305. 露見
女中は、イヒョンとライルを2階へ向かう階段へと案内した。
「こちらでございます」
二人は女中の案内に従い、赤い絨毯の敷かれた大理石の階段を踏んで2階へ上がった。
「大浴場は2階にございます」
女中が落ち着いた、整った声で説明した。
「お食事やご休憩、そのほかの付加サービスは、すべて3階に専用の空間をご用意しております。お客様がカエラ様にお目にかかりたいとのお言伝ては、上げておきます。ひとまず2階でごゆっくり旅の疲れをお癒しくださいませ」
2階は、先ほどの1階の雑然としたロビーとは、まるで違う趣をしていた。
ルカエル商団特有の圧倒的な華やかさはそっくり残っていたが、空間全体を支配しているのは、1階とは違う完全な安定感だった。四方を埋める壁紙の配色は、落ち着いた青緑とやわらかな象牙色で調和し、目を安らがせた。
廊下のあちこちには、大理石を削り出したかのように滑らかに整えた人魚と波の彫像が、守護兵のように立っていた。
さらに珍しいのは、静かに聞こえてくる水の流れる音だった。彫像のあいだあいだ、手のひらほどの小さな噴水から水の筋が流れ出て、低く静かで落ち着いた音を、果てしなく生み出していた。
さらさら、さらさら。
一定のリズムで流れ落ちる水音は、訪れる客に安らぎを与え、鋭く張りつめた神経をほぐそうという意図で置かれたもののようだった。
『これは、ずいぶんと気を配っているようだが……』
イヒョンの後をついて上がってきたライルの目が、たちまちまん丸に見開かれた。
「うわあ、すっげえ」
ライルが首を伸ばし、あちこちをきょろきょろと見回した。なんでここに来るんだとぼやいていた姿はどこへやら、目の前に広がる豪奢さと清らかさに、すっかり見とれてしまった顔だった。
ほどよく湿り気を帯びた香ばしい空気、そして革靴の底を通してやわらかく伝わってくる床の下の熱気が、ライルの理性をまるごと麻痺させてしまったらしい。
「匂いもいいし、水音もいいし……アニキ、任務も何も、ここにいっそ一生居座って暮らしたい気になってくるんだけど。なあ、そう思わないか?」
「しっかりしろ」
イヒョンが低く小言を言ったが、彼自身も、思いもよらぬこの建物の内部を、きょろきょろと見回さずにはいられなかった。
『蒸気の配管と温水の循環路が、この床材のすぐ下を貫いている。フォルトゥナ・ヴェールのエレベーターに続いて、またもや驚かずにはいられないな。こんな仕掛けを作れる人間がいるとは』
廊下に沿って奥深くへ進むと、両側に扉が並んでいた。
女中はそのうちの一つの扉を開け、中へと案内した。そこは、こざっぱりとした個室だった。
ほのかに檜の香りが漂う部屋の中には、塵ひとつなく滑らかに磨かれた木造の衣装棚と小さな卓、そして革を張った椅子が、簡素に置かれていた。片側には、錠前がついて革で縁取りを仕上げた大きな箱が構えていた。
女中は、鉄の掛け金がついた重々しい櫃を指さした。
「貴重なお持ち物や、武器、装備は、この箱に入れて、錠前をしっかりとお掛けください。それから、衣装棚の中には備品がご用意してありますので、お使いくださいませ」
彼女は卓の上に置かれた青銅の鈴をあらためて指さし、説明を続けた。
「ご準備がお済みになりましたら、この鈴を鳴らしてくださいませ。すぐにお迎えに上がります」
女中が軽く裾を払って退がり、扉が静かに閉じた。
部屋の中には、床の下からほのかに立ちのぼる熱い湯気と、空気中に漂うハーブの香りが立ち込めていた。
衣装棚の扉を開けると、丹念に煮沸して干した純白のガウンと、滑らかな下駄が二足、きちんと揃えて並べられていた。
イヒョンは、ためらいのない慣れた手つきで外套を脱いだ。腰に佩いていた多目的ベルトポーチ、剣、そして盾を外し、木の箱に整理して収めた。
イヒョンが手早く着替えるのとは違って、ライルはどうにもぎこちなく、もじもじしていた。
いつもならべらべらとしゃべり立てたり、落ち着きなく動き回ったりするこいつが、どういうわけか自分の襟をつかんだまま、耳の先まで真っ赤に染めていた。指の節をもぞもぞと動かすさまが、ひどくぎこちなかった。
「何やってんだ? 着替えないで」
イヒョンが髪をかき上げながら、訝しげな目つきで尋ねた。ライルは自分の革のブーツの先だけを食い入るように見つめ、消え入るような声でもごもごと言った。
「いや、その……アニキ。なんかちょっと、妙な気分でさ」
イヒョンが呆れたように、片方の眉を高く持ち上げた。
「今さら何を言ってんだ。川辺じゃすっぱすっぱ脱いでたやつが、何を今になって恥ずかしがってんだよ」
「そ、川辺は四方ががばっと開けた大自然だったからだろ!」
ライルがたちまち上体を前へぐいと傾け、かっとなって声を張り上げた。ライルの顔全体が、赤蕪のように真っ赤に火照ったままだった。
「四方ががっちり塞がったこんな狭っ苦しい部屋で、野郎二人がこんな至近距離で服を脱ぐってのは……それはなんかちょっと、おかしいっての」
「まったく。呆れて物も言えん。しょうもないことばっか気にしやがって」
イヒョンが呆れ返ったように、低い失笑を漏らした。かなり分かっているつもりだったが、こんな姿はどうにも理解できないとばかりに、背を向けてガウンを取り上げ、卓の上に載せた。
「くだらんことを言ってないで、さっさと着替えろ」
イヒョンは何でもないふうにシャツの裾をつかんで、上へ脱ぎ上げた。革のベルトがほどけ、布地の擦れる摩擦音が、狭い個室の静けさを破った。汗に濡れた重いシャツを衣文掛けに掛けようとした、まさにその瞬間だった。
その姿を見ていたライルの目が見開かれ、息が止まった。吸い込んでいた空気が、喉の真ん中でそのまま止まってしまったような様子だった。
「……アニキ」
声が震えていた。
ライルの妙な反応に、イヒョンは何気なく首を巡らせた。
ライルはその場に化石のように固まっていた。こいつの瞳は焦点を失ったまま、イヒョンの胸を穴の開くほど睨みつけていた。
ライルの顔から血の気が引いていった。
イヒョンの胸のど真ん中。
そこには、イヒョンの感情が戻ってくるたびに刻まれた文様が居座っていた。
その瞬間、ライルの脳裏に、イストリルの地獄のような夜がよみがえった。
血なまぐささと絶望が立ち込めていたイストリル広場、そして自分とイヒョンめがけて襲いかかってきた怪物ども、ペルトゥス。あの戦闘人形どもの胸にも、くっきりと刻み込まれていたあの文様と、寸分たがわず同じ形だった。
形、大きさ、位置まで、完璧に同じ形だった。
「そ、その文様……!」
ライルの顎の骨が、かちかちとぶつかりはじめた。こいつの手が、本能的な生存の掟に従って、思わず腰のほうへと向かった。
がちゃっ!
ライルの震える手が、今にも抜いてイヒョンへ向けかねない勢いで、短剣の柄を握りしめていた。
ライルの目に、恐怖がこみ上げてくるのが見えた。
半ば正気を失った顔をしたライルが、イヒョンに向かって声を張り上げた。
「それ、その文様、いったい何なんだよ! なんで、なんでアニキの胸に、あの怪物の印が刻まれてんだって訊いてんだよ!」
腰から抜き放たれた短剣が、ぞっとするほど煌めいた。
イヒョンの眉間が目に見えてこわばった。
『……しまった』
油断した。胸元の文様が、インテルヌムの生体兵器であるペルトゥスと同じ形をしているという事実を、ライルに気づかれまいと、これまで一瞬たりとも神経を張りつめてきたというのに。プルベラという安全地帯にたどり着いたという安堵感が、浴場という私的な空間の安らぎと入り混じって、イヒョンの警戒心を崩してしまったのが仇となった。
「ライル。落ち着け」
イヒョンは両の手のひらをゆっくりと持ち上げた。素手を見せ、敵意のないことを証明しようとした。
「誤解するのも無理はない。分かる。だが全部説明するから。ひとまずその手、短剣から離せ」
だが、ライルは引き下がらなかった。こいつはむしろ体を低くし、いつでもイヒョンめがけて飛びかかりかねない構えを取った。
ライルの瞳が行き場を失い、容赦なく震えた。
「まさか……まさかアニキが、インテルヌムなのか? そうなのか?」
声がかすれていた。
「あの醜い怪物どもと、最初っからグルだったのか? 裏で俺を操って、ギルドと王国を欺いてたのかって訊いてんだよ!」
「違う」
イヒョンの答えは、氷のようにきっぱりとしていた。
「それは絶対に違う。俺の目をまっすぐ見ろ。落ち着いて、俺の話を聞け。包み隠さず全部話してやるから、まずはその武器を下ろせって」
理性的な論理で説き伏せようと努めたが、ライルの瞳のなかで、とうとうこみ上げてくる巨大な深淵を、イヒョンははっきりと見た。
恐怖だった。
それは単に、体が縮こまる類の怯えではなかった。ライルの内に宿る、手綱がほどけようとしているコルディウム、その破壊的な恐怖のコルディウムが、じわじわとライルの目にこみ上げてくるのが見えた。
ライルの肩が震えはじめ、短剣を握った指先から、青白い気が逆流するように広がる痙攣が、イヒョンの鋭い視界に引っかかった。
イヒョンの革の外套が掛かった衣装棚の向こうへ、冷や汗がひやりと流れ落ちた。
『このままにしておけば、暴走するかもしれない』
今この状況で、ライルを説き伏せる時間も余裕もなかった。恐怖という極限のストレスに押しつぶされ、崩壊する寸前の人間の理性は、言葉で掴み止められるものではないからだ。
今のライルに必要なのは、説得でも理性的な判断でもなかった。こいつの脳を直接強打し、恐怖で麻痺した意識を強引に別の方向へ引っさらう、たった一つの絶対的な刺激が必要だった。
イヒョンの目が忙しなく動いた。
彼の視線が留まった先は、卓の上の青銅の鈴だった。女中を呼ぶことのできる青銅の鈴、そして今この、はち切れんばかりに張りつめた空間を揺さぶることのできる唯一の道具。
イヒョンはためらわなかった。ためらいは誤判を生み、誤判は致命的な破滅を招く。その鉄則を手術室で骨の髄まで刻み込んだ、元外科医の身のこなしが、機敏に動いた。
彼はゆっくりとズボンのポケットのなかへ手を入れた。手に触れたのは、1ペラ玉の硬貨。
指で硬貨をつまんだイヒョンは、ためらうことなく鈴めがけて力いっぱい弾き飛ばした。硬貨はイヒョンの指先を滑らかに離れ、宙を切り裂いた。
カーン————!
イヒョンが投げた硬貨は青銅の鈴めがけて正確に飛んでいき、続いて、澄んだ鈴の音が大きく鳴り響いた。
ライルの全身が、落雷にでも打たれたようにびくっと、強くすくんだ。
こいつの心臓の底から、手綱をほどいて逆流しようとしていた恐怖のエネルギーが、その思いがけない物理的な鈴の音一つで、刹那、方向性を失って四方へ散り散りになった。ぴんと張りつめてはち切れる寸前だったコルディウムの暴走回路が、一時的な干渉で止まったのだ。
まさにその瞬間、静寂を破って、樫の扉の向こうから、救いのようなノックの音が聞こえてきた。
こん、こん。
「お呼びになりましたか、お客様?」
イヒョンとライルを案内した女中の、丁重でやさしい声が聞こえてくると、短剣を握っていたライルの手から、力がゆっくりと抜けていった。
イヒョンは平然とした声で答えた。
「もうほとんど済みました。装備を整理していて、鈴にぶつかったようです。申し訳ない。少しだけガウンを羽織る時間をいただけますか?」
「はい、それでは、扉の外でお待ちしております」
女のふんわりとやわらかな声が部屋の中へ染み込むと、今にもライルを呑み込んでしまいそうだった恐怖が、魔法のように無力化された。
女中の美しい声が聞こえてくると同時に、ライルを支配していた狂気じみた恐怖も、ともにゆっくりとほどけていった。傷ついた獣のように鋭く逆立っていた肩が、がくりと折れるように落ち、恐怖とためらいによる手の痙攣も、速やかにおさまっていった。
ここは華やかな大理石と香油の匂いが漂う、穏やかな大浴場であり、扉のすぐ向こうには、ありふれた日常を生きる無害な女中が立っていた。
インテルヌムの実験体であるペルトゥスたちが生み出した恐怖心が、ライルをまさに圧倒しようとした瞬間だった。イヒョンが鳴らした青銅の鈴の音と、従業員のやわらかな声が、今が平和な状況であることを気づかせてくれ、ライルのなかで恐怖心は急激に力を失って消えていった。
だが、ライルは短剣の柄から、完全には手を離さなかった。
暴走の気配は鎮まったとはいえ、裏切りと疑惑という冷たい警戒の火種は、あいかわらずライルの瞳の奥で消えぬまま、イヒョンを睨みつけていた。
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