307. 信頼
話せることはすべて話した。
もともとイヒョンの暮らしていた地球と、初めてエペリアに転移した記憶から、胸に刻まれた未完成の烙印、そしてコランであった襲撃と、プルベラの血なまぐさい夜の数々まで。
そのどれも繕うことなく、どんな恥部も隠すことなく、生のままの真実をまるごと差し出した。
もはや主導権は、イヒョンの手を離れた。
残る判断と選択は、ひとえにライルのものだった。
湯気の立ちこめる浴場の中に、静寂が降りた。
天井のステンドグラスから華やかな光がそそぐなか、結露が水滴となって床に落ちる音だけが、清らかに響き渡るばかりだった。
ぽつ。ぽつ。ぽつ。
一定のリズムに乗って落ちる水滴の音が、まるでメトロノームのように、静かな室内を重々しく揺さぶった。
ライルはあいかわらず二歩ばかり離れた場所に立ったまま、顔を深々とうつむけていた。こいつの肩がかすかに上下した。たった今イヒョンの唇を通して流れ出た話が、あまりに巨大で馴染みがなく、まだ消化しきれていない様子がありありと見て取れた。
エペリア大陸の常識を超越した世界、薬か酒に酔った人間が口走りそうな感情のホール、だが目の前にあるくっきりとした文様。
生涯、居酒屋と狭い裏路地を転がりながらも聞いたことのない、とんでもない話の数々が、一度にどっと流れ込んできて、ライルの頭の中を容赦なく掻き回していた。髪の先から落ちた水滴が、大理石の床にぶつかる音が、やけに長く尾を引いた。
イヒョンは決して急かさなかった。
ただ、ライルが自分の中の疑いと恐怖を払いのけ、みずから結論にたどり着くまで、静かに、黙々と待ってやるだけだった。
こいつの唇の間から漏れ出たのは、意外にも、力ない笑いだった。
「はあ……」
ライルはゆっくりと顔を上げた。こいつの瞳には、もはや鋭い疑いも、イヒョンに感じていた敵意や恐怖の感情も、残ってはいなかった。恐怖に押しつぶされていた瞳には、ただ深い畏敬と、奇妙に揺らめく信頼だけが居座っていた。
ライルが濡れた髪を後ろへ掻き上げながら、イヒョンが目配せした大理石の隣の席へ、とぼとぼと歩いてきた。
「地球だのなんだのって話は、詐欺師だって口にしないほど荒唐無稽な嘘みたいだけど……」
ライルがイヒョンをちらりと横目で見やり、口角をわずかに持ち上げた。顎の先を伝って流れた水滴が、こいつの首筋に沿って下り、鎖骨を過ぎて流れ落ちた。
「でも、俺の知ってるイヒョンは、そんな情けない嘘を並べ立てるような人間じゃないからな」
ライルはゆっくりとイヒョンの横へ近づき、椅子に体を長々ともたせかけて座った。
「だから、信じるよ」
こいつの言葉が、耳ではなく胸を通して、イヒョンの心臓の内側へと熱く流れ込んでくるような感じがした。がらんと空いていたイヒョンの左胸、その内に刻まれた赤い愛の烙印が、かすかに震えるような気分だった。
「……それでだったのか?」
いっそう明るくなったライルの声が、浴場に響いた。その声には、イヒョンが抱えていた巨大な孤独を、うっすらと理解してしまったかのような、切ない憐れみが混じっていた。
「そのために……必死こいて上級旅人になろうとしてたのか?」
「ああ」
イヒョンは低く答えながら、視線を天井へ向けた。月明かりが硝子窓を通り抜け、二人の肩の上へ冷たくそそいでいた。
「俺の来た場所、地球へ帰る方法が、カレオストラの禁書庫にあるという手がかりを見つけたんでな」
イヒョンは膝に肘を載せ、体を少し前へかがめた。
「禁書庫?」
「ああ、禁書庫だ」
「俺は初めて聞くけど……」
ライルが濡れた髪を後ろへ掻き上げながら、眉間を狭めた。三流居酒屋の裏路地を転がりながら、あらゆる噂を拾い集めてきたこいつにとっても、未知の領域だった。
「そりゃそうだ、俺だってバセテロンで手に入れた一冊の本で読んだ話だからな。俺もそれまでは、まるで方向を掴めずにいた。だが調べてみると、その禁書庫で本を閲覧するには、王族か貴族、高位神官、でなけりゃ上級旅人の身分が要るらしくてな。だから試験を受けているんだ」
椅子に長々ともたれ、五色の色硝子に染まった天井をぼんやりと見上げながら、ライルが長いため息をついた。唇の間から漏れ出た嘆きが、白い蒸気のなかへ散っていった。
「よし。アニキが怪物どもとグルじゃないってこと、しっかり分かった」
こいつがそっと声を潜め、イヒョンの肩をぽんと叩いた。
あいかわらず天井から視線を外さないままだったが、こいつの口もとには、失笑に近い、気の抜けた笑みがぶら下がっていた。
「でもさ、アニキが今話したこと、あれ正直あんまりに非常識すぎて、俺は頭が破裂しそうなんだよ。何が何やらさっぱり分からんっての。感情の部屋だの、取り戻すたびに体に刻まれる文様だの、地球だのなんだのって、ほんと流浪劇団の三流詩人だって書かねえたわ言みたいなんだけど……。アニキの話が事実だとしても、俺には想像すらできねえよ」
ライルがゆっくりと首を巡らせ、イヒョンを見つめた。こいつの瞳には、もはや疑いは存在しなかった。イヒョンを見つめるライルの目には、余所者へ向けた奇妙な憐れみが宿っていた。
「……信じがたいのも当然だろうな」
イヒョンは、理性の揺らがぬ外科医特有の眼差しで、こいつの視線を正面から受け止めながら、低くつぶやきを吐いた。
「当然だろ、その話を聞いて額面どおりに信じるほうが、よっぽどおかしい人間だぜ?」
ライルが下唇をつんと突き出して、ふてくされた。
「かといって、アニキが俺に詐欺なんぞ働いて座ってるような玉でもないんだよな。それがよけいに厄介なんだ。アニキの目つきは、ほんとに真実を語ってるみたいだから、疑ってる俺のほうが馬鹿になる気分だっての」
そうして、ふと、こいつは湯船の揺れる水面をじっと見おろすと、トーンを落とした。おどけた調子を拭い去り、ことさら真剣に変わった声が、重い蒸気のなかを掻き分けた。
「けどよ、アニキ。今の状況を見るに、あの北部にいるかもしれないってインテルヌムが何やら企んでて、ギルド本部の見立てじゃ、いつでかい戦争が起きるか分かんねえってことじゃんか?」
ライルの目が細められた。こいつの視線が、イヒョンの横顔に触れて重々しく落ちかかった。
「とにかくそいつらを全部くぐり抜けて……なんだかんだで上級旅人になって、王都の禁書庫へ行って、その装置だか本だかっていうなんちゃらを見つけ出せば……」
ライルが乾いた唾をごくりと呑み込んだ。喉の喉仏が、鈍く上下した。
「そしたらアニキは……もともといた場所へ、帰れるってことなのか?」
イヒョンはすぐには答えなかった。
大浴場のぬるい大理石の熱気が、足を通して伝い上がってきて、胸元に刻まれた悲しみと愛、怒りの文様が、妙に疼いた。
他人の感情を読みながら、自分を救いと呼んでくれたリセラのやわらかな眼差し。
鹿の角を手に、伝説の剣だと屈託なく笑っていたエレンの笑い声。
師のために自分の首へ包丁を突きつけ、涙を流したセイラの切実な声が、脳裏をよぎった。
イヒョンはしばし沈黙のなかで、深く言葉を選んだ。湿った蒸気さえも息をひそめたかのような静寂が、二人のあいだを埋めた。
「……さあな。あの本を見つけたところで、すぐ帰れるかどうかは……」
「帰れるなら、帰るのか?」
「ひとまずは、そのつもりだ。俺が生涯を捧げて築き上げたものが、全部そこにあるからな」
初めてこの世界に落ちたときから抱きつづけてきた、唯一、理性を支えてくれていた目標だった。だがイヒョンはそこで止まらず、5年ぶりに取り戻しはじめた自分の内面の響きを込めて、正直に付け加えた。
「ただ、まだ……完全には決めきれていない」
ライルはその答えの重みを、一つひとつ吟味するように、長いあいだイヒョンの微動だにしない横顔を静かに見つめた。こいつの瞳に宿っていた込み入った感情の沼が、やがて穏やかに沈殿していった。
ほどなくして、ライルが席から、ぽんぽんと自分のガウンの膝を払いながら、軽やかに立ち上がった。
「分かったよ」
こいつがいつものとぼけた態度に戻りながら、肩を軽くすくめた。だが、背を向けてガウンを羽織るライルの指先は、妙に震えていた。
「頭の痛くなる所業は性に合わねえから、ひとまず脇に置いといて、ここまで目と鼻の先まで来たついでに、そのご大層な湯浴みってやつから、ちょっとやろうぜ」
ライルが額に浮かんだ冷や汗を拭った。
二人はついに、立ちこめる蒸気を突き抜けて、大浴場の中へと足を踏み入れた。白い帳のような硫黄の湯気が、二人の男の視界をぼんやりと遮った。
熱湯の湯は、肌がちくちくとひりつくほど熱かった。湯船の表面の上へ陽炎のように立ちのぼる熱気が、空気を占領していた。
湯船の縁に立って、慎重につま先を浸すやいなや、ライルが「あちっ!」と、路地じゅうに響けとばかりに飛び跳ねた。湯がざぶんと揺れて、大理石の床を濡らした。
「う、うわあ! アニキ、これ水じゃなくて煮えたぎる溶岩じゃねえのか? このままじゃ俺が茹で上がっちまうんだけど?」
一方、イヒョンは平然と肩まで湯のなかへ体を沈めた。消耗しきった全身の毛細血管がほぐれていく感覚を覚えながら、静かに目を閉じた。凄まじかったプルベラの夜の数々が、肩を押さえつけていた疲労が、熱い湯のなかへ、じわじわと溶け落ちていった。
ライルは赤く茹だった顔でぶうぶういいながら何やらぼやいていたが、結局は歯を食いしばって、湯の中へ後を追って入ってきた。こいつが動くたびに、湯が重々しく揺れた。
「……うう、アニキはこのイカれた湯加減が、なんともないのか?」
ぼやきもつかの間、凝り固まった筋肉がほぐれはじめると、いつの間にかこいつの目がとろんとしてきた。ぴんとこわばっていた肩が、ぐにゃりと水面の下へ沈んでいった。
続いてのオイルマッサージ。
女中の手のひらが、疲れきった二人の男の背中を、やわらかく撫でて通り過ぎた。甘くも重々しいオイルの感触が、肌を滑るように分け入ってきた。
ライルは最初こそさんざん警戒して全身をこわばらせていたが、背骨に沿ってこわばっていた筋肉がほぐれるたび、思わず呻きを漏らした。
「あふう……うう……」
「静かにしろ、ライル」
イヒョンの小言にも、こいつはぐんにゃりと、大理石の寝台の上でだらけきっていた。緊張などひと欠片も残っていない、しなやかな肉の塊のように。
次はサウナだった。
扉を開けて入ると、息の詰まる乾いた熱気が、胸の奥深くを焼きつくすように、ぐっと分け入ってきた。赤く焼けた火山石が、狭い部屋を熱して、熱気を噴き出していた。
イヒョンが焼けた石の上へ冷たい水を一杯ぶちまけると、じゅうっ——! という情熱的な悲鳴とともに、白い巨大な湯気が爆発するように噴き上がった。その瞬間、サウナの内部に、ラベンダーとローズマリーのハーブの香りが、艶めかしくも濃密に広がっていった。
「ここ、初めて来たの、確かなんだよな?」
「ああ、俺も初めて見る場所だ」
「なのに、なんでこんなによく知って……いや。こういうの、アニキの言ってた地球にもあったのか?」
ライルが水蒸気のあいだから目を細めながら尋ねた。
「ああ。まったく同じじゃないが、似たようなものはあるな」
イヒョンは汗の玉が目もとを伝って流れるのを感じながら、低く答えた。汗の玉が全身の毒素を洗い流すように流れ落ちた。
そして最後、待望の冷湯だった。
氷のように冷たい水が、肌を荒々しく打った。熱湯とサウナでさんざん火照っていた皮膚が、瞬く間に収縮し、ぴりっとした戦慄が背骨を貫いた。
「うわああっ! ようやく生き返るぜ。これ、ほんとにいいなあ」
ライルが濡れた髪を荒っぽく振り払いながら、顎をがくがく震わせた。冷湯の気が、こいつの白く整った顔を冷たく凍りつかせた。
「あ、アニキ……マジでこの浴場ってやつは、ほんとにイカれてるのは間違いねえよ。どうやってこんなもん思いついたんだろな? ほんと……賞のひとつでもやらなきゃな」
イヒョンがふっと小さな笑いを漏らしながら、湯船の外へ歩き出た。
けだるいのを通り越してぐにゃぐにゃになった体で、二人はついに、大浴場の重々しい扉をあとにした。
疲労がすっかり洗い流された気分だった。
温かい湯、香油を含んだマッサージ師の手つき、そしてサウナ室の中を満たしていた甘いハーブの香り。
その感覚の饗宴の数々が、ライルの鋭く逆立っていた警戒心を、少しずつ、だが確実に、丸く削り取っていた。ついさっきまで大理石のテピダリウムの中で、イヒョンへ刃のような疑いを抱いて後ずさっていた、あの重々しい距離感は、もはや見当たらなかった。
完全に以前のように、屈託なくにやけきったとまではいかないが、少なくとも、ぴんと頭をもたげていた緊張だけは、やわらかくほどけた顔だった。こいつはもう、イヒョンが怪物ではないということ、そして自分とともに地獄のような戦場を掻い潜ってきた、唯一の「アニキ」だという事実を、完全に受け入れていた。
脱衣室の粗いリネンのカーテンが、風に軽く揺れていた。
衣装棚から服を取り出して着替えながら、ライルが自分の革のベルトの下で腹を撫でた。
浴場の熱気がまだ引かず、ほんのり赤らんだ温もりの残る皮膚の上で、こいつの飢えた胃壁が暴れまわり、ぐうう——という正直な音を、脱衣室じゅういっぱいに響き渡らせた。
「アニキ。もうマジで、何か食わなきゃならなそうだ。浴場のせいで空腹を忘れてたけど、今じゃ腹の皮が完全に背中にくっついちまったよ」
ライルがだぶついたシャツの間から、痩せた胸を突き出しながらぼやいた。
「俺も同じだな」
イヒョンは淡々と頷きながら、シャツの袖のボタンを丹念に留めたのち、革の外套を羽織りながら、淡々と答えた。
「ここの3階では、食い物と酒を売っているようだったな。遠くまで行くこともない、ここで食って、喉も潤すついでに、酒も一杯やろう」
「お、それはマジで名案だぜ!」
ライルがすかさず目を輝かせて、ぱっと顔をほころばせた。
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