が、階級と知性を象徴するために着用していた、あの白いカツラが、イヒョンの頭の中をよぎった。
ベルティモの、短い舌打ちの音が続いた。
「そのうえ、金に、どれほど病的なまでに目がないことか」
ベルティモが、首をしきりに振った。
「設計や機械の製作は、まだいいとしてもだ、何か一つ尋ねると、それにさえ、しつこく値をつけて、きっちり請求してくる者だったのだ。『その質問の答えは、3デントだ』という具合にな。まったく、とんでもない爺さんだったよ」
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