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314. 禁忌

イヒョンはグラスを卓に置いた。


グラスが卓に触れて鈍い音を立て、グラスから立ちのぼる香りが静かに広がるなか、イヒョンは淡々と口を開いた。


「私がカレオストラへと遠い旅路に出たのは、上級旅行者の試験に応じるためでした」


イヒョンの瞳がベルティモへと向いた。


「そして今は、その試験の延長線上で、北西部の課題を果たしに行く途中なのです」


何気なく、それでいて衝撃的な秘密がイヒョンの口から零れ出た瞬間、隣の席で酒をちびりと舐めていたライルは、ぎょっと驚いた。


「ゴホッ! ゲホッ、ゲホッ!」


酒を気管に詰まらせたライルが、発作のように咳き込んだ。提灯のように大きく見開かれた目が、イヒョンの顔へと注がれた。


「あ、アニキ!」


ライルは酒のグラスを慌てて卓の上に置くと、大急ぎでイヒョンのシャツの袖を、ぐいと引っ張った。


「そ、そんなことを今、この場で、うかつに打ち明けて、どうするつもりだよ! 酒を飲みすぎたんじゃないのか? 正気かって!」


「大丈夫だ」


イヒョンは、袖を掴んだライルの手を外しながら、低く宥めた。


「ベルティモ隊長に正直に打ち明けてこそ、北西部の領地の情勢を、正確に知ることができる。1年前、すでに俺の命を救い、ともに血を流した相手だ。心配するな」


「いや、俺が言ってるのは、ベ……ベルティ……いや、この御方が信じられないってことじゃなくて!」


ライルは腰をかがめ、イヒョンの耳元に唇をぐっと寄せると、声を絞り出すように低めた。


「今この宿の近くのどこかで、ギルド本部から派遣された、あの手厳しい監督官どもが、目を光らせて俺たちを見張ってるはずだろ! もし試験の内容を漏らしたって理由で、資格でも剥奪されたら、アニキが目指してるものも全部おじゃんになるってのに、それは全然心配じゃないのか? アニキの目的も目的だけど、富と名誉に向かう俺の人生の目標まで、全部おじゃんになるんだぞ……」


ライルの切迫した反応に、イヒョンは、ふっ、と軽い失笑を漏らした。


「そう言うだろうと思って……」


イヒョンは指で、落ち着いた仕草で部屋を指し示した。


「この宿の部屋を、全部借り切っておいた。この宿に泊まっている客は、俺たちだけってことだ」


「……は? なんだって?」


ライルの口が、あんぐりと開いた。


「もちろん大浴場も悪くない場所ではあるが、あそこは耳が多すぎる。女中も従者もな……」


イヒョンはグラスを撫でながら、淡々と言った。


ライルは口を開けたまま、まるで化け物でも見るような眼差しで、イヒョンをぽかんと見つめた。


昼間、大浴場で地球人だという告白を聞いたときにも感じたが、この、どこか正気を疑いたくなる人は、一体どこまで計算し尽くして動いているのか、まるで見当さえつかなかった。


呆れたように乾いた笑いを漏らしていたライルは、それでいて内心では安堵したのか、未練たっぷりだった酒のグラスを、再び自分の前へと、すっと引き寄せた。


「やれやれ。まあ、そういうことなら……まったく、人を驚かせることにかけては、本当に年季が入ってるよな、年季が。世の中に、宿の部屋を全部借りるなんて考えを思いつくとは……いったい誰が、そんなことを考えるんだよ」


「大事な話をしなきゃならなかったからな。どれだけ監督官が忍び込みたくても、すでに主のいる部屋には、入れないはずだから」


卓の向こうで、二人の男の愉快な小競り合いを、興味津々に見守っていたベルティモが、からからと笑い声を上げた。頬髭の間の、深く抉れた傷跡が、機嫌よさげに歪んだ。


ベルティモがグラスを持ち上げながら、イヒョンへと眼差しを輝かせた。


「よし、イヒョン。上級旅行者の試験だろうが、何だろうが……おまえがそこまで徹底して計画を練ってきたのなら、重要な問題であるに違いあるまい。ならばこの老いぼれも、期待に応えられるよう努めねばならんな。はっはっはっは」


ベルティモは、傷跡の走る顔で、眉根を寄せながら笑った。


「それにしても、上級旅行者の試験、か。おまえがなぜ、このプルベラまで訪ねてきたのか、だいたい察しがついてきたぞ」


ベルティモが太い声で低く語るあいだ、イヒョンは、じっとグラスを撫でながら、彼を正面から見据えた。


決して短くはない期間、大陸西部で密輸を営み、情報の重みを切実に知り尽くしているベルティモの眼差しが、鋭く変わった。つい先ほどまで、久方ぶりにイヒョンと会って緩んでいた彼の表情は、とうに消え去っていた。


「そうだな。北西部、か……それだけでは、あまりに漠然としすぎだな? どんなことが知りたいのだ?」


イヒョンは、しばし間を置いた。


「北西部にある領地のうち、四つの土地についての情報が必要です。とりわけ、領主の気質、権力の関係、そして現在の物流の運送状況などです」


イヒョンは、指を一本ずつ、落ち着いて折り曲げていった。


「バルネリオン公爵領傘下の、デュッセルヴァイン侯爵と、ベルーズ伯爵。ルベンハルト公爵領傘下の、フォルカレン伯爵領。そして、国王直属の封臣領である、ペンダーマーク子爵領」


ベルティモが、ゆっくりと頬髭を撫で下ろしながら、低く呟いた。


「……その四つ、か。おまえ、思っているよりも遥かに込み入った地域だということから、まず頭に入れておいたほうがいいぞ」


ベルティモは、黒い革のコートの袖をまくり上げ、頬杖をついたまま、しばし深い思索に沈んだ。


頬髭とつながった顎鬚の間に抉れた深い傷跡が、灯火を受けて、奇妙な陰影を落とした。そして、その瞳の奥で、大陸北西部の複雑多岐にわたる地形と、貴族たちの利権の関係とが、精密な歯車のように噛み合って回っていった。


「バルネリオンとルベンハルト、その二つの公爵領は、大陸北西部の巨大な湾を抱えていてな」


ベルティモが、重々しく低い声で、ゆっくりと口を開いた。彼の指が、オークの卓の上に落ちた一滴の酒を、ぐっと押さえながら、動線を描いた。


「基本的に、エペリア貿易連合に加盟している領地だから、我々の情報網で、合法的にであれ、非公式にであれ、覗き込む余地の多いところだ。おまえが尋ねたデュッセルヴァイン侯爵領、ベルーズ伯爵領、そしてフォルカレン伯爵領、この三つなら、今の領主たちの気質から兵力の配置、さらには最近入ってきた風変わりな物品の流れまで、生きた情報をやれるぞ」


「……ペンダーマークは?」


イヒョンが、ろうそくの光を斜めに受けながら、問い返した。


「そこは、少々違うな」


ベルティモが、きっぱりと首を振った。太い眉が、一つに寄せられた。


「ペンダーマーク子爵領は、内陸にある領地だ。近づくのが難しい。そのうえ、陸路もそう良い環境ではない。大きな森と山に囲まれているうえに、国王直属の封臣領だというのに、話にもならん口実で、いまだに貿易連合に加盟していない。だから、我々の側が手にしている情報は、限られたものにならざるを得んのだ」


イヒョンは、その言葉を静かに頭の中に刻みつけた。


貿易連合の手も目も届かない、独自の領地。ベルティモの情報網でさえ、うまく届かないということは、それだけ日陰で繰り広げられる、暗い一面が多いということでもあった。人間の極限の感情を収穫し、結晶体へと精製しようとするインテルヌム、あるいは「ペルトゥス」の実験場が巣を構えるには、この上なく完璧な地形なのかもしれない、という話でもあった。


「それで。その北西部地域の情報が、いったいなぜ必要なのだ? 理由がわかれば、俺も正確な情報を提供してやれるだろうからな」


ついに決心を固めたイヒョンは、声を、いっそう低く落とした。


「これは、どこででも、うかつに切り出せるような話ではないのですが……」


ソ・イヒョンは、落ち着いた、慎重な声で言葉を継いだ。


「遠からず、この大陸に、大きな血の嵐が吹き荒れるかもしれません」


低く重々しい警告が、宿の部屋の静まりかえった静寂を斬りつけて入り込んだ瞬間、ベルティモの目元が、一気に強張った。


酒のグラスを握っていた分厚い指に、ぐっと力がこもった。


イヒョンは、これまでエペリア大陸を横断しながら、自らが直に対峙してきた闇の実体を、一つずつ解き明かしていった。


インテルヌムという、エペリア全体の感情の秩序を揺るがし、コルディウムの結晶化計画を推し進める、巨大な秘密組織。人間の極限の感情を収穫し、無理やり作り変えて生み出した、奇怪で残酷な戦闘人形、ペルトゥスの正体。そして、その背後に潜んだまま、エペリア大陸全体の平和を呑み込もうとする、巨大な戦争の気配までを。


イヒョンは、上級旅行者の試験の延長線上で担うことになった任務の輪郭も、ベルティモに、ある程度は匂わせた。


バルネリオンとルベンハルトの公爵領、そしてペンダーマーク子爵領に下された国王の任務と、その履行の度合い、そして、インテルヌムという組織と内通する裏切り者を、探し出す仕事。


イヒョンの口から、信じがたい話が続くほどに、ベルティモの表情は、ますます重々しく沈んでいった。


「……そうだったのか」


彼が、ずいぶん経ってから、押し殺した低く太い声で口を開いた。ベルティモは頬髭を荒々しく撫で下ろしながら、グラスに残っていた酒を、一息に飲み干した。


「実はな、俺も、近頃どうにも、何か妙な気配を感じていたのだ。先ほども言ったが、護衛船に大砲を装着するために、バセテロンに立ち寄らねばならんかったのも、それと無関係とは、言い切れんな。それに、貿易連合社に加盟した商団のあいだで回る話、大陸北方から流れ出てくる、ただならぬ噂のことだが」


「どのような噂があるのですか?」


「人々が失踪する、という噂だった。だが、おまえの話を聞いてみると、ただの根も葉もない噂では、確かにないようだな。それが、すべて、あの忌まわしいペルトゥスのせいだった、という可能性が高そうだ」


「可能性は、とうの昔に超えました。もはや、大陸を脅かす現実です」


三人の男が座る卓の上に、しばし沈黙が続いた。


ベルティモが、上体をぐっと起こして、座り直した。


黒い革のコートの裾がオークの卓に擦れ、重々しい摩擦音を立てた。頬髭の間に抉れた深い傷跡の上に、灯火が斜めに掛かると、老練な情報の長ならではの、重厚で、それでいて冷ややかな気が、部屋を押し潰した。


「それほどに重大な話だとすれば……」


ベルティモが、低い声で口を開いた。


「おまえが北西部の、あの四つの領地へ、闇雲に足を踏み入れる前に、その家門が、いったいどんな来歴を持っているのかから、まず先に頭に入れておいたほうがよさそうだな」


イヒョンは、じっと頷きながら、耳を傾けた。


「先代の国王、リチャード・エペリア。そして、王妃コルネリア・エペリア。本来の名は、コルネリア・バルネリオンだった」


ベルティモが、酒のすれすれまで満ちたグラスの縁を指で撫でながら、数十年前の大陸の情勢を、一つずつ解き明かしていった。


「二人の婚姻は、当代の権力者たちが、よく取り交わしていた、そういうありきたりの政略結婚では、なかったのだ。大陸統一戦の頃、互いに心から惹かれ合った、当時の貴族の家門のあいだでは、珍しい恋愛結婚だったのさ」


隣の席でグラスをいじっていたライルも、息を殺したまま、ベルティモの唇を凝視した。地下情報網を支配していた男の口から出る、王家と大貴族の密やかな歴史であっただけに、部屋の空気は、いっそう密度を増して沈み込んだ。


「当時のバルネリオン家門は、北西部一帯の強大な領土と軍事力を握った、有力な家門だった。一方、統一戦争以前のエペリア家門は、支配する領土も小さく、貴族のあいだでの地位も、取るに足らぬほど低かったのだ」


ベルティモの声が、ひときわ低く沈んだ。その瞳の奥に、過ぎ去った日の物語が、揺らめいているようだった。


「問題は、コルネリアの弟、ルートヴィヒ・バルネリオンだった。まさに今、北西部を治めているバルネリオン公爵の、父にあたる者だ」


ベルティモが言葉を止めて、グラスを持ち上げた。


「ルートヴィヒは、自分の姉が、小さな領主の家門にすぎなかったエペリアの男に嫁ぐことを、骨身に染みるほど恥辱に思っていた。そして、後にエペリア家門が大陸を統一し、王座に上ったとき……その恥辱は、抑えの利かぬ貪欲と、巨大な野心へと、捻じ曲がってしまったのだ」


イヒョンは、ベルティモの言葉の裏に隠された秘密を、直感した。バルネリオン公爵領、そしてその傘下の、デュッセルヴァイン侯爵と、ベルーズ伯爵。王家に向けた、家門の根深い劣等感と野望こそが、インテルヌムの黒い仮面どもと、ペルトゥスが入り込むには、この上なく完璧な、腐った隙間なのかもしれない、という考えが浮かんだ。


ベルティモは、グラスをじっと見つめながら、しばし言葉を選んだ。


数十年前、統一戦争以前にあった、王家と大貴族の、密やかな秘話が、彼の唇のあいだから、低く流れ出てきた。


「それだけではないのだ。これは、実のところ、まだ裏付けが必要な話ではあるが……あのルートヴィヒが、姉であるコルネリアを、単なる血縁以上に、深く恋い慕っていた、という話があってな。ただの質の悪い噂と、片付けてしまえる問題ではないと、俺は思っている」

卓の向こうで、グラスをちびりと舐めながら耳を傾けていたライルが、瞬間、自分の耳を疑ったとばかりに、目を提灯のように大きく見開いた。


口の中に留まっていた酒を、危うくそのまま噴き出しそうになり、むせた咳が、ゲホッ、と喉を伝って飛び出した。


「……え? そ、それはちょっと……」


ライルは、眉を容赦なくしかめ、うんざりした顔で、イヒョンとベルティモを、交互に見比べた。


「いや、それは本当に、まずいんじゃないですか? いくら世の中が狂って回ってて、公爵の家門だのなんだのと言ったって、実の姉を……?」


「禁忌だった」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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