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311. 行方

ついさっきまで食卓の上をやわらかく包んでいた、最高級ワイン『ウィヌム・ルブルム・ノビレ』の香りの上へ、今度は鼻を麻痺させるほどの、圧倒的な肉の香りが押し寄せてきた。

従僕と女中たちが、音のない足取りで一列に並んで入ってきた。


いちばん前を歩く従僕の手にした大きな銀の盆と、その上に置かれた巨大な皿を見た瞬間、テーブルの隅でパンをひと口かじったままもぐもぐやっていたライルの口が、ぽかんと、おのずと開いた。


これまで順に出てきた、こざっぱりとした前菜やスープの皿とは、かさから比べものにならないほど、雄壮な皿だった。


その上には、優に一斤は軽く超えて見える、巨大な大きさのステーキが、猛々しい威容を誇りながら、どっかりと載っていた。


分厚く切られた肉は、竈のじんわりとした火で長らく焼かれたのか、表面が濃い茶色に、香ばしくこんがりと焼けていた。


職人が細かく精緻に刻みつけた格子模様の切れ込みの隙間ごとに、透明でとろりとした肉汁が絶え間なくにじみ出て、てらてらと黄金色の照りを流していた。


皿の底にもうもうと敷かれた濃い茶色の特製ソースは、肉塊の表面をねっとりと包み込みながら、その重厚な色合いに、贅沢な光沢を添えていた。


竈の熱を帯びた白い湯気がもうもうと立ちのぼるたび、樫の薪の火に燻された独特の香ばしい焦げの匂いと、野生の肉の香りが四方へ広がり、狭い空気を重々しく満たしていった。


「北の森で仕留めた猪の肉のステーキです」


ルカエルが口髭をひくつかせながら、たいそう満足げで誇らしげな表情で、料理を紹介した。


一方、ライルは、朝の太陽のように明るかった顔色がすっかり消え失せ、すでにはち切れんばかりに膨らんだ自分の腹を、恨めしげに革のベルトの上からとんとんと撫でて、深い物思いに沈んでいるように見えた。こいつの濃い瞳には、凄まじい食い意地と、物理的な満腹感のあいだで激しく葛藤する、独特の悲壮さすら漂っていた。


「マジでまいるな。これ、この先いったい料理があとどれだけ残ってるんですか?」


ライルがほとんど泣きべそ混じりの声で、頭を掻きながら尋ねた。


「はは、これで二つ目のメイン料理が出たわけですから」


ルカエルがからからと笑いながら、指を一本ずつ折ってみせた。


「この先、甘いデザートと、この晩餐の完璧な締めくくりを飾るワインが、さらに出てきますよ」


ルカエルの説明に、ライルの顔が瞬く間に、真っ青に血の気を失った。


「あ、アニキ……俺、マジでこのままじゃ、腹が破裂するんじゃないか?」


ライルが巨大な猪の肉塊を切ろうとしていた銀のナイフを、宙で止めると、そっとイヒョンを振り返った。


こいつの顎の先が、無念さと呆れで、軽くひくついていた。


「もしかして、コースで料理がずらずら出てくるの、さっきから前もって全部分かってたのか?」


「最初は当然、分からなかったさ」


イヒョンはナイフとフォークを握った指先に軽く力を込めながら、淡々と答えた。


「ただ、さっき最初の前菜として、野菜のサラダと燻製の鱒が順に食卓に上がったとき、だいたいどう流れていくかは、見当がついたな」


「……なんだって?」


ライルの眉が、たちまち歪んだ。胃袋が今にも張り裂けそうだと泣きべそをかいていたこいつの声が、無念さに覆われて大きくなった。


「なら、とっとと俺に、ひと言ぐらい耳打ちしといてくれよ! 怪物みたいな職人だのなんだの、そんな話ばっかりしてる場合じゃなくて、この先メインがまだ残ってるってさ! そうしたら、このうまそうなステーキの入る胃袋の場所を、どうにかして前もって空けといたはずだろ! 今、俺の腹がマジで破裂する一歩手前だってんだよ!」


ライルが、はち切れんばかりにぱんぱんに膨れ上がった自分の胃袋を、恨めしげに拳でとんとんと叩いた。


「だから俺が、さっきから何て言ってた」


イヒョンが微塵も動じない平然とした顔で、ナイフを取り、照りのてらてら光る肉の繊維をやわらかく分けながら、低く小言を言った。


「ゆっくり食えと、はっきり言ったはずだがな」


「いや考えてもみろよ。今まで出てきた料理を、どうやってゆっくり食えるんだ。そんなの無理だって。これは到底我慢できるようなもんじゃないっての!」


ライルが両手をぱっと挙げて強く抗弁したが、ひと欠片の感情も読み取れないイヒョンの完璧な理性的ポーカーフェイスを前に、結局は言葉を失ってしまった。こいつは食卓の真ん中に居座る巨大な猪のステーキを、まるで生涯の宿敵に相対するかのように、ぎらぎらと燃える目で、穴の開くほど睨みつけた。


やがて、こいつが荒い息を肺の奥深くへ、大きく吸い込んだ。


「……はあ。よし。負けられねえよな!」


「おい、ライル。無理するなよ」


ライルが悲壮なまでに重々しく沈んだ声で呟いた。こいつの茶色い瞳の底で、負けん気が煌めいた。


「こんな腹の膨れ具合と、胃袋の満腹感ごときで、猪のステーキを諦める俺じゃないぜ。タルコス山脈の氷の嵐だって耐え抜いたんだ、こんな肉塊ごとき……必ず、必ず全部食ってみせる」


言い終わるより早く、こいつは席から中腰に立ち上がると、腰の革のベルトをバックルごとするりと外して、だらりと緩めた。


がちゃがちゃと金具の音を立てながら、革の裾がけだるく緩んで垂れ落ちた。上のリネンのシャツの袖を、肘の上まで荒っぽくまくり上げたこいつが、あらためて銀色のフォークをぐいと握り、肉を乱暴に切っては口へ押し込みはじめた。


カエラがその滑稽で、涙ぐましい光景を見守っていたが、心底愉快だとばかりに、白くほっそりとした手で口をそっと覆いながら、澄んだ笑い声をはじけさせた。


イヒョンもまた、食卓の真ん中に、野生の猛々しい威容を張って居座る巨大な猪の肉を、フォークでしっかりと固定した。そして、重々しい銀のナイフを、身の上へやわらかく押し入れた。


意外な感覚だった。


もともと野生の猪の肉といえば、決まって飼料を食べて育った家畜と違い、肉質が硬くこわばっているものだった。ところが、竈の熱い樫の薪の火の熱気をそっくり含んだ猪の身は、イヒョンの刃が触れるやいなや、驚くほどやわらかく繊維を描いて分かれていった。


それでいて、ナイフを握ったイヒョンの指先には、肉特有の噛みごたえを完璧に活かしきった、ほどよい弾力が残っていた。


軟化剤をぶちまけてぐにゃぐにゃにした、人為的な食感では、決してなかった。肉質本来の生まれ持ったやわらかさと、野生の獣特有の荒々しい弾力、その相反する二つの質感の均衡が、口の中で絶妙に噛み合っていった。


切り取った肉の一片をゆっくりと口に入れ、ゆっくりと噛みはじめた。


内側から感じられる、ほどよく歯ごたえのあるステーキの筋繊維は、表面の香ばしく焦げた香ばしさと、内側のしっとりと保たれた水分感という、互いに背反した感覚を、ひとつに固く束ねてくれた。噛むたびに口の中を満たす濃い肉汁は、野生の獣特有の獣臭さや雑味ひとつなく、深く重厚な風味で、舌全体をビロードのようにやわらかく包み込んだ。地球で数多の美食を経験してきたイヒョンの、口うるさい味覚の地形すら、一息に魅了するほどの完成度だった。


「……これは、まことに驚きですな」


イヒョンが銀のナイフを食卓の上に静かに置きながら、真心を込めて感嘆の声を、低く吐いた。


「猪の肉を、これほど完璧に扱うとは。スープと鶏料理も素晴らしかったですが、このステーキは、厨房を預かる料理人の腕前が、並大抵でないことを証明していますな」


その絶賛に、向かいに座ったルカエルの顔色に、たちまち喜色が差した。ルカエルは手入れされた口髭を満足げにひくつかせながら、まるで大人に褒められた子どものように上機嫌になった顔で、破顔大笑した。


「ははは! イヒョン卿にそう言っていただけると、まことに身の置きどころもございませんよ!」


ルカエルが喜びのあまり、みずからイヒョンの杯の上へ、赤い葡萄酒を溢れんばかりに満たしながら、満足げに笑った。


「卿がこれほど美食の眼力が高いと知っていたら、もっと入念に支度するよう言いつけたものを。ああ、それから、さきほど知りたがっておられた、あの北部三国出身の偏屈な職人、ディオニシウスのことですが」


ルカエルが葡萄酒を一口飲みながら付け加えた。


「あの者がプルベラに来しだい、私が直々に人を遣って、すぐにご連絡いたしましょう」


「ありがとうございます。ところで、もしや職人は、いつ頃こちらプルベラに来る予定なのですか?」


イヒョンの問いが静寂を切り裂いた瞬間、ついさっきまで満足げに喜色を浮かべていたルカエルの顔の上を、そっと曖昧で困惑した色がよぎっていった。男は口髭をいらだたしげにいじりながら、ワイングラスを慎重に置いた。


「それが……」


ルカエルが眉間を細くしかめながら、声を内密に潜めた。


「実は、あの職人が到着する予定の期限が……すでに、少々過ぎているのです」


ルカエルの口からその言葉が出ると、イヒョンの背筋の後ろへ、もう一度、冷ややかな既視感がよぎった。


イヒョンは何も言わず、訝しげな顔でルカエルを見つめた。


ルカエルはワイングラスを軽く回しながら、苦々しい表情を浮かべた。


「カルボリアには、船を浮かべられるほどの川がないのです」


ルカエルが口髭をいじりながら、説明を続けた。


「そういう水路といえば、小さな小川ほどのものしかない場所で、どうやって船を浮かべられましょう? そこで、あの職人が作ったというその奇妙な船を、馬をなんと8頭も引く大型の台車に、まるごと載せて、コランまで陸路で運んだのち、コランから川筋に沿って、このプルベラへ来ることになっていたのですよ」


「船を、馬車に載せて来る、と」


イヒョンが想像の中で、その奇怪な光景を描き出すように、低く繰り返した。


『……船を陸路で運ぶほどの品、か。いったいどんな構造の船なんだ』


風ひとつない日にも、ひとりでに川を遡っていくという船の正体。それは、内燃機関の初期の形態を搭載した蒸気船の可能性が大きかった。


それが川ではなく陸路を通って、それもどれほどの大きさゆえに、馬を8頭も引く馬車に載せて、コランまで移動させてくるというのか? ルカエルの言葉が正しいなら、その事実自体だけでも、かなり驚くべきことだった。


「ところが、途中で連絡が途絶えて、その後、いまだにこれといった報せがないのです」


ルカエルが赤い葡萄酒の杯を、指先でいらだたしげにいじった。


「コランを発つとの連絡は来たのですが、その後、連絡がぷっつり途絶えました。船路で来れば、少なくとも3〜4日もあれば着く距離です。もしや事故でも起きたのではないかとは思うのですが……ですが、本当に悲劇的な事故が起きたのなら、とっくに伝令の報せが来ていたはずでしょう。ですからイヒョン卿、あまりお気になさることはありませんよ」


ルカエルは何でもないというふうに、軽く肩をすくめてワインを一口含んだが、イヒョンはその話を、決して軽く聞き流すことができなかった。


貿易連合社の委員長であるルカエルにとって、ディオニシウスは、ただ神秘的な才を持った、いれば良し、いなくてもかまわない、賢いが偏屈な職人にすぎなかった。


だが、イヒョンにとっては違った。


あの者は、あるいは自分のように、このアルテラ星へ流れ着いた転移者にして、地球へ帰還できる巨大な秘密を握っているかもしれない、決して逃せない糸口だった。


イヒョンの指先が、かすかに震えた。胸の内の心臓の烙印が、既視感とともに、かすかに拍動した。


『……行方が知れない。よりによって、今この混乱した時期に』


イヒョンはゆっくりと考えを整理したのち、落ち着いて沈んだ声で口を開いた。


「私は数日間は、こちらプルベラに留まる予定なのですが……」


彼はテーブルの向こうに座ったルカエルを、まっすぐに見据えた。


「もしそれまでに職人が来なければ、私が直々に、コランへ探しに行ってみましょう」


その破格の申し出に、ルカエルの瞳が、瞬間、きらりと光を放った。


「おお、イヒョン卿! そうしていただけるなら、これ以上望むことはございません!」


ルカエルが杯を高く掲げながら、たいそう晴れやかに顔をほころばせた。失踪したディオニシウスがもたらすであろう、神秘的な船の価値を、誰よりもよく知るルカエルだったからこそ、彼の顔には興奮した気配がありありと浮かんでいた。


その声が落ちるより早く、卓の脇で巨大な猪のステーキと凄絶な死闘を繰り広げていたライルが、手に握った銀のフォークを、卓にとんと音を立てて置いた。


革のベルトのバックルを緩く外し、上のリネンの袖をまくり上げたこいつの口もとには、とろりとした茶色の特製ソースが、汚らしくついていたが、イヒョンを見つめる瞳だけは、いやに真剣に沈んでいた。


「アニキ……」


ライルが口いっぱいに噛んでいた分厚い肉の塊を、ごくりと呑み込むと、目を細めた。


「今、顔も知らない職人一人を探すために、直々に探しに行こうってのか?」


「必要なら行くさ」


イヒョンの短く容赦のない答えが、小部屋の空気を重々しく押さえつけた。ライルは呆れたとばかりに、フォークとナイフを置くと、顔を洗うように顔をこすった。


「ほら見ろ、また始まった。アニキ、頼むから、ちょっとは考えてくれよ。風もねえのに川を遡ってた船が、来る途中で跡形もなく消えたんだぞ。俺は正直、風もなく櫂も漕がずに動くってのも信じがたいけど、その報せが途絶えた場所が、いったいどこだよ? コラン近辺じゃんか。コランだぞ、コラン。馬に乗って行っても、えらく遠い距離なんだって。俺たちの目的地の北西部とも、道が完全に違うんだぞ!」


ライルがじめついた声で、もどかしさを訴えながら、ぽっこりと突き出た腹をぐいと突き出した。呆れて眉が歪んださまが、ことさら悲壮ですらあった。


イヒョンもナイフを置いて、自分を穴の開くほど睨みつけるライルを、低く諭すように言った。


「今すぐ行くって話じゃない。それに、道は違わない。これは後でお前と相談するつもりだったんだがな……北西部の地域へ行く一番早い道は、ここからコランへ船で行って、そこから北へ街道に沿って行くことだ」


イヒョンが指で卓の上に架空の線を引きながら、説明を続けた。


「もちろんその道は、ここの貿易連合でも使っている、かなり安全で快適な道だ」


部屋の中、愉快に笑っていたカエラの視線と、ルカエルの重々しい呼吸が、イヒョンの指先に留まった。


風ひとつない日にも、ひとりでに川を遡っていくというディオニシウスの船、そして、よりによってこの混乱した時期に、途絶えてしまった彼の消息。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。


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