306. 裏切り
イヒョンは女中の案内を受けて、大浴場の廊下へと向かった。
胸の内が、こわばるように沈み込んでいた。
つい先ほど、狭い脱衣室の中でライルが抜こうとした短剣、そしてこいつの瞳に宿っていた不信。
文様を隠しきれずに見つかってしまったという後ろめたさと、それでもこいつを呑み込もうとした恐怖を臨界点の寸前で止めてやれたという安堵が、奇妙に絡み合って、イヒョンの胸を押さえつけていた。
どちらも完全な安心にはなりきれぬまま、理性的な判断の錘が、冷たく揺れていた。
「こちらでございます、お客様」
女中の落ち着いた軽やかな足取りに従い、廊下の突き当たりにたどり着くと、分厚い木の扉が静かに開いた。
扉が開いた瞬間、イヒョンの黒い瞳がわずかに見開かれた。廊下の外からは、まるで見当すらつかなかった圧倒的な広さの空間が、眼前に広がったからだった。
『……これが、この建物の中に収まっていたというのか?』
地球で数多の豪華施設を経験してきたイヒョンでさえ息を呑むほど、プルベラの大浴場は、ローマの巨大なテルマエをそっくりそのまま移し替えたかのような威容を誇っていた。
部屋の中を埋め尽くす白い湯気が、生きた生命体のように、霧のような蒸気を生み出していた。華やかで精緻な彫刻が刻まれた大理石の柱が、高い天井を雄壮に支え、天井に嵌め込まれた五色の色硝子を通り抜けた一筋の光が、水蒸気の帳を突き抜けて降りそそぎ、青みを帯びた水面の上に幾何学的な文様となって揺らめいた。
床の下に配された、ハイポコーストの配管システムを伝って立ちのぼる重々しい熱気が、ガウンを羽織ったイヒョンの肌を温かく温めていた。
女中は巨大な湯船の入口までイヒョンを案内すると、両手をきちんと前で合わせ、やさしい口ぶりで囁いた。
「初めてのお越しのようですので、造りをご説明いたします」
彼女はほっそりとした指先で、湯気の立ちこめる方向を一つずつ指し示しながら、低く言葉を継いだ。
「まず、こわばったお体を徐々に温めるぬるめの温湯室、その次に、もっと深い熱気で汗を出す熱湯室、そして火照ったお体を冷ます冷湯室が、あちらに順に構えておりますの」
女中が説明するこの浴場の入浴システムは、かなり精密だった。熱いサウナ室で老廃物と毒素を排出したあと、軽くオイルマッサージと湯浴みをして、最後に冷たい水で体を冷ます順序までゆっくりと教えてくれた彼女の態度には、ここで働いているという誇りがにじんでいた。
「どうぞごゆっくりお楽しみくださいませ。私はお連れ様をお迎えに参ります」
女中が軽く裾をちょっと持ち上げて挨拶をすると、丁重に退がっていった。
広々とした浴場。
水面が揺れて立てる清らかな音が、広い湯殿にこだまのように響く共鳴音と、熱い水蒸気が噴き出す音だけが、イヒョンの耳もとへ入り込んできた。
イヒョンはガウンの裾をかき合わせ、まず体を温める温かい部屋、テピダリウムへとゆっくり足を運んだ。
樫の扉を押して入るやいなや、ほのかで温かな熱気が霧のように立ちのぼり、全身の肌をやわらかく包み込んだ。
遺跡と記録にのみ残されていた、かつてのローマのテルマエに比べれば、あまりにも小さな空間だったが、それをここに再現したということ自体が、途方もないことだった。
『……こんな施設を都市の中に、それも建物の中に、ここまで再現したというのか……』
イヒョンは湯船を見回しながら、低く舌を巻いた。
大きな天井を支えている柱も、床の下に一つひとつパイプを埋設して熱気を流し込むハイポコースト方式も、温湯と熱湯、冷湯を順に配置して体を温めては冷ます、有機的な動線も、決して拙い真似事ではなかった。
科学的な原理を完璧に理解している者が設計したのは、間違いなかった。
滑らかな大理石の椅子にゆっくりと身をもたせかけながら、イヒョンはふたたび頭を巡らせた。
『カエラさんにせよ、ルカエルさんにせよ、対面が叶ったら、必ず訊いてみなくてはな。この精緻な建物を設計して建てた職人が、いったい何者なのかを』
そこまで考えが及んだとき、背筋を伝って冷ややかな感覚が稲妻のようによぎった。
『もしかすると。俺のように、地球から来た者かもしれない』
江南の古びた書店で『Codex Cordium』を開いたのち、アルテラ星へ落ちてきた自分、そしてセイラの師であったダニエル・ベルヌーイ。セイラの師であるダニエル・ベルヌーイが姿を消した時点は、どんなに長く見積もっても、5年と経っていない。だが、ダニエル・ベルヌーイは地球の時間でいえば、イヒョンよりも300年も前に生きていた人物だ。
イヒョンは、地球から転移する人間は、時間を超越して同じ瞬間に存在するのかもしれないという考えに至った。だとすれば、今このイヒョン自身のほかにも、地球からアルテラへ転移した人間がいるかもしれないということだった。
この大浴場の設計者は、あるいは数十年前、もしくは数百年前の地球から、この世界の分岐点に先に落ちて生きている、また別の訪問者なのかもしれない、という気がした。
だが、イヒョンはこめかみを押さえながら、その巨大な仮説をひとまず脇へ押しやった。今すぐ目の前に潜んだ、より差し迫った問題へ立ち戻らねばならなかったからだ。
胸に刻まれた文様。
つい先ほど、個室で震えていたライルの瞳が思い浮かんだ。胸元のど真ん中にくっきりと刻み込まれたあの文様を、あいつにいったいどうやって納得させるのか?
『全部話してもいいものか? それとも……ほどよく尾ひれをつけて、繕うべきか』
薬を選んだり、用量を計算したりするよりも、はるかに難しい問題だった。
さまざまな感情の扉を開くたびに胸の上へ刻まれる文様の真実は、ライルが受け止めるにはあまりに重すぎるかもしれないことだったし、生半可にでっち上げた嘘は、こいつの警戒心と恐怖を刺激して、暴走寸前まで行ったライルの目を欺くには、あまりにも底が浅かった。
沈黙の重みが水蒸気とともに胸の奥深くへ溜まり込んでいった、まさにその瞬間。
扉が開き、ガウンをだらりと羽織ったライルが、霧の向こうからゆっくりと姿を現した。
ほどなくして、顔をこれでもかとしかめたライルが、イヒョンを睨みつけながら、とぼとぼと歩いてきた。白い蒸気を掻き分けて歩いてくるこいつの足取りには、いつもの軽さは跡形もなく、警戒心と慎重さがどっさりと乗せられていた。
イヒョンのいる場所から二歩ばかり離れた位置にすっくと立ったまま、ライルはただ、イヒョンを冷たい目で見おろした。
「どういうことなんだ?」
しかめられた眉間、鋭い目、そして低く沈んだ声が、湯殿の中の空気を重々しく押さえつけるかのようだった。
イヒョンはしばし黙って顔を上げ、ライルの目を見つめ返した。
その瞳から、さっきの破滅的な恐怖の影は、きれいさっぱり晴れていた。
だが、恐怖の影が退いたあとには、別のものが一度に逆流して絡み合っていた。疑い、怒り、そして自分が命を預けていた仲間に、裏切られたのかもしれないという感情の数々。
そして、その込み入った感情の沼の、いちばん深い底には、どうか自分の疑っているこの醜い仮説が、事実でないことを願う、切実なまでの祈りが、細い一筋の光のように差していた。
地球で人間不信の深淵を味わい、感情を閉ざしてきたイヒョンだったからこそ、こいつの瞳が語っているその矛盾を、誰よりも鋭く読み取ることができた。イヒョンは自分の隣の空いた場所をぽんぽんと叩いて、ライルを見た。
「座ったらどうだ? 話が長くなりそうだ」
味気ないが、揺らぎのない口ぶりが、彼の口から流れ出た。
「いや」
いつもと違って、ライルはイヒョンの申し出をひと太刀のもとに断ち切った。こいつの握りしめた拳の指先に、もう一度力がこもった。
「釈明が先だ。アニキは普段、自分のことをろくに話さなかったよな。でも今日は、逃げられないぞ」
ライルが乾いた唾をごくりと呑み込んだ。喉の喉仏が大きく上下した。
「俺たち、出会って1年も経っちゃいないけど、俺は……俺はその短いあいだ、アニキに自分の背中をまるごと預けたんだ。ほんとにとんでもない事件が起きても、何があっても、アニキだけは信じてたんだよ」
こいつの声が震えてきた。
「ほんとに理解しがたい奇っ怪な所業も、死ぬのが目に見えてるような作戦でも、アニキがやろうって言ったとおりに全部やった。アニキを、そしてアニキの判断を信じてたからだ。だからこそ、命を懸けてついてったんだよ」
ライルの激情のこもった声が、湯殿の中に共鳴するように響いた。
「なのに、その果てが……裏切りだっていうなら……」
ライルが奥歯を砕けんばかりに食いしばった。
「俺は、アニキも、アニキに間抜けみたいに同調してた自分自身も、許せそうにない」
その言葉を聞いた瞬間、イヒョンは心を決めた。
繕ってはならない。底の浅い嘘で塗り固めて、こいつを一時的になだめることはできても、一度こじれてしまった信頼の隙間を埋めることはできない。こいつにだけは、すべて事実のとおりに打ち明けねばならないという思いに至った。
イヒョンはゆっくりと口を開いた。
「……俺は、ここの生まれじゃない」
「それは知ってるよ。オリスビアの出身なんだろ」
「いや。そこでもない。文字どおり、俺はまるで別の場所から来た人間だ」
ライルの眉がぴくりと動いた。
「前に訊いてきたことがあったな。なんでこんな妙なことを、こんなにたくさん知ってるのかって」
イヒョンはゆっくりと目を上げ、ライルの瞳をまっすぐに見つめ返した。嘘の入り込む隙のない眼差しだった。
「覚えてるか」
イヒョンはゆっくりと言葉を継いだ。
「お前が奇跡と呼んで、不思議がったあの知識の数々。俺にとっては、どれもごくありふれたものだった」
イヒョンの声は淡々としていた。
「俺の暮らしていた場所じゃ、それが当たり前の常識だったからな。人が人の腹を割いて臓器を取り出し、病を治し、目に見えない細菌を薬で抑え込み、爆弾というものを作り、戦術を教えるアカデミアが存在する場所だったからだ」
ライルは何も言わなかった。ただ、こいつの瞳だけは、イヒョンの口から落ちてくる次の言葉を、ただの一言も聞き逃すまいとするかのように、イヒョンに据えられていた。
「どうやってこの世界に来ることになったのか、なぜ来たのかは、俺にも分からない」
イヒョンは首を振った。
「何か奇妙なことが起きて、目を覚ましてみたら、このエペリアだった」
そしてイヒョンは、エペリアに来て自分が経験したことを語りはじめた。
見知らぬ荒野にひとり落とされた初日の戸惑いから、正気を取り戻す間もなく人狩りに捕らえられ地下要塞に閉じ込められたこと、そしてリセラ、エレンと出会い、命を懸けた脱出を敢行した夜の数々まで。生き延びるために、ただ地球の知識ひとつだけを盾として足掻いた、熾烈な瞬間の数々、そしてその道のりで巡り会った者たちに至るまで、すべてを。
自分が押し殺し、目を背けようとしていた感情の殻が砕け、胸に刻まれた生々しい痕跡を、包み隠さずすべて話し、ライルはどういうわけか、口出しのひとつもなく、イヒョンの告白を黙々と聞いていた。
話が深まるにつれて、こいつの瞳孔が、地震でも起きたかのように揺れた。
「それと、この文様のことだが」
ライルの視線が、容赦なく揺れながら、そこへ追って下りていった。
「この世界に来てから、ときどき妙な場所に行ってくることがあった。正確には分からんが、たぶん俺の意識だけが行ってきたようなんだ。俺はそこを、感情のホールと呼んでいる」
イヒョンはゆっくりと説明を継いでいった。
「その中には、部屋がある。大きな空間に円形に並び立った、巨大な扉の数々。それぞれの部屋で、俺が地球で失っていた感情を一つずつ向き合って取り戻すたびに」
イヒョンはゆっくりと手を伸ばし、指先で烙印をそっと押さえた。
「この胸に、文様が一片ずつ刻まれてきた」
乾いた唾を呑み込むライルの喉仏が、大きく上下した。
「悲しみ。愛。怒り。……それはもう戻ってきた。青い雨の大聖堂で、堰を切ったように押し寄せてきた悲しみと向き合い、薔薇色の図書館で大切な者への約束を胸に刻み直し、火の祭壇で俺を破壊しようとした抑えつけられた炎を鎮めた。そして先般のガビウスとの大戦で、欲望の感情を取り戻した。だからその分だけ、文様が満ちていったんだ」
イヒョンは淡々と話を締めくくった。肌を刺すような真実の重みが、空間を重々しく押さえつけた。
「まだ喜びと憎しみは戻ってきていない。だからこの文様が、まだこうして空いているんだ」
イヒョンの胸に刻まれた烙印のような文様が、インテルヌムではなく、この世界の秩序を超越した『感情のホール』によって作られたものだと知った瞬間、ライルの目が閉じられ、顔がわずかに後ろへ反った。
「……じゃあ」
ライルが慎重に口を開いた。ライルの胸と頭をいっぱいに満たしていた疑いが、疑問へと変わった。
「なんでそれが、あのペルトゥスの野郎どもの胸にあるんだよ? なんで怪物どもの胸に……なんでアニキと同じもんが刻まれてるんだって」
イヒョンはしばし沈黙してから、ゆっくりと口を開いた。
「分からん」
イヒョンは目を伏せた。
「なぜ奴らの胸に、俺と同じ文様があるのか、それは俺にもまだ分からん。俺自身、その理由を探っている途中なんだからな」
ライルの顔に、ふたたび微妙な翳りがよぎった。
イヒョンはその翳りを見逃さず、楔を打ち込むように一言を付け加えた。
「ただ、はっきりと分かっていることがある。この文様が、感情を失うことにも関わっているということ。そして、感情のない戦闘人形ペルトゥスにとって、この文様が弱点だということ」
イヒョンは顔を上げ、ライルの瞳を貫くように見つめた。
「それはほかでもないここ、プルベラで、先般あいつらと戦っている最中に、偶然突き止めたことだ」
ライルの瞳が、一瞬で見開かれた。
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