304. テルマエ
イヒョンが無駄足を踏んだという話を聞くなり、エダンの顔がたちまち赤くなったり青くなったりと火照りだした。
「なんですって? あの門番の野郎ども、イヒョン様をそのまま追い返しただと?」
エダンが拳をぐっと握りしめると、太い筋が震える腕にぼこりと浮き出た。密輸団時代、荒れた川や海を渡り歩いて鍛えられた気質が、とっさに飛び出したのだった。
「あいつら、人を見る目もありゃしねえ、こんな間抜けな野郎どもが。俺が今すぐ行って、こってり絞め上げてやります。どこのどなたと思って門前払いなんぞしやがる? ただじゃおきませんよ、マジで!」
今にも貿易連合の建物へ引き返しかねない勢いだった。
イヒョンは興奮したエダンの目をしばし見つめてから、静かに手を伸ばし、その頑丈な腕を掴んで引き止めた。
「大丈夫ですよ、エダン。言伝ては頼んでおきましたから」
イヒョンが低く笑って首を振った。
「じきに連絡が来ます。あの者たちが悪いわけでもありません。武器を提げた見知らぬ男が隊長を訪ねてきたというんですから、警戒するのが当然でしょう」
エダンはあいかわらず荒く鼻息を立てていたが、イヒョンの落ち着いた顔を前にすると、ぴんと張りつめていた肩の緊張が少しずつほどけ、毒気が抜けていった。
「それより」
イヒョンは自分の外套の裾を指先でぽんぽんと払った。ブレサウンからプルベラに至るまで、幾日も険しい道の上で溜め込んだむっとする土埃が、橙色の陽射しのなかへぱっと舞い上がった。
「なりがこの有様なので、少し洗って休みたいんですよ。ざまはひどいものでしてね」
そこでようやくエダンが、しまったという顔で自分の額をぴしゃりと叩いた。周りの通行人の視線が一瞬そちらへ集まったが、彼は意に介さず、そわそわと落ち着かなかった。
「いやはや、俺が気が利かないもので。お忙しい方を引き止めて、いきなり道端で何をやってるんだか」
彼はきまり悪そうに笑い、赤らんだ首の後ろを掻いた。
「どちらにお泊まりで? 隊長との接触の知らせが来しだい、あとで俺がすぐにお訪ねしますよ」
イヒョンは、ライルとともに泊まっている風の丘近くの広場の宿を教えた。エダンは何度も腰を折ってぺこぺこと頭を下げ、じきにお訪ねしますと約束すると、荷が山のように積まれた埠頭のほうへ、ちょこちょことした足取りで戻っていった。
遠ざかるエダンの後ろ姿を見つめていたイヒョンが、革の外套をかき合わせた。
湿って冷ややかな湖の風が、埠頭から吹きつけてきていた。以前からかなり強力な情報網を持っていたベルティモだった。今のベルティモならば、はるかに内密な情報を握っているに違いないという気がした。詳しいことは分からずとも、ベルティモの情報網が動きはじめれば、北西部の領地のおおよその情勢を掴むのに、大きな問題はなさそうだった。
王都で会ったイブロモン子爵の言葉が思い浮かんだ。事が起きる前には必ず物流が先に動く、そして帳簿は嘘をつかない、と言っていたあの言葉が。
風の丘亭へと足を向けてほどなく、細く目を開けて周囲をうかがっていたライルが、ぴたりと足を止めた。
「アニキ、あれはまた何だ? 周りの建物とはちょっと違うぞ? 神殿でもねえしな」
ライルが顎でしゃくって示した方向には、プルベラ特有の灰色の石造りの建物のあいだで、異質な建築物がひとつ、巨大な図体を誇るように建っていた。外形そのものは、埠頭の近くでよく見かける重々しい大型倉庫の形をしていた。
だが、その壁面を飾っているのは、無骨な木材や粗い石材を使った雑なものではなかった。宗教神殿や大都城の最高級の大邸宅でしか使われないような、華やかなステンドグラスの窓が、外壁に沿ってびっしりと嵌め込まれていた。
黄昏へと傾いていく午後のやわらかな陽射しが、その五色の硝子を通り抜けるたび、じっとりと濡れた路地裏の地面や花崗岩の壁面の上に、宝石をまき散らしたような色とりどりで奇妙な光の紋が、艶めかしく揺らめいた。
それだけではなかった。屋根の片隅には、周りのどの職人工房でも見られないほど異常に太く高い煙突がそびえ立ち、その先からは真冬の霜のように白い蒸気が果てしなく噴き出して、空を覆っていた。
『……外観は巨大倉庫なのに、上流階級の色硝子を使い、大型の煙突からは蒸気が立ちのぼる、か。周りとまるで釣り合わない建物だな』
地球で数多の最先端の医療プラントや工場の設計を取りまとめてきたイヒョンは、この奇怪な建築物の用途がいったい何なのか、気になってきた。
1年前まではあんな建物はなかった。おそらく埠頭を再建する際に、新たに造られたものに違いなかった。しかも、エペリアに着いてから見てきたいくつもの都市でも、こんな建物は見たことがなかった。
「さあな。俺もあんな形の建物は初めて見るな」
イヒョンが目を細めた。
「行ってみよう」
「また?」
ライルが肩をがっくりと落とし、呻き声を吐き出した。
「アニキ、俺たち確か、冷えたビールでも一杯やりに行くとこじゃなかったか? 俺はさっきから喉がからからに焼けついて、今にも息が絶えそうなんだって」
ライルはぼやいたが、イヒョンはすでにきっぱりとした足取りで、石造りの建物の正面へと進んでいた。
「でも、気にならないか? 1年前にはなかった建物だ。しかもお前の言うとおり、周りとまるで釣り合わないだろ」
「いや、俺はただ目に入ったから訊いてみただけだって。行ってみたいなんて思っちゃいないんだけど?」
ライルのぼやきを背に、イヒョンは奇妙な建物へと足を運んだ。
重々しく閉ざされた大門の上部、石板を深く彫り込んで精緻に刻みつけた華やかな浮き彫りの文字が、イヒョンの視界に入ってきた。
『Thermae Ordini Magni』
『偉大なるオルディンの大浴場、か。ここもオルディンを称えるために造られた場所なのか? だが、よりによって浴場とはな。いくら再建されたとはいえ、ここにこんな大型浴場が稼働しているとは、驚くばかりだ』
イヒョンは浴場がどんな場所なのか、気になって仕方がなかった。
浴場。
地球でも幼い頃を除けば、ほとんど行ったことのない場所だった。たまに契約のためにゴルフを打ってからサウナに立ち寄ることはあったが、まともな浴場で湯につかったのは20年以上も前のことだったので、おのずと好奇心が湧いた。
そのうえ、エペリアに来て地球の香りを感じられる場所なのではないか、という気もした。
「入ってみよう」
「いや、いったい何をする場所かも分からずに、ずかずか入るってのか? アニキ! 建物をよく見ろよ。貿易連合の建物より派手じゃんか。これはまるで……あれだよ、あれ? フォルトゥナ・ヴェールみたいだ」
「お前の言うとおりだな。何やら珍しい建物だとは思っていたが、フォルトゥナ・ヴェールみたいな感じがする」
「不安なんだけど……」
「不安がることはない。俺の知るかぎり、ここにはそんな賭博場はない」
「アニキも、まったく……世間ってものを知らないな。賭博場のない街なんてないんだぜ」
「そうだろうな。だが少なくとも、フォルトゥナ・ヴェールみたいな狂乱の賭博場はないはずだ」
ライルが乱れた後ろ髪を掻きながらぼやいた。だがいつものように、イヒョンの強情を負かすことはできず、結局その広い背中の後ろにぴたりとくっついて、建物へと向かった。
イヒョンとライルが石段を上り、建物の扉の前に歩み寄ると、入口を守っていた門番が二人、丁重に挨拶をして扉を開けた。
扉が開いた瞬間、埠頭とはまるで違う雰囲気が、二人の感覚をふっと捉えた。
温かく、ほどよい湿り気の空気が、顔をやわらかく包み込んだ。その濃い霧のなかに、ほのかなハーブの香りと、鼻先に馴染んだ石鹸の匂いが混じっていた。
イヒョンの眉がわずかに持ち上がった。
『この匂いは……』
内部は、外から見当をつけていたよりもはるかに広く、はるかに華やかだった。
床は滑らかに磨き上げた大理石で、その上に生きて動くかのような波と、つぶ貝や魚などを描いたモザイクが長く続いていた。天井の高いところの色硝子の窓から降りそそぐ多彩な光が、床に青や赤の紋を、ぞっとするほど鮮やかに映し出していた。
『……これは、ローマのテルメ(テルマエ)じゃないか』
イヒョンは内心で舌を巻いた。あの太い煙突、床の下へ熱気を流し込んで床全体を温めるハイポコースト方式。
下水と給水を精密に分けた錬鉄の配管。これをそっくりそのまま地球に移し替えても、そこらの高級浴場を凌ぐ水準だった。
1階は広い接客室だった。
こざっぱりとした服を着た使用人たちが慌ただしく行き交い、片側には高価なビロードで装われたふかふかの長椅子を並べた休憩室が見えた。湯上がりの客たちがそこにけだるげに寝そべり、薄い盃に注がれた茶をちびちびとすすっていた。
その向こうには、湯気の曇った硝子扉の内側に便益施設が、さらにその横には香ばしい油の匂いが漂ってくる食堂が構えていた。
異世界の楽園のように、欺瞞めいた活気に満ちていた。
やさしい声の女中が、ちょこちょことした足取りで近づいてきた。
「いらっしゃいませ。湯におつかりになりますか?」
彼女が丁重に腰をかがめ、奥のほうを手で示して案内した。
「お二人さまですか?」
イヒョンはふと訝しく思った。1年前、この都市には確かに、こんな巨大な施設は存在しなかった。
「失礼ですが……」
イヒョンが声を潜めて尋ねた。
「1年前に来たときには、こんな場所はなかったんですがね。これはいったい、どうしてできたんですか?」
女中がぱっと明るく笑った。
「ああ、さようでございますか。こちらへおいでいただけますか?」
彼女の指先が向かった先は、接客室の片隅に設けられた小さな部屋だった。
女中がイヒョンとライルを連れていった先は、浴場の内部とはおよそ釣り合わない、奇妙な部屋だった。
その部屋は、まるで由緒ある博物館のようだった。ほのかにマホガニーの香りが漂う部屋の中、壁面に沿って精緻に加工された硝子の陳列棚が長く並んでいた。
その透き通った硝子の内側には、プルベラの栄光ある過去にして傷が、そっと展示されていた。手垢のついてつやつやと光る青銅の四分儀に、色あせた航海地図、古代の言語がびっしりと収められた羊皮紙の文書、そして家門の印章が鋭く刻まれた銀の指輪まで。
イヒョンの黒い瞳が揺れた。
『これは……珊瑚館で見たものじゃないか』
かつてプルベラの戦後再建を率いた偉大なる豪商、オルディンの遺品だった。ルカエル商団の珊瑚館に保存されていた彼の生涯が、どうしてこの雄壮な大浴場の待合室の片隅に、そっくりそのまま展示されているのか?
「この大浴場は、オルディン団長どのの婿でいらっしゃるルカエル様が設計してお造りになった場所でございます。貿易連合の発足以降、プルベラは大陸のあちこちから多くの商人が訪れる場所へと変わりました。それにお応えするため、商人の方々や貴族、そして旅人の方々のためにお造りになった場所でございます。そして、プルベラの礎を築かれたオルディン団長どのを称えるため、ここにその記録を保管しております展示室でございます。ここに、プルベラの歴史が記録されているのですよ」
展示物を見て回っていたイヒョンは、驚いた表情で女中を振り返った。
「この浴場……もしや、ルカエル団長どのが直々に運営なさっている場所なんですか?」
女中が余所者の突拍子もない問いに、わずかに首をかしげながら、やさしく笑った。
「はい、さようでございます。オルディン団長どのの婿でいらっしゃり、以前はルカエル商団の団長でいらっしゃって、現在は貿易連合社の委員長でいらっしゃるルカエル様が、運営なさっております」
イヒョンは胸の奥深くから、低い失笑を呑み込んだ。
この華やかさ、やはりルカエルらしかった。
「もしや、ルカエル団長どのに今お目にかかることはできますか? お体の具合はいかがでしょう」
「団長どのは、ただ今、貿易連合へお出かけになっております。こちらの大浴場の細かな運営と管理は、団長どのの奥方でいらっしゃるカエラ様が、一切合切お引き受けになっておられますの」
カエラ。
オルディンの実の娘にして、ルカエル商団の女主人。
「では、カエラ様にお目にかかることはできますか?」
イヒョンが固い決意のこもった口ぶりで、自分の名前をはっきりと言い伝えた。
「コランから来たソ・イヒョンだとお伝えください。長いお時間は要りません。ほんの少しで結構です。ご挨拶を申し上げたいのですよ」
「団長どののお知り合いでいらっしゃるのですね。かしこまりました。奥方様にお伝えいたします」
女中がふたたび丁重に頭を下げて答えた。
「お返事が参りますあいだ、まずは温かい湯船で旅の疲れをお癒しになりませんか? ご用意した部屋へご案内いたします」
イヒョンとライルは互いに顔を見合わせた。
「ってか、そもそも浴場って何なんだ?」
ライルが、かぐわしい野茨とハーブの香りが入り混じった空気に向かって、鼻をくんくんと鳴らした。彼の顔の上を、心地よいけだるさがかすめた。
「この、鼻がすーっと通るいい香りはまた何なんだ。ああ、匂いだけはマジでたまらなくいいんだけど」
「ただ全身を湯に浸して、きれいに洗い流す場所だ」
思いもよらぬ施設だったので、イヒョンもまた、内部がどうなっているのか気になってきた。
「俺もこの浴場という場所が、どんなふうに運営されてるのか気になるな。どうせ宿へ行っても、小さな水桶で体を洗うだけだからな。せっかく来たんだ、洗ってから行こう」
イヒョンが女中に、湯につかりたいと願い出た。
ライルが待ってましたとばかりに口もとを尖らせた。
「ほら見ろ、結局さっぱり垢を落としてぴかぴかにするってことじゃんか。こんなの、湖のほとりでやったっていいのにさ。俺たちのビールと豚の丸焼きは、また後回しにされちまったし。でもまあ、なんだ……匂いも雰囲気もいいし、今回だけは大目に見てやるよ」
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