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308. 決心

大浴場の扉を押して出ると、ついさっきまで周囲をびっしりと包んでいたじめついた蒸気が、一瞬にして引いていった。


むっとした熱気と湿り気の代わりに、大理石の壁面のあいだから、ほのかなハーブの香りの染みた冷ややかな空気が、二人の男の肌を心地よくかすめた。


体を熱く温め、香油でマッサージを受けたのちサウナまで経てくると、全身のこわばっていた筋肉が、心地よくほぐれていた。


すっきりとしたハーブの香りに混じって流れてくる香ばしい油の匂いに、すでにライルの瞳は、いっそうとろんとゆるみきっていた。


二人が赤い絨毯の敷かれた廊下へ完全に歩み出るやいなや、大浴場の入口に立っていた女中が、待っていたとばかりに近づいてきた。


彼女は厳格な接客の規律が骨の髄まで染みついているのか、一分の乱れもない丁重な姿勢で頭を下げた。


「カエラ様に、お言伝てをお伝えいたしました」


女中は恭しくかしこまった状態のまま、ごくやわらかく、抑制のきいた声で言葉を継いだ。


「カエラ様は、お二方さえお時間がよろしければ、夕餐をご一緒したいと、お伝えするようにと仰せでございました」


続いて顔を上げた女中は、しきりに微笑みを浮かべながら、ルカエル団長もまた今回の夕餐に列席するという事実を告げた。


「そうですか。ちょうどルカエル団長どののお体が案じられていたところでしてね。昨年プルベラを発つ折には、ある程度回復なさったものと承知していますが、長らくお目にかかれていませんでしたから」


イヒョンが外套の襟を整えながら、淡々と応じた。すると女中は声を一段落とし、宮廷の内密な消息を伝えるかのように囁いた。


「ルカエル様は現在、プルベラ貿易連合の委員長職をお務めになり、対外的な業務を統括しておられるものと承知しております。実質的な商団の行政と交易は、エスベロ様がすべてお引き受けになって運営しておられます。先ごろお二方の合意のもと、商団の名も、往時の栄光を称えて『オルディン商団』へと統合してお変えになりました」


「ああ、なるほど」


『犬猿の仲で十数年間も噛みつき合っていた二人が、とうとう力を合わせたようだな』


イヒョンの口もとに、うっすらと微笑みが広がった。死因が明らかになって以降、互いへの誤解が消え去り、ついに和合として実を結んだのだった。


イヒョンの低いつぶやきに、女中は深い敬意を込めて、眼差しをきらめかせた。


「お客様は、プルベラの歴史についても、たいそう深くご存じでいらっしゃるのですね」


「以前、たまたま耳にする機会がありましてね。エスベロ団長どのも、今回の席にご一緒できたらよかったのですが」


かつてプルベラの戦後再建を率いたオルディン商団が、ついに真っ二つになっていた破片を繋ぎ合わせ、ふたたび巨大な商業の要衝として力強く動きはじめた、という報せは、イヒョンの胸の底を妙に刺激した。


その瞬間、イヒョンの感慨深い回想をがしゃんと打ち砕いたのは、やはりライルの正直な腹時計だった。


「うう、アニキ! こんな素敵なところで夕飯だなんて、マジで涙が出るほどうれしい報せだぜ。俺は今すぐ革でも噛みちぎって呑み込めそうなくらい、腹の皮が背中にくっつく寸前だったんだからな」


ライルがへへっと笑いながら、イヒョンの肩をぽんと叩いた。


イヒョンは軽くため息をつきながら、女中に向かって顎を小さく動かして頷いた。


「ご案内、お願いします」


女中がそっと裾をつまんで、静かに踵を返した。


彼女の規則正しい足音に従い、シャンデリアが華やかに光を放つ中央の廊下を過ぎ、ついに3階へと足を踏み入れた。


階段を一段ずつ上るたび、足もとの大理石がそこはかとなく含んでいた涼やかなハーブの香りは、しだいに引いていった。そして、その場所を容赦なく埋めたのは、胃袋を刺激する魅惑的な匂いだった。


こんがりと焼かれた重々しい鹿肉の煮込みの、香ばしい脂気と、ぴりりとした香辛料の気が、重たい空気に乗って鼻先を突いた。


「うう、匂いがまた、たまらねえっすね。舌の先に、もう唾が湧いてきますよ」


階段の突き当たりに上りきるやいなや、広々と広がる3階のホールが、二人の男の視界を圧倒するように埋め尽くした。


天井は象牙色の石材をアーチ状に高く打ち上げ、胸のすくような開放感を与えており、柱ごとに吊るされた数十の灯りが、かすかに揺れながら、琥珀色のほのかな光を絨毯のように流していた。


壁面を長く埋める五色の色硝子の窓は、プルベラの暮れゆく黄昏の光を受け、赤や青の奇妙な鉱石の破片のように、大理石の床の上へと降りそそいでいた。


ホールの中央には、目がくらむほど白く清らかな布をかけた円卓が、ゆったりとした間隔で配されていた。湯浴みを終えて出てきた裕福な豪商や、旅人と思しき人々が、ガウン姿のまま座り、赤いワイングラスを傾けていた。


片隅から聞こえてくる弦楽器の美しい音色が、人々の笑い声、そして食器の触れ合う音とやわらかく入り混じり、3階全体の空気を、居心地よくしていた。


ホールの縁に沿って進むと、精緻な蔓の彫刻が刻まれた濃い色の木の扉が、ブロックのように並んでいた。ホールにある共用の卓のほかにも、重要な会議や、巨額の動く内密な取引の話をするのに、ちょうどよさそうな部屋の数々だった。


『単なる浴場だけでなく、都市の有力者たちの取引と社交の場としての機能まで、完璧にこなす造りだな』


イヒョンは内心で深い感嘆を呑み込んだ。地球の高級ホテルのスパとビジネスクラブを、巧みに合わせたかのような空間構成だった。


女中が足を止め、ホールの縁に位置する木の扉を開けて、二人をその中へと案内した。


扉が閉じると、外のホールの活気あふれる喧騒と、空間を満たしていた弦楽器の旋律が、嘘のように遮断された。


一瞬にして押し寄せた静寂のせいで、部屋の中の空気が重々しくなるような感じがした。


部屋の中央に位置する丸いオークの卓は、清潔なリネンのシートで覆われ、その上には、真鍮の燭台に挿された蝋燭が一本、四方へ揺らめく琥珀色の陰影を描きながら、部屋を静かに照らしていた。


居心地よくも、密閉された空間だった。四方の壁面を包む暗い木材のパネルからは、かすかな薔薇の香油の匂いがにじみ出ていた。


「お茶をお持ちいたします」


女中が丁重に腰をかがめると、ライルが椅子に深く腰かけようとしかけて、中腰のまま立って手をぱっと挙げ、女中を呼んだ。


「あの——」


ライルはよほど喉が渇いていたのか、彼の喉から、砂地を荒っぽく引っ掻くようなしゃがれ声が出た。


「お茶じゃなくて、もしかしてビールはダメかな?」


「もちろん、ございます」


プルベラの復興を象徴する、この巨大で高級な大浴場、高官顕爵が香油を塗って出入りする場所で、わざわざ庶民が飲むような安ビールを求める者は、あまりいなかったらしい。女中は眉を上げ、少し意外だという表情をしばし浮かべると、すぐにまた落ち着いた微笑みを浮かべた。


「ビールをお持ちいたします。それから、カエラ様とルカエル委員長どのも、じきにこちらへおいでになります」


彼女が音もなく退がって、ほどなくすると、冷たく冷えた錫の杯に注がれたビールが、卓の上に置かれた。


よく醸造されたビールの白い泡が、杯の縁を越えて卓の上へ、ねっとりと流れ落ちるほど分厚かった。酸っぱくも、ほろ苦いホップの香りが、狭い部屋の中を素早く満たした。


ライルは乾いた唾をごくりと呑み込むと、錫の杯を掻っさらうように握りしめ、喉が裂けよとばかりに、ごくごくと呷った。


ごくっ、ごくっ。


激しく躍動するこいつの喉仏を、イヒョンは黙って視線で追った。杯の底が天井を向くまで、こいつの呼吸は、ただの一度も途切れなかった。


「くはあ! ようやく生き返る気がするぜ」


ひと息で杯の半分以上を空けたライルが、袖の先で口もとを荒っぽく拭った。こいつの唇の周りに、白い泡の痕がにじんだ。


だが安堵もつかの間、がつんと音を立てて卓の上に杯を置いたこいつの視線が、イヒョンへと向いた。五色の色硝子の窓を透過して差し込む、濃い橙色の黄昏の光が、ライルの透き通った瞳に触れて鋭く煌めいた。


おどけた調子を完全に拭い去った眼差し。


「これから、どうするつもりなんだ?」


「これからって? 何のことを言ってるんだ」


イヒョンもまた、自分の分として置かれた錫の杯をいじりながら、淡々と訊き返した。


「任務のことだよ、任務」


ライルが無骨な指先で、木の卓をこつ、こつ、と叩いた。リズムのない摩擦音が、静寂を破った。


「今までは、まあ、アニキがやろうって言うとおりに、何も訊かずについてきたけどさ……」


こいつがしばし語尾を濁した。杯の中で白い泡が静かに消えていくさまを、長いあいだ見おろしていたこいつが、やがて目を大きく見開き、イヒョンの瞳を正面から見つめた。


「前は詳しく訊かなかったけどな。もうそろそろ、アニキのその本当の計画ってやつを、俺に詳しく話してくれたらって思うんだ」


部屋の中を満たした橙色の陰影のなかで、ライルの顔が、奇妙なほどに真剣に沈んでいた。


『まだ完全には信じきれていないようだな』


イヒョンはこいつの揺るがぬ眼差しを前にしながら、内心で低くつぶやいた。


「そうだな、俺の言ったことを信じるのは難しいだろう」


「確かに、アニキの話した、常識を超越した妙な文明だの、別の世界だのっていうの……そのまま信じるには、あんまりに難しい話だったのは事実だよ。アニキの胸に刻まれた、あの妙な文様にしてもさ」


「そうだな。確かに目に見えるからな。それにお前はもう、黒仮面の連中やペルトゥスについても、いやってほど身をもって味わってきたし……どうしたって、そうなるだろうな」


イヒョンが苦々しく付け加えると、ライルが杯を置いた手に力を込めながら、首を振った。


「さっき大浴場でその話を聞いて、ほんとにさんざん悩んだ。でも結局、俺はアニキを信じつづけようって、腹をくくったんだよ」


「……」


「だからこれは、信じるとか信じないとか、そういう問題じゃないんだ」


「なら?」


「俺は南部自由都市の出身だ」


ライルは、すでに半分は飲んでしまったビールの杯を、指でこっちへあっちへといじった。金属の杯がテーブルの上を擦って立てる、うそ寒い音が部屋の中を満たした。こいつのトーンが、いっそう沈んだ。


「親も知らねえし、兄弟がいるのかも分からねえ。覚えてるのは、十になる前からギャング団で食い残しを拾い食いしながら使い走りをして、掏摸をやって、見張りをして……そうやって過ごしてきたことだけだ。ほんとに、どぶ鼠にも劣る暮らしだったよ」


「……」


イヒョンは黙って聞いているだけだった。実のところ、突然打ち明けられたライルの暗い過去の話に、どんな慰めの言葉をかければいいのか、しかるべき答えを見つけられなかったからでもあった。


「南部自由都市ってのは、実のところ俺みたいな下層民の子どもにとっちゃ、うわべばっかり取り繕った、体裁のいいどぶ川なんだよ。自由貿易だの、自治都市だのってのは、全部、金と権力のある奴らにとってだけいい場所でな……俺はだからこそ、必死こいて金と権力が欲しかった。そうしてるうちに、突然、俺の中で何か妙なことが起きたんだ」


「どんな……?」


「前に話したやつだよ。十四のときだったか? その日にかぎって、物を盗むのも、掏摸も、とんと運が悪くてな。それで、一日の上納金を満たせなかった。ギャングの連中は、俺みたいな孤児のガキどもに物を無理やり盗ませて、金を巻き上げてたんだ。今思えば、ほんとにしみったれた、しょうもない南部の裏路地ギャングだけどな」


ライルの口角が上がった。冷笑めいた笑みの向こうで、乾いた唾を呑み込むこいつの喉仏が、鈍く動いた。


「その日にかぎって、あいつらも上部の組織にどやされたのか、殴りようがやけにひどくてな。あばらでも折れるかと思ったよ。音が立つほど踏みつけられて、しまいには、連中のなかの頭の野郎が一人、青光りする刃物を抜きやがった。いつもは、ちょっと殴られて終わりだったんだけどな。その後は……正直、よく覚えてないんだ」


ライルは視線を錫の杯から、五色の光に染まった天井へとゆっくり移すと、思い出したくもない過去を映し出すように、虚空をじっと見つめた。


「気がついたら、あいつが抜いた折りたたみナイフが、俺の手に血まみれで握られてて、俺を取り囲んでたギャングの連中は、一人残らず床に手足をへし折られて転がってた」


こいつの手の甲の筋が、ぴんと浮き上がった。自分では制御できない『恐怖のコルディウム』が初めて牙を剥いた、あの日のぞっとする感覚が、よみがえっているらしかった。


「その後は、ギャング団まるごとに追われる身になって、結局、南部自由都市を夜に紛れて逃げ出した。それで、流れ流れて、結局は似たような暴走が何度かあって、知らねえうちに、裏路地でけっこう危ねえ奴として名が知れちまった。商団の護衛の仕事をやってて、結局、こんな稼業でもやらなきゃ食っていけそうにねえと思って、旅人になったんだ」


イヒョンはあいかわらず、ライルがこれほど長い告白の果てに、自分に何を伝えたいのか、その本当の腹の内を完全には掴めぬまま、杯を握った手に力を込めた。


「前置きが長くなったな。俺が言いたいのは結局、俺にはこの広いエペリア大陸に、帰る故郷も、俺を待つ人もいないってことだよ」


ライルは、すでに空になった杯が名残惜しいのか持ち上げて、とんとん振って、残ったビールの一滴を舌の先に振り落とした。


「だから、アニキがちょっと羨ましくもあるんだ。そこがどこなのかはよく分からねえけど、『地球』っていう、帰るべき明確な故郷があるんだからな。だから俺は、アニキがその目標を成し遂げられるように、喜んで応援して、最後まで手伝おうって、腹を決めたんだよ」


ライルが杯を置きながら、イヒョンの目をまっすぐに見据えた。こいつの眼差しの奥には、一分の揺らぎもない、堅固な絆が揺らめいていた。


「だから、仲間として、俺に資格をくれよ。これから王都にあるっていう禁書庫の扉を開ける、その計画を、俺にうんと詳しく説明しろって」


イヒョンは胸の奥のほうへ、ほのかに押し寄せてくる憐れみと温もりを感じながら、低くつぶやいた。


「ああ。ありがとう、ライル」


「で、これから計画がどうなるんだって。アニキはただ気分任せで動く人間じゃないだろ。さっき貿易連合に行ったのも、何か目的があってのことじゃねえのか?」


ライルが首を巡らせて、イヒョンを見つめた。こいつの澄んだ瞳には、おどけた色など、ひと欠片も見えなかった。


「大方はな。だが、この浴場に入ったのは偶然だ。結果的には、運がかなり良かったな」


「運? 運が良かっただと?」


ライルが片方の眉を吊り上げた。


イヒョンは杯の表面に浮かんだ冷たい水滴を、指先で撫でおろした。冷ややかな感覚が指先を伝って染みた。


「この大浴場の主ルカエルは、このプルベラを興した人物にして、かつてエペリア大陸で最も大きな商団を動かしていた、オルディンという商人の弟子にして婿でな」


「それで?」


「それで、じゃない。あの人は今や、貿易連合の委員長まで務めてる。その組織がどこまで影響力を持ってるのか、今はすべて掴みきれんが、俺たちが行こうとしていた北西部の地域とも、すでに巨大な連合を形成している可能性が大きい」


イヒョンが体をもう少し前へかがめると、蝋燭の陰影が、彼の頬の上へ深く落ちかかった。


「それに、商人たちの情報網は、決して甘く見ていいものじゃない。ある側面じゃ、王都の精鋭の間諜どもよりも、もっと重要な情報を握ってることが多いんでな」


「そうなのか? 俺は全然知らなかったぞ? ただの商売人ってのは、物を売り買いするだけだと思ってた」


ライルが呆れたように笑った。


「物を取引するには、途方もない情報が、必然的についてまわるものなんだ。どの領地に物が豊富か、どこが飢えて不足しているか、領主どもが搾り取る税がどの程度か……」


イヒョンの声が、低く静かに続いた。


「どの街道で戦争や紛争が起きたか、どの地域が豊作か凶作か、あまつさえ、どの森の道に強盗が出没するかまで。商売人ってのは、命と金を懸けて、その情報を真っ先に集めて記録するんだ。だからこそ、貿易連合委員長という肩書きは、この大陸の生きた情報の地図も同然なんだよ」


ライルは答える代わりに、空になったビールの杯を指でいじった。錫の杯の底にこびりついて消えていく白い泡を、ぼんやりと見つめていたこいつが、何かが頭をよぎったように尋ねた。


「じゃあ、さっき言ってたその護衛隊長ってやつは?」


「実のところ、そっちのほうが俺には、もっと重要でな」


イヒョンが淡々と言葉を継いだ。


「ベルティモは、かつてバセテロンで、エセンビア伯爵の騎兵隊を率いていた騎兵隊長だった。その後は密輸に手を染めながら、大陸のあちこちに、かなりの情報網を保っていてな。おそらく今も、その情報網は生きている可能性が高い」


「……密輸屋だと?」


ライルの口角が、呆れたようにひくついた。こいつの薄い唇の間から、ビールの匂いの混じった息が噴き出された。


「だが、今は貿易連合の護衛隊長だ」


イヒョンが楔を打ち込むように付け加えた。


「考えてもみろ。合法的な貿易連合の護衛隊長の身分なら、ほかの領主たちの疑いを受けることなく、武装した護衛隊を率いて、大陸のどこへでも堂々と出入りできる。軍隊を合法的に動かせる通行証を握っているようなものだ。軍隊を疑われずに動かせる人間が、この大陸に何人いると思う?」



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


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