309. 正餐
「そうなのか? そういうのは俺にはよく分かんねえけどな」
ライル自身が詳しい説明を望んで始めた会話だったが、内容が少しずつ込み入ってくると、ライルはたちまち退屈だという表情で、イヒョンの顔をぽかんと見つめながら答えた。
「とにかく、ベルティモは俺たちに必要な情報をたくさん持ってる可能性が高いし、少なくとも力を借りられるだろうって話だ」
イヒョンの話が終わると同時に、丁重に扉を叩く音が聞こえてきた。
しばらくして部屋の扉が開き、女中の丁重な案内を受けて、二人が入ってきた。
ルカエルとカエラだった。
扉が開くと同時に、部屋の中へ、外のホールのほのかな琥珀色の灯りと、弦楽器の旋律が、絹の裾のように流れ込んできた。
幸いだった。ルカエルの顔色は、この上なく良さそうに見えた。以前カルヌスに感情を刈り取られたあと、ある程度は回復していたが、当時は精神的に大きな苦痛を受けている顔だった。男の頬には健やかな血色が差し、引き締まった目もとには、余裕が深くにじんでいた。
「これはこれは、どなたかと思えば!」
ルカエルが明るい顔で両腕を大きく広げながら、イヒョンに近づいてきた。
「イヒョン様。こうしてまたお目にかかれるとは! ははははは。お越しになる前に、ひと言ご連絡くださればよかったものを」
「お久しぶりです、ルカエル団長どの。お元気そうで、何よりです」
イヒョンも椅子からゆっくりと立ち上がり、彼を迎えた。
その後ろに立ったカエラもまた、陽射しのように明るい顔で、丁重に目礼を送ってきた。プルベラの戦い以降、村と商団の再建で気苦労が絶えなかったはずだが、今は一人前の豪商の妻としての気品と安定感が宿っていた。
イヒョンはそっと視線を巡らせ、さんざん緊張してこわばっている隣のライルを、手ぶりで示して紹介した。
「私の連れです。ライルと申します」
イヒョンがそっと口角を上げ、いたずらっぽい声を漏らした。
「少々散漫で軽そうに見えはしますが、いちばん危うい瞬間に背中を預けられる、良き仲間ですよ」
「いやアニキ、紹介するにしても、わざわざ人をそんなふうに!」
ライルが赤らんだ顔で、すかさず食ってかかろうとした。普段、他人の前ではかっこつけたがるこいつの性分が、飛び出しかけた矢先だった。だが、ルカエルとカエラ、二人の豪商が醸し出す、ほのかで圧倒的な社交界の視線が一度に突き刺さると、こいつはぎこちなく首の後ろを掻いた。
そうして、軽く頭を下げて挨拶した。
「……ライルです。まあ、たった今アニキが言ったとおり、ちょっと軽い野郎なのは認めます。あんまり真面目なのは、性に合わないもんで。あはは。はは」
ライルの正直で、そそっかしい受け答えに、部屋の中にあったかすかなぎこちなさが、一息に拭い去られた。
ルカエルとカエラが愉快な笑い声をはじけさせながら、白い布のかけられた卓に並んで腰かけた。
カエラが扉ぎわに控えていた女中へ、そっと目配せを送ると、女中は丁重に挨拶をして部屋を出ていった。
「正直、驚きました。あの建物の雄壮さはもちろん、床の下へ熱気を流す精密な配管や、温と冷の動線を分けた施設まで……こんな大したものを、ここで目の当たりにするとは、思いもしませんでした」
イヒョンはカエラを見つめながら、言葉を継いだ。
「カエラ様が直々にこの大浴場を運営なさっていると伺いましたが、まことに大したものです」
その賛辞に、カエラが華やかな微笑みを浮かべながら、首を振った。
「お褒めが過ぎますわ、イヒョン様。これほど大きな施設を保つのは、わたくしの器量には、あまりに過ぎたことですのに」
彼女は茶碗をいじりながら、やわらかな眼差しでイヒョンを見つめた。
「それに、これも突き詰めれば、すべてイヒョン様のおかげですのよ」
「……私のおかげ、と申しますと?」
イヒョンの黒い瞳が、わずかに見開かれた。
わけが分からず訊き返すイヒョンを見ながら、カエラは慈しむような微笑みをたたえたまま、隣に座ったルカエルへ、そっと目配せを送った。
ルカエルが髭をいじりながら、特有の豪快で愉快な笑い声をはじけさせた。
「1年前、私の珊瑚館の扉を叩かれた日を覚えておいでですか」
ルカエルの視線が、霧のような灯りを突き抜けて、イヒョンの瞳に触れた。
「あのとき、私を訪ねてお見せくださった石鹸のことですよ」
その瞬間、イヒョンの脳裏を、1年前の記憶がよぎった。
『……ああ、石鹸か』
当時プルベラで、ルカエルに近づくために石鹸を見せ、その流通と販売を提案したことが思い浮かんだ。
「私がある程度回復したのち、半ば破壊された珊瑚館を片づけていたとき、イヒョン様が置いていかれた石鹸の箱が目に留まりましてね。あのときあなたから伺った石鹸は、実に重宝しました。いや、重宝どころではありませんでしたよ。私はすぐさま、独占生産と流通権を握るコランのレオブラム侯爵家と、大規模な取引契約を結びました」
ルカエルが茶を一口飲んでから、言葉を継いだ。
「貿易連合が西部の交通の要衝に腰を据えてからは、連合の強力な物流網を通じて、エペリア西部全体にその石鹸を納品する権利まで、まるごと買い取りました。毎月どっと流れ込んでくる莫大な資本……断言しますが、あの石鹸がなければ、このプルベラに大浴場を建てることなど、夢にも思わなかったでしょう」
イヒョンは静かに頷いた。
地球から持ち込んだ小さな科学の知識ひとつが、この世界の秩序を揺るがし、ついにはローマのテルマエを思わせる、巨大な資本の宮殿となって還ってきたわけだった。
話が交わされるあいだ、扉がやわらかく開き、従僕たちが最初の料理を運び入れてきた。
焼きたてのライ麦パンの温もりが押し寄せてきた。
オーク材のまな板ごと卓の真ん中に載せられたパンは、見ているだけでも心が弾む気分になった。
外は粗く、濃い茶色に固く焼き上げられ、職人が鋭く切れ込みを入れた隙間からは、白い湯気がもうもうと立ちのぼり、食卓の空気をふんわりと潤していた。
ルカエルが手で弾力のあるパンを裂くと、表面の香ばしい欠片が四方へ弾け飛び、きめの粗い中身が露わになった。指先を伝って伝わってくるしっとりとした水分感とともに、酸っぱくも香ばしい酵母の発酵の香りが、ふわっと肺の奥深くへ押し寄せてきた。
その傍らには、澄んで透き通った緑色のオリーブ油が、浅い青銅の皿の上で、琥珀色の灯りを受けて、たぷたぷと揺れていた。
白ワインも一緒だった。
従僕が丁重に瓶の口を傾けると、硝子職人の精緻な息遣いの宿った杯の内側へ、澄んだ若草色の液体が、滝のように注ぎ落ちた。杯の壁を伝って冷たく結ぶ露の玉のあいだから、夏の日のみずみずしい青葡萄と、シトラスの爽やかな果実の香りが、四方へ広がっていった。
冷たいワインの酸味と、香ばしいパンの匂いがひとつに溶け合って食欲をそそると、胃袋が猛烈に暴れまわった。
ルカエルとイヒョンのあいだで会話が長引くあいだ、ライルは目の前に置かれた食事を前にしながらも、あえて手をつけられず、飢えた仔犬のようにくんくんと呻いた。こいつの喉仏は、唾を呑み込むために上へ下へと絶え間なく上下し、革のベルトをいじっていた指は、卓の上で落ち着きなく、もぞもぞと動いていた。
「アニキ、マジで俺、腹の皮が背骨にくっついて、もうちょっとしたら食うこともできなくなりそうなんだけど……」
ライルがイヒョンの袖口をそっと引きながら、蚊の鳴くような声でぼやいた。そうして、あたりの様子をこそこそとうかがうと、我慢ならないとばかりに、そっといちばん大きなパンを一切れつまみ上げた。
「ほほ、格式ばらず、どうぞお楽にお召し上がりくださいませ」
その場面を見守っていたカエラが、やわらかな笑い声をはじけさせて、緊張をほぐしてくれた。彼女は自分の杯に注がれた清らかな白ワインを、優雅に一口含むと、みずからパンを裂いてオリーブ油に浸した。
食事の始まりを告げる彼女の許しが下りて、ようやくライルの顔が、朝の太陽のようにぱっとほころんだ。
こいつは待ってましたとばかりに、パン切れを緑色のオリーブ油にたっぷりと浸して、口いっぱいにひと口かじりついた。香ばしい皮の砕ける音とともに、しっとりとした中身が胃袋を満たすと、こいつの瞳が幸福感で、とろりと閉じられた。
「……くうう。これ、これマジでイカれてるんだけど?」
琥珀色の灯りに染まった密やかな小部屋の中、卓の上には、やわらかなワインの香りと、香ばしいライ麦パンの匂いが、幾重にも層を成していた。
「最初はただ、石鹸を知らしめるために、小さな仮の浴場を一つ設けただけだったのです」
ルカエルが昔のことを思い返しながら、杯を傾けた。薄い若草色の液体が、杯の壁に沿って揺れ、澄んだ波を描いた。
「ところがこれが、反応が爆発的でしてね。垢を落とし、体を香しくする魔法のような品に、人々は熱狂したのですよ。浴場が繁盛すれば石鹸もつられて飛ぶように売れ、倉庫に積み上げた金貨の重みで、棚がたわむほどでしたわ」
「一月と経たぬうちに、押し寄せる注文を捌ききれないほどでしたの。ほほほ」
カエラが夫の襟を整えてやりながら、並んで口添えした。
「毎朝、埠頭に停泊した交易船が、ただその石鹸だけを、首を長くして待っていましたの。そこで決断いたしました。船着き場の隅に打ち捨てられていた、埠頭の広場のいちばん広くて古い倉庫を、まるごと買い取って、この巨大な大浴場へと造り替えたのですわ」
「折よく貿易連合が腰を据えたことで、プルベラに出入りする商人や上流の貴族家が、めっきり増えましてね」
ルカエルが杯を持ち上げて飲むと、ナプキンで髭を拭った。
「金を持つ者が集まれば、彼らが逗留して疲れを癒し、密談を交わすための、内密な場所が要るというもの。どうせなら、このプルベラという都市の顔となるような、いちばん華やかな建物を建てようという考えで、地下の配管システムから色硝子まで、腹をくくって設計し、こうして華やかに建てたのです」
イヒョンは静かに頷きながら、心から感嘆した。
地球から持ち込んだ小さな知識、そして彼に近づくために用いた石鹸を使って、ついには都市の象徴的な大浴場へと育て上げた、ルカエルとカエラの眼力。金の流れを本能的に読み取り、政略的な知略を実行する彼らの決断力は、決して並々ならぬものではなかった。普段、徹底した計算で動くイヒョンにとっても、この二人の商才は、深い畏敬の念を抱かせるに十分だった。
「……大したものです。まことに」
イヒョンが重々しい声で頷いた。
一方ライルは、すでに二人の男が交わす巨大資本の話などには、まるで関心がなかった。
こいつはパンをしきりに緑色のオリーブ油へたっぷり浸しては、頬が張り裂けよとばかりに口の中へ押し込むのに忙しかった。雄壮な大浴場の歴史や設計よりも、胃袋を満たすことのほうが、はるかに重要な事だったからだ。
カエラが折にふれ女中に言いつけてワインを注がせ、食事を続けるうち、前菜が運ばれてきた。
最初の皿は、青みがかった生気の漂う野菜のサラダだった。
採れたてのような、みずみずしい若葉の菜が、陶磁の皿の上にたっぷりと盛られ、その上に、塩と透明な酢を精密に混ぜたドレッシングが、細い糸のようにやわらかく回しかけられていた。葉の一枚ごとに結んだ澄んだ水気がつやつやと照りを放ち、琥珀色の灯りを受けて、宝石の欠片のように透き通って煌めいた。箸でつまんでひと口かじれば、みずみずしく歯ざわりのよい食感が口を刺激し、その後から、酸っぱくてしょっぱいドレッシングの風味が、感覚の麻痺していた舌の先を、ぴりっと呼び覚ましてくれた。
二つ目の皿は、ほのかな木の香りを帯びた燻製の鱒だった。
トラクシル川を遡ってきたと思しき鱒は、職人の刃先のもとで紙のように薄く削がれていた。鮮紅色と銀色の交差する身が、白い皿の上に、薔薇の花びらのように幾重にも華やかに広げられていた。
ほのかな桃色の身の一片ごとに、燻製の過程でにじみ出た脂ののった照りが漂い、鼻先には、樫の薪の香りが心地よく染みた、塩気のある匂いがかすめた。添えられたレモンの一切れを指先で軽く搾ってかけると、甘酸っぱく爽やかな香りが、独特の重々しい燻製の匂いと、絶妙に溶け合った。
その精緻な前菜の秩序を眺めていたイヒョンは、ふと奇妙な錯覚に陥った。
『……ここは、地球のフランスのコース料理店だったか』
一皿ずつ料理を空けるたびに、格式に合わせて順に供される精密な流れも、食材の色合いを最大限に引き出した、こざっぱりとした見栄えも、まぎれもなく現代地球のファインダイニングだった。
ライルは、イヒョンのそんな物思いなどとは、はるか遠い世界に、ひとり存在していた。こいつはレモン汁の広がる鱒の一片を、フォークでまるごと掻っさらって、口の中へ押し込んだ。
甘酸っぱく脂ののった身が舌の上に触れると、こいつは頬がはち切れんばかりに、絶え間なくもぐもぐと動かし、しきりに気持ちよさげに首をこくこくと縦に振っては、ぐんにゃりとしていた。
その姿をじっと見守っていたルカエルが、笑いながら尋ねた。
「なかなか、いける味ではありませんか? 師匠が召し上がっていたものを、料理人に言って、少し手を加えてみたのです」
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