312. 兵団長
テーブルの上にほのかに漂う香りが、鼻先をやわらかく撫でていった。
グラスの触れ合う澄んだ音の合間を縫って、ヴィヌム・ルブルム・ノビレの、重厚でありながら爽やかな香りが芳醇に揺らめいた。ルビーのように赤く透き通った液体がクリスタルの曲線に沿って渦を巻くたび、部屋には十分に熟成したオーク樽の濃密な風味が、陽炎のように立ちのぼった。
ふと何かを思い出したのか、ルカエルがぱん、と手を打った。
「ああ、そういえば、ベルティモ隊長にはもう会われましたか?」
イヒョンは静かにグラスを置いた。クリスタルの底がテーブルに触れ、低く小さな音を立てた。
「今日、貿易連合社には立ち寄ってみたのですが」
イヒョンは軽く肩をすくめた。何も急ぐことはない、とでも言いたげに、その眼差しは静かに落ち着いていた。
「門番に、約束がなければお会いできないと丁重に断られましてね。名前と滞在先は伝えておきましたから、じきに返事が来るのではないですか」
「なんですって?」
ルカエルの眉が一気に吊り上がった。
椅子が荒々しく後ろへ押しやられる摩擦音が、密室の静寂を破った。大理石の床を擦る鋭い音が、そのまま鼓膜を突き刺した。その火のような気性は健在らしく、頬があっという間に赤く上気した。
「あの門番どもめ、よくも!」
ルカエルは本気で怒りが込み上げてくるのか、両手をぎゅっと握り合わせたままイヒョンを見つめた。太い指の節々が、白く血の気を失うほど力がこもっていた。
「明日すぐにでも、私とご一緒に参りましょう。この私が直々にご案内いたします。あの者ども、私がこっぴどく懲らしめてやりますとも」
「いえ、そこまでしていただかなくとも」
イヒョンは慌てて手を振った。
「委員長がそのようなことにまで気を遣われる必要は……」
「いいえ!」
ルカエルはきっぱりと言葉を遮った。
「私だけではなく、プルベラ全体がイヒョン様のおかげで生きていると言っても過言ではありません。イヒョン卿がいなければ、この大浴場はもちろんのこと、商団の統合も、プルベラの再建もなかったでしょう。明日の朝、宿まで直接お迎えに上がります」
断固とした態度だった。
「委員長、大丈夫です。そう怒らないでください。おかげで私も大浴場を体験できたのですから、むしろ助かったようなものですよ」
その時、隣の席で恐ろしい速さで皿を空にしていたライルが、ひょいと口を挟んだ。
ライルは口いっぱいにステーキを頬張りながらイヒョンを見た。口元にてらてらと光る濃い肉汁とは裏腹に、その眼差しだけは奇妙な光を放っていた。
「……いやはや、アニキはどこへ行っても人には恵まれるよなあ」
ライルはワインをぐいぐいと呷ると、ちらりと横目で睨んだ。
「でもまあ、その人運が決まって危ない所へ案内してくれるのが、問題っちゃ問題なんだけどな」
ライルの骨のある冗談に、部屋には低い笑いが広がった。
ルカエルの妻カエラが微笑みながら、ライルのグラスにワインを注いでやった。
2皿目のメイン料理に続いて、正餐の締めくくりを飾る最後のデザートが部屋へと運び込まれてきた。
琥珀色に輝くタルトだった。さくさくに焼き上がり、見ているだけで崩れそうな食感が伝わってくる黄金色の生地の上へ、とろりとした蜜が艶やかに流れ落ち、ろうそくの光を受けてきらめいた。
パイの表面を隙間なく埋め尽くす、細かく砕いたクルミとアーモンドが、仄かに揺れるオーク材の灯火の下で、まるで宝石の欠片のように精緻に光を反射した。
焼きたてのパイならではの温かな湯気とともに、甘く、それでいて鼻をつく蜜の匂いと、オーブンでこんがりと炒られたナッツの香ばしい香りが、密室の空気をいっぱいに満たし、鼻先をやわらかくくすぐった。
カエラは今度こそ自分の出番だとばかりに、目元を三日月のように優しく細めて、誇らしげに微笑んだ。
「これは、私が特別に念を入れたものなんですよ」
得意げに胸を張って、言葉を続けた。
「蜜は北の産地から取り寄せた最上品だけを選りすぐって使いましたし、ナッツも市場にありふれたものとは違って、最上級のものだけを仕入れて入れたんです。甘みが口の中でくどくなりすぎないよう、塩をほんのわずかに効かせたのが、私だけの秘訣なんですよ」
デザートについてのカエラの説明が終わるか終わらないうちに、ライルはすでにフォークを握っていた。つい先ほどまでメイン料理をきれいに平らげては、腹が破裂しそうだと大げさに騒いでいたにもかかわらず、目の前の甘く完璧なデザートを前にしては、どうにも理性を保っていられない様子だった。
フォークの先でタルトの一切れを大きく掬い取り、口の中へと押し込んだ瞬間、ライルの目がすうっと閉じられた。
「……くぅ。これは!」
彼は魂まで恍惚となった顔で、低く呻いた。
さくさくのパイの皮が歯の間で砕け、その隙間から、しっとりと熱い蜜が滲み出てくる。噛むたびに脳を叩くようなナッツの香ばしさに、ライルはしきりに頷いた。
「これ、これは本当に、腹が破裂しそうでも、入る場所が完全に別にありますね。カエラ様、これ本当に、本当に最高です」
ライルの舌を一気に虜にしたタルトへの、惜しみない絶賛だった。カエラはその飾り気のない反応に、子どものようにぱちんと手を打って喜んだ。
「いかがです? 本当に、なかなかのものでしょう? ほほほ」
彼女は声を立てて笑った。
甘い残り香が、部屋をふんわりと満たした。正餐の雰囲気がたけなわになるなか、ついに食事はすべて締めくくられた。
「せっかくこうして、プルベラでお会いできたのですから、今夜はぜひ、我が珊瑚館にお泊まりください。部屋はいくらでもございますから、ゆっくりとお寛ぎいただけるはずです」
イヒョンは丁重に首を振って辞退した。
「お気持ちだけ、ありがたく頂戴いたします」
そう言って、静かに微笑んだ。
「実は今日の昼、貿易連合社へベルティモ隊長にお会いしに行ったのですが、名前と宿の名だけを残して戻ってきましてね。もしや今夜遅くにでも、あるいは明日の未明にでも返事が来るかもしれないと思うと、今泊まっている宿を空けるのが、どうにも難しいのです」
「ああ、そういうご事情がおありでしたか」
ルカエルは、いかにも名残惜しそうに頷いて、口を噤んだ。
まさにその瞬間、隣の席で、未練たっぷりの眼差しでタルトの皿まで舐めかねない勢いだったライルの口が、そっと尖って突き出た。
「……アニキ。ここ、大浴場と食事を見ただけでも半端ないのに、珊瑚館ってところのベッドがどんなだか、想像もつかないんだけど? 俺たちも珊瑚館に、たった1晩だけでも泊まっていっちゃダメかな?」
ライルは、ごくりと唾を飲み込み、未練がぽたぽたと滴るような、哀れっぽい声で呟いた。
腹も満ちて心地よいこの夜に、プルベラ随一の富豪の家の贅沢な寝床を目の前にしながらも、それを断るイヒョンの意地が、どうにも惜しく、恨めしいと言いたげな顔だった。
イヒョンの視線がライルへと向いた。
「来るかもしれない大切な客人を放って、宿の部屋を空けておくのは、礼儀に反するだろう」
イヒョンは、淡々と、それでいて断固として、ライルの言葉を遮った。
「……はいはい。そりゃそうですよねぇ、うちの徹底したアニキのお考えなんだから」
ライルは口を突き出し、肩をがっくりと落とした。
ルカエルは、その光景がおかしかったのか、からからと笑いながら手を打って使用人を呼び入れた。そして、イヒョンとその仲間であるライルを、馬車で宿まで丁重に送り届けるよう命じた。
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宿へ戻ったイヒョンは、窓の外の景色をしばし見下ろした。
いつの間にか、プルベラの夜の上に、深く濃い闇が降りはじめていた。
イヒョンは革の外套を脱いで椅子の背もたれに掛けておくと、荷物を軽く整えた。
ルカエルの大浴場で飲んだヴィヌム・ルブルム・ノビレの、重厚なベリーの香りとオーク樽の濃密な風味が、今なお口の中にほのかに残っているような気さえした。
まさにその時だった。
静寂に沈んだ部屋の空気を裂いて、扉を叩く音が響き渡った。
こん、こん、こん。
規則正しく、それでいて抑制の効いたノックだった。
イヒョンが応じて扉を開けると、冷たい廊下の空気とともに、貿易連合社の制服を隙なく着込んだ兵が3人立っていた。その胸元には、貿易連合護衛隊の紋章が銀糸で緻密に刺繍され、仄かな灯火を受けてきらめいていた。
中央に立った先任の兵が、左手を胸の上に当て、深々と礼を尽くして頭を下げた。
「夜分に失礼いたします。イヒョン卿でいらっしゃいますか?」
「そうですが……こんな時間に、いったい何のご用でしょうか……」
イヒョンの低く落ち着いた声に、先任の兵は生唾を飲み込み、さらに深く腰を折った。
「私は貿易連合社護衛兵団、歩兵護衛隊の中隊長、ヴァレンスと申します。本日、貿易連合社の正門でありました兵たちの無礼を、お詫びに参りました」
声には独特の抑制が滲み、節度ある姿勢が体に染みついていた。
「当時、正門を守っておりました兵が他の地域の出身でして、イヒョン卿を見分けられなかったものと思われます。誠に申し訳ございません」
兵は、緊張で強張った顔色を隠しきれないまま、言葉を継いだ。
「間もなく、ベルティモ兵団長が直々に、こちらの宿へお越しになります」
『ふむ……正式な肩書きは兵団長、ということらしいな』
「わかりました。昼間の件は、そう気になさる必要はありません。兵の立場として、見知らぬ者を警戒するのは当然のことですから」
イヒョンは淡々と頷いた。
「寛大なお心でご理解くださり、心より感謝申し上げます」
「連れが別の部屋におりますので、少しばかり支度を整える時間をいただければ」
「はい、1階にて待機いたします」
兵たちが節度ある足取りで退がると、イヒョンは身なりを確かめ、ライルのいる隣の部屋へと渡っていった。
部屋の片隅のベッドの上には、昼間の大浴場での湯浴みに続く、酒の入った豪勢な食事で、全身がすっかりだらりと解けきってしまったライルが、大の字に伸びていた。ルカエルがもてなした最高級のコース料理と酒で、腹が破裂しそうなほど詰め込んだせいか、服を着替えることもできないまま、そのまま深い眠りに落ちていた。
鼻を鳴らす低い寝息が、規則正しく部屋を満たしていた。
「ライル。起きろ。ライル」
イヒョンは歩み寄り、その逞しい肩を軽く揺すった。
「ベルティモが来る」
その名が部屋の静寂をそっと突いた瞬間、ベッドのシーツががさりと乱れた。
「……うぅ。アニキ」
ライルは瞼もろくに開けられないまま、枕に顔を埋めて呟いた。
「うぅ……うぅ……明日の朝に会うんじゃ、ダメかな?」
「ベルティモは、そんなに暇な男じゃない。貿易連合の護衛兵団長だぞ」
イヒョンの断固として、それでいて落ち着いた口調に、ライルは布団の中でもがきながら、苦しげにぼやいた。
「朝だろうが夜だろうが、人を無理やり叩き起こすことほど、あくどい仕打ちはないってのに。アニキは本当に……情けってもんが、目を皿にして探しても、これっぽっちもないよな」
ライルはぶつぶつと文句を言いながら、枕で頭を抱え込んだ。
「疲れているのはわかるがな、北西部に関わる情報を、一緒に聞いておいたほうがいいんじゃないか? それに、あいつが以前おまえに話した、あの酒を持ってくるかもしれないぞ」
イヒョンは低い声で、核心を突いた。
やがて、深い呻き声とともに、ライルは渋々、やっとのことで上体を起こした。乱れた髪の間から、疲れの抜けきらない目が、ちらりとイヒョンを睨んだ。
「……まったく、人の一番弱いところを、よくもまあ突いてくるんだから」
ライルはぼやきながら、腰の革ベルトをしっかりと締め直し、のろのろとベッドの外へと体を引きずり出した。
しばらくして、扉の外の廊下から、警備兵たちの抑制の効いた軍靴の音がざっざっと近づいてきたかと思うと、ほどなく丁重なノックが続いた。
やがて扉が開き、貿易連合社の制服を隙なく着込んだ兵たちの護衛を受けながら、ついに一人の男が部屋の中へと足を踏み入れた。
彼は部屋に入るなりイヒョンを見つけると、微塵の躊躇もなく、その巨躯を引き連れて、ずかずかと歩み寄ってきた。
エセンビア伯爵領の元騎兵隊長にして、現・貿易連合社の護衛兵団長、ベルティモだった。
鉄の装飾がびっしりと打ち込まれた黒い革のコートの裾が、威圧感に満ちた足取りに合わせてはためき、顔に走る深い傷跡が、灯火の下で険しく光った。
「イヒョン!」
ベルティモは雷のような声で叫びながら、両腕を大きく広げたかと思うと、いきなりイヒョンを、その巨躯でがばりと抱きしめた。とてつもない図体に押し潰され、イヒョンは一瞬、ぐっと息が詰まった。
「どれほどぶりだ! こうしてまた会えるとは、本当に嬉しいぞ! はっはっはっはっはっは!」
かつてプルベラを血に染めた商団戦争の争乱のなか、ともにニルバスを追放し、真実を暴き出し、ペルトゥスの攻撃に立ち向かって戦った、戦友との再会だった。
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