310. 職人
イヒョンが空の杯をゆっくりと置きながら、そっと話題を転じた。
「まことに素晴らしい。こんな食事は、どこでもしたことがありません。ところで、なのですが……」
「ルカエル商団の実質的な運営を、すべてエスベロ様にお譲りになったと伺いました。事実ですか?」
ルカエルが如才なく顔を後ろへ反らして、豪快に笑い声をはじけさせた。その笑い声には、イヒョンの予想に反して、無念さや敗北の気配など、微塵もにじんでいなかった。
「ははは、譲ったという言い方は、少々語弊があるように思いますな」
ルカエルが軽く手首を弾いて杯を揺らした。たぷたぷと揺れる葡萄酒の表面の上に、琥珀色の灯りが波打つように砕けた。
「正確には、エスベロのあの友が、貿易連合の委員長の座を私に譲ってくれた、と見るのが正しいでしょうな」
イヒョンの眉が、わずかに上がった。
『意外だな、譲ったとは……』
ルカエルが葡萄酒を一口飲むと、淡々と話を継いでいった。
「1年前、この地に初めて貿易連合の礎を築いた頃はまだ、私は体が本調子ではありませんでした。商団の大小の事情を知る者は、みな一様に、私よりも書類仕事と行政に長けたエスベロのほうが、連合の実務に向いていると見ていましたよ。私も異論はありませんでした」
ルカエルが杯の向こうで、はるか1年前の状況を辿り直すように、目を細めた。
「ところがあの友が、自分は商団を通じて成し遂げたい夢が別にあると言って、連合全体を取り仕切る座を、私に何の条件もなしに差し出してくれたのです」
「……夢、ですか」
イヒョンが低くその言葉を繰り返した。
「今は、商団の実質的な流通と運営はエスベロが引き受け、私は委員長として、各領地間の調整と外交交渉、連合の管理を担っています」
ルカエルが何でもないというふうに、肩を軽くすくめてみせた。
「どのみち連合の持ち分と配当は、各商団の規模に応じて公正に分けられますから、私の立場で無念に思うことなど何もありませんよ。むしろ……」
彼が杯の向こうで目尻を細めて笑った。
「地方の領主や個々の商団と、直に会って相対し、交渉する今のこの仕事のほうが、私の性には、はるかによく合っているようです」
前菜を下げたのち、扉がふたたび開き、湯気のもうもうと立ちのぼるスープが運ばれてきた。
豪奢な陶磁の盆の上に、濃厚な野菜と茸のクリームスープが、こざっぱりと盛られていた。
目がくらむほど白い乳白色の地の上に、細かくすりおろした茸が、霧のようにほのかな茶色の渦を垂らしていた。表面には、搾りたてのクリームが螺旋状に薄く精密に回しかけられ、一幅の絵のような模様を成し、その上に細かく刻んだ生き生きとしたハーブが、みずみずしい緑色の点を打って、目を引いた。
イヒョンが銀の匙をスープにそっと浸すと、とろりと重々しいきめが、やわらかく分かれた。その刹那の隙から、薪の火でじんわりと燻された、土の香りの染みた茸の香りと、身震いするほど香ばしいクリームの匂いが、ふわっと立ちのぼった。
ひと匙すくって口に入れると、先ほどの清らかな白ワインの酸味と、歯ざわりのよいサラダの酢のドレッシングに呼び覚まされた胃の腑を、その温かくやわらかな液体が、ビロードのように包み込んだ。胃袋の奥深くから細胞が目を覚まし、重々しい安堵が背骨を伝って広がった。
イヒョンはもうひと匙すくって、ゆっくりと味わううち、思わず眉が上がった。
「……これは、腕前が並大抵ではありませんな」
まやかしも、政略的な美辞麗句も拭い去った、心からの感嘆だった。あえてイヒョンでなくとも、このスープ一杯に込められた火加減と計量の精密さが、人間の限界を試す職人の境地であることは、誰にでも見て取れた。
イヒョンがルカエルをまっすぐに見つめながら、言葉を継いだ。
「ルカエル様。厨房に、まことに大した人物を置いておられますな。これほど完璧な乳化の具合と香りの均衡は、エペリア全体を見渡しても、そうそう出会えるものではないでしょうに」
隣の席で、すでに理性を失って匙を動かしていたライルが、頬をはち切れんばかりに頬張ったまま、言葉を添えた。
「そ、そうそう。そうっすよ。これマジでイカれてます!」
ルカエルが口髭を機嫌よくひくつかせて豪快に笑うと、たぷたぷと揺れる杯を軽く持ち上げた。
「はは、イヒョン卿。今からそんなに驚かれては困りますぞ。まだこの晩餐のメイン料理は、出てもいないのですから」
彼が杯の向こうで目尻を細く折りながら、楔を打ち込むように、冷ややかで重々しい声を、ぽんと放った。
「メイン料理、ご期待なさってよろしいですよ」
言い終わるより早く、従僕たちが一斉に、最初のメイン料理を捧げ持って入ってきた。ニンニクと野生のハーブをたっぷり入れた鶏料理だった。
竈の樫の薪の火のなかでこんがりと焼かれた鶏の皮が、黄金色の脂をしっとりと含んで、つやつやとした照りを放っていた。その黄色い表面の上には、香ばしく焼いた薄切りのニンニクと、刻んだローズマリー、タイムが、それぞれに香りを競っていた。傍らには、竈でほくほくに焼き上げたじゃがいもと、採れたての青麦品種の青菜が、こんもりと囲んで盛られていた。
ルカエルの大見得は、はったりではなかった。メイン料理もまた、この上なく素晴らしかった。
イヒョンが銀のナイフを取り、鶏の胸肉に軽く刃を当てると、身が繊維に沿ってやわらかく分かれ、その隙間から、溜まっていた透明な肉汁がにじみ出た。地球の最高級のフランス料理店に引けを取らない、完璧な火力調節の賜物だった。
ライルは、イヒョンに抱いていた疑いなど、もうとっくに手放したあとだった。
「……これ、これ何なんですか?」
こいつは目をまん丸に見開いたまま、乾いた唾をごくりと呑み込むと、よく焼けた鶏を、ろくに切りもせずにフォークで突き刺して口に押し込んだ。肉をかじりつくと、香ばしい皮の弾ける音が、小部屋の静寂を軽やかに破った。
「生まれてこのかた、こんなうまいもん初めて食いました。くうっ、マジでっす!」
ライルは頬がはち切れんばかりに、肉と焼いたじゃがいもを一度に押し込みながら、しきりに首を振り立てた。
「少しは、ゆっくり食え」
イヒョンが低く小言を言いながら、手ぬぐいをこいつの顎の下へ押し込んだ。
「胃を悪くするぞ。今のお前の胃袋は、過負荷がかかる寸前のはずだ」
「どうやってこれをゆっくり食えるってんだよ!」
ライルが口いっぱいに鶏肉をもぐもぐやりながら、下唇をつんと突き出して抗弁した。
カエラがとうとう、声を立てて明るく笑い声をはじけさせた。彼女は夫ルカエルの杯をやわらかく満たしてやったのち、扉ぎわに控えていた女中へ、そっと目配せを送った。
「あのワインをお持ちなさい」
しばらくして、女中がかなり古びて見える硝子瓶に入ったワインを、慎重に持ってきた。
「ウィヌム・ルブルム・ノビレ(Vinum Rubrum Nobile)でございます」
女中がビロードのようにやわらかく、恭しい手つきで瓶の口を傾けると、琥珀色の照明のもとへ、血よりも濃い黒紫色の液体が、音もなく満ちていった。
「わたくしどもが取り揃えたなかでも、指折りの最高級ワインですのよ」
よく熟したブラックベリーの甘酸っぱい果実の香りと、ほのかに燻された木樽の香りが、四方へ広がった。
イヒョンは杯を持ち上げて軽く揺らした。白ワインとは本質から異なる重々しさが、硝子の杯の壁を伝って、血の涙のように精緻に流れ落ちた。彼は杯を唇に当て、ひと口を適量どおりに含んだ。
舌の上でゆっくりと液体を転がしながら味を辿る刹那、熱い陽射しを浴びて育った葡萄の濃いタンニンが舌を刺激し、後味は驚くほどやわらかく、すっきりと引いた。
さすが最高級と呼ばれるに足る、名品だった。
ところが、まさにそのすぐ隣で——
ごくっ、ごくっ、ごくっ!
「くはあああ——!」
ライルが、この貴重なワインを、まるで三流居酒屋のビールとでもいうように、喉の中へ容赦なく流し込んでいた。
「……ライル」
イヒョンは思わず、ずきずきと痛む眉間を、ぐっと押さえた。
「ん?」
「それはそんなふうに飲む酒じゃない。葡萄の酸味と木樽の香りが、空気と溶け合う、その精緻な濃度を味わわなきゃ……」
ライルがワインのついた口もとを手の甲で拭いながら、実に堂々と言い返した。
「そりゃアニキが分かってねえんだよ。酒ってのは、もともとこうやってぐいっと飲んでこそ、香りが口いっぱいに満ちて、もっとうまくなるもんなんだ。目くそほどずつちびちびやって、いったい何が分かるってんだよ? じれったくてさ」
こいつがかえって舌をちっちっと鳴らして、杯をテーブルに音を立てて置くと、イヒョンはそれ以上言い返す値打ちも感じず、小さくため息をついた。
飾り気のないライルの様子を見守っていたカエラとルカエルは、それすら愉快な興趣だとばかりに、ただ楽しげに笑い声をはじけさせるばかりだった。
イヒョンが杯を置きながら、さりげなく話題を転じた。
「ルカエル様、ひとつお尋ねしても、よろしいでしょうか?」
「もちろんです。何なりと歓迎しますよ」
「この巨大な大浴場のことですが。もしや団長どのが、直々に設計なさったのですか?」
「私ですか?」
ルカエルが口髭をひくつかせて豪快に笑うと、両手を振ってみせた。
「イヒョン卿。商売人の私に、そんな才があるものですか? 有名な職人に、特別に頼んだのですよ」
「これほどの規模の施設を、誤差なく設計できるほどとなれば、その職人という方、決して並の人物ではないでしょうな」
「あの者の腕前ひとつばかりは、エペリア全体を見渡しても、最高でしょう」
「腕前ひとつばかり、とおっしゃると……」
ルカエルがワイングラスを軽く揺らしながら、頷いた。
「ところが、性格がどうにも奇っ怪で偏屈でしてね。自尊心は天を突くほどで、人間嫌いにでもかかったように振る舞うもので、このプルベラへ連れてきて説得するのに、ずいぶんと冷や汗をかきましたよ。職人の強情ときたら、まったく舌を巻くばかりです」
ルカエルの回想が続くにつれ、イヒョンのなかで、好奇心がそっと頭をもたげた。
地球のローマ式テルマエを完璧に複製した大浴場を設計した、その偏屈な職人もまた、あるいは自分のように、コデクス・コルディウムを通じてこの地へ渡ってきた人間なのかもしれないという思いを、拭いきれなかった。
イヒョンがルカエルをまっすぐに見つめた。
「差し支えなければ、その職人が今、どなたなのか、私に教えていただけますか?」
イヒョンの言葉が終わると、ルカエルは手にしたワイングラスをゆっくりとテーブルに置き、両手の指を組み合わせて、イヒョンを見つめた。
「もしや、『北部三国』というのを、お聞きになったことは?」
その言葉に、イヒョンの目が輝いた。
「フェラドン(Ferradon)、アチェラ(Acera)、カルボリア(Carboria)。統一戦争以前から、エペリア王家と実に固い縁を持つ王国のことですね」
「まさに、そのとおりです」
「北部三国、ですか」
「そのうちのカルボリアに、ディオニシウスという名の職人が住んでいます」
ルカエルが淡々と言葉を継いだ。
「なにしろ技術がずば抜けていて、大陸のあちこちで、その名声を知らぬ者がいないほどなのですが、不思議なことに、あの者がいったいいつからそのカルボリアに腰を据えて暮らしているのかは、知る者が誰一人いないのですよ」
「……いつから住んでいるのかを、ご存じないと?」
イヒョンがシャツの袖口をいじっていた手を止めて訊き返した。彼の黒い瞳の奥に、外科医特有の精緻な疑念が宿った。
ルカエルが肩を軽くすくめてみせた。
「そのうえ、性格がまた、どうにも奇っ怪で妙でしてね。あの者は、ほかの職人たちと違って、まるで命がいくつもあるかのように、自分の足でカルボラン伯爵の城砦を訪ね、傲慢にも研究資金を出してくれと要求したというのですから。当時はさほど有名でもなかったというのに。貴族を侮辱する言葉ひとつ、振る舞いひとつで首が飛びかねないところを、自分の足で伯爵を訪ねてそんな要求をしたなど、まったく信じがたい話ですよ。まともな正気を持った者なら、決してできない所業です」
イヒョンは何の相槌も打たず、次の話を待った。
「ところが、意外にもカルボラン伯爵は、あの者の技術が金になると踏んだらしいのです。正気を失った要求をした者を、死刑にするどころか、いっそ機作の作位を、破格にも授けたそうでしてね」
ルカエルが赤いワイングラスを傾けた。
「その後ディオニシウスは、伯爵の強大な資本の後援を受けながら、エペリアの常識では到底理解できない、あらゆる奇怪で強力な品々を、次々と生み出したのです」
説明を聞くうち、イヒョンの好奇心は、すでに手のつけられないほど膨れ上がっていた。
『いつからあの痩せた土地のカルボリアに住んでいたのか、その起源を知る者が誰一人いない者。エペリア大陸の常識では、到底存在しえない機械学的な技術』
破片のように散らばっていた疑いが、イヒョンの頭の中で歯車のように噛み合い、ついにひとつの巨大な形を成していった。
「その職人について、もしやほかにご存じのことはありませんか?」
イヒョンが低く沈んだ声で、慎重に尋ねた。
卓の向かいのルカエルが、ワイングラスをいじりかけて、ふと何かを思い出したように、瞳を煌めかせた。
「実に興味深い話がひとつありましてね。あの偏屈者が、風ひとつ吹かない日にも、ひとりでに川を遡っていく奇妙な船を作ったと、カルボラン伯爵の城砦で大口を叩いたそうです」
ルカエルが、ふっと力ない笑いを漏らした。
「帆も櫂もなしに動く船だなど、狂人の寝言のような話ではありませんか? そうでなくとも、その突拍子もない噂が本当なのか、この目で直に確かめてみたくてね、先ごろ貿易連合の公式の伝令を通じて、あの者をこちらへ丁重に呼び寄せておいたのです」
「風がないのに動く船、ですか?」
イヒョンの頭の中を、稲妻のような何かが、ぱっとよぎった。
「ええ、馬鹿げた話ですよ。ですが、普段あの者が作った品々を見ると、まるっきり嘘とも思えなくてね……お考えになってみてください。もし彼の言葉が事実で、我が商団がそんな船を手に入れたなら、大陸西部のみならず、エペリア全域を掌握できるでしょう。ただ、あの者がどうにも金に目がなくてね、ここで自分の作った船を披露させるだけでも、途方もない金をかけましたよ」
ルカエルが杯を揺らすと、注がれたワインが湖のように揺れた。
「近々、このプルベラに到着する予定です。もしイヒョン卿が、この都市に少し長く逗留なさるのなら……あの者と直にお会いになれるよう、席をお取り計らいいたしましょう」
『風なしに動く船』
その瞬間、イヒョンの心臓が、ふいに速く打った。
蒸気機関。あるいは、それに準ずる別の近代的な機械動力。
どちらにせよ、地球でいえば大航海時代の入り口に留まっているこのアルテラ星の常識と、物理的な年代記のなかでは、決して存在しえないオーバーテクノロジーだった。
『ディオニシウスか……。名からしてギリシャのそれだな。現代風に呼ぶなら、デニスといったところか』
イヒョンにとって重要なのは、あの者が持つ機械技術の正体ではなかった。いや、それよりもはるかに本質的で、致命的な疑問があった。
イヒョンは、そのディオニシウスという者が、本当に自分のように地球からこの地へ来ることになった転移者なのか、それを確かめたかった。
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