303. 再建
プルベラの空気は、肌に触れる感覚からしてブレサウンとはまるで違っていた。
全身を凍えさせるブレサウンの乾いた冷気の代わりに、ここには湿り気を帯びた温かな湖の匂いが満ちていた。あちこちの工房から漂ってくる、挽きたての木材のぴりっとしたタールの香りも一緒に押し寄せてきた。
広場を正面に見据えた宿は、灰白色のアーチが際立つ3階建ての建物だった。最近になって補修工事を終えたばかりなのか、新しく塗られた表面からは、うっすらとタールの匂いがにじんでいた。
イヒョンは木の卓の上に、ずしりと重い革の荷をほどいた。そして古びた窓の縁に片腕を掛けたまま、黄昏の色が降りはじめた広場を、長いあいだ静かに見おろした。
イヒョンの黒い瞳の上に、活気を取り戻した都市のパノラマが重なった。
『……ここが、あのプルベラだというのか……』
わずか1年前までは、半分が無残に崩れ落ちていた悲劇の都市。
インテルヌムのペルトゥス軍団が街路を容赦なく踏みにじり、血で染めていた夜があった。
奴らを一網打尽にするため、下水道をまるごと爆発させて半ば消え去った、あの死の都市。
だが、村の人々とペルトゥスの死体が転がっていた惨たらしい残骸の上に、今ではほのかに青みを帯びた新しい石畳が、きちんと堅固に敷きつめられていた。人間の忍耐と生存力が作り上げた、驚くべき再建の現場だった。
商船が森のようにびっしりと並んだ埠頭の向こうでは、重い鉄の滑車が動いてはひっきりなしに騒音を立て、その下では穀物や塩の袋、香辛料の袋を荷揚げする人夫たちの手つきと足取りが、休む間もなく忙しく動きまわっていた。
埠頭の広場には、カモメの鳴き声と、値切ろうとする人々、客を呼び込む商人たちの声が絶え間なく響き、広場からつながる工房通りからは、職人たちの槌を打つ音と、馬車引きたちが駆り立てる荷車の車輪が床板を突きつく、がたごとという振動が休みなく聞こえてきた。
都市は、心臓が脈打つように生きて動いていた。
その生々しい息吹を前にすると、イヒョンの胸の片隅が、鈍い鉄の塊で打たれたように重々しく押さえつけられてきた。
「なにをそんなに窓の外ばっか見てんだよ?」
洗濯したてで香ばしい匂いのするベッドのマットレスの上に、ごろんと寝転んで伸びをしていたライルが尋ねた。
「こんな華やかでいい街に来て、なんでまた顔が地獄の門でも見たみたいに固まってんだよ。どうせここで何日も休めないまま、またあの寒い北へ行かなきゃならないんだしさ。地獄なんて、そっちで嫌ってほど見ることになるっての」
ライルが唇を尖らせてぶつぶつこぼした。南部の温かい地域の出身であるライルにとって、寒いところは本当に行きたくない場所だった。
イヒョンは窓の縁から、ゆっくりと腕を離した。
「……出るぞ」
「どこへ行こうってんだ?」
ライルががばっと体を起こした。
「俺たち、たった今入ってきたばっかだって分かってる? しかも俺、今ベッドに寝転がったとこなんだよ。脚にまだ感覚も全部は戻ってきてない気がするのに」
「俺の友人に会わなきゃならん」
「あ、そうだ。アニキ、ここでペルトゥスどもと戦いがあったって言ってたよな。そのとき言ってた友達か?」
「まあ、そんなところだ」
「友達に会うのに、俺が行ってもいいのか? 一人で行くほうがいいんじゃないのか?」
「旧交を温めに行くわけじゃないからな。あの人なら、北西部の地域についてもよく知っているはずだ」
「あー……面倒くさいなあ」
「前に言ってたあのうまい酒も、その友人が教えてくれたものなんだがな」
ライルはベッドからがばっと跳ね起きた。
「人の話は最後まで聞けよ。面倒くさいけど、それでも行くって言おうとしてたとこだよ」
「ああ、そうだろうな」
イヒョンは予想していたとばかりに、ライルを見て笑った。
「ほんとだってば!」
「ああ。分かったよ」
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かつて伯爵代理ニルバスが君臨し、プルベラの膏血を搾り取っていた強欲の公館は、今や完全に別の顔をして建っていた。
インテルヌムの怪物どもが街路を踏みにじった、あの惨たらしい夜、炎に黒く焦げついていた外壁は、跡形もなくきれいに補修されていた。象牙色の石材で装われた公館の雄壮な入口には、エセンビア伯爵所属であることを示す制服を厳格に揃えて着込んだ警備たちが、鉄の槍を立てたまま、いかめしい気勢を放っていた。
彼らの頭上に掲げられた重々しい扁額には、太い文言が刻まれていた。
Foedus Mercatorum, Equitas Alliance
『貿易連合、エクィタス同盟か』
15年もの間続いていたルカエルとエスベロの反目による分裂、その古い誤解を解き、二つの商団をふたたび合わせて作り上げた商人連合体だった。
イヒョンが建物の階段を上ると、入口を守っていた警備が槍でイヒョンの前を遮った。
「何のご用ですか?」
「ベルティモ隊長に会いに来ました」
イヒョンは落ち着いた声で答えた。
警備は、みすぼらしいイヒョンとライルの身なりを上から下まで舐めるように見回した。
険しい山道を3日も掻き分けてきたせいで白っぽい埃がうっすらと積もった外套、その内に見える汗と埃に塗れたシャツ、ところどころ擦り切れたズボン、そして腰に佩いた剣と多目的ベルトポーチまで、兵士の目には二人へ向けた不信と警戒心が瞬く間にこみ上げてきた。
「どのようなご用件で?」
「個人的な用向きです」
警備が傲慢に鼻先を軽く持ち上げ、槍の柄を握り直した。
「当然、お約束はしておられますよね?」
「いいえ。約束はしていません」
「貿易連合社の護衛と保安を統括なさるベルティモ兵団長どのは、そんなに暇なお方ではありません。正式なお約束か招待状がないかぎり、みだりにお会いできるお方ではないということです」
徹底した門前払いだった。
その対峙の様子を見守っていたライルが、横から肘でイヒョンの脇腹をつんと突いた。こいつの口角には、特有の散漫でいたずらっぽい笑みが憎らしく引っかかっていた。
「アニキ。そのご大層な隊長どのと、ほんとにマジで仲がいいのか?」
ライルが声を潜め、警備たちに聞こえないよう、からかうように囁いた。
「俺の目には今、まるっきり行商人扱いされて追い返される寸前に見えるんだけど」
イヒョンはこいつの幼稚な挑発に応じる代わりに、ふっと短い笑いを漏らした。そうして、目の前の警備に向かって軽く肩をすくめてみせた。
「では、ひとつお願いしてもよろしいでしょうか?」
イヒョンは自分の名前と、現在プルベラ西の街道に取った風の丘亭という宿の名を、はっきりと言い伝えた。
「ソ・イヒョンが風の丘亭に泊まっていると、それだけ伝えてください。それで十分です」
警備兵は、イヒョンの確信に満ちた面持ちを見据えた。目にはあいかわらず、この疑わしい余所者を信用できないという嘲りが満ちていたが、あえてここで話を長引かせる必要もないと感じたのか、こころよくイヒョンの頼みに応じた。
「……お伝えは、しておきましょう」
公館を背にして踵を返す西の街道の石畳の上で、ライルが後頭部を掻きながら呟いた。
「あれあれ、ぜってえ伝えもしなさそうだけど? 伝えたところで、そのベルティモ隊長とかいう人、来るのか? あの警備兵の態度を見るに、けっこうお偉いさんっぽいけど」
「来るさ」
イヒョンはきっぱりと答えた。
「ひとまず宿の部屋へ戻って待とう。まずは腹も満たして、体も洗わなきゃな。さっき警備兵が俺たちの身なりを見てたが、自分でもちょっと薄汚いとは思うしな」
ライルはイヒョンの横顔を長いあいだまじまじと見つめた。その微塵の動揺もない徹底した確信が、どうにも信じられないとばかりに舌打ちをしていたが、やがて込み入った考えは性に合わないというように、手をひらひらと振った。
「ええい、知るか。来ようが来まいが勝手にするだろ。それよりアニキ、冷えたビールでも一杯やりに行こうぜ!」
ライルの目がたちまち輝きはじめた。
「ここは物流が連合になって、全大陸の物資がいちばん豊富だって評判のプルベラなんだろ! こんな街の居酒屋をただ素通りするなんて罪だぜ、罪!」
イヒョンはしばらく、ライルを情けないという表情で眺めた。だが、こいつのからからに乾いて裂けた唇と、疲れが少なからず溜まった目元を見ると、少しくらい緊張をほぐしてもかまわないだろうという気になった。
『……まあ、休みなく駆けどおしだったからな』
ブレサウンの暗い地下牢から、タルコスの過酷な吹雪、ドルメアの空っぽの村落を経てプルベラに至るまで、一瞬たりとも心安らかに休めぬまま駆け抜けてきた道のりだった。
今日ばかりは、肉汁のしたたる肉と冷えたビールで疲れた体を労わってやるのも、決して悪くない選択だという気がした。
「……そうするか」
イヒョンが頷くと、ライルはたちまち浮かれて、いそいそと先に立って歩きだした。
「さっすがアニキ! 俺、さっきそこの路地を通ってくるとき、とんでもねえ居酒屋を見つけといたんだよ。看板に脂ののった丸豚が一頭まるごと、こんがりきつね色に焼かれてる絵がさ……看板を見ただけでも、あそこは間違いなく名店だって。俺の勘がそう言ってるんだ」
イヒョンとライルが広場のほうへ足を運びかけた、そのときだった。
背後から、群衆の喧騒を突き抜けて、聞き覚えのある声がイヒョンを引き止めた。
「イヒョン様! イヒョン様!」
イヒョンは足を止めて振り返った。人々が忙しなく行き交う広場の向こうから、一人の男が息が喉元まで込み上げたように、宙へ片手を激しく振りながら、荒い人波を掻き分けてこちらへ向かって走ってきていた。
イヒョンは目を細めた。橙色の黄昏が斜めに差し込む街路の明暗のせいで、遠くから走ってくる男の顔が、ぼんやりと潰れて見えた。
『誰だ?』
あの鈍く響く声、どこかで聞いたことのある声だった。
走ってきた男が、ほんの数歩手前まで至ってようやく、膝に手をついて荒い息を切らした。肩が激しく揺れるたび、せわしない呼吸音が空気中へ散っていった。
やがて男が顔を上げると、見慣れた顔がくっきりと露わになった。
エダンだった。
「はあっ……はあっ……やっぱり、ま、間違いない。本物のイヒョン様だ」
エダンが胸を撫でおろしながら、顔いっぱいに安堵と喜びの入り混じった笑いをはじけさせた。彼の赤銅色の額の上にびっしりと浮かんだ汗の玉が、黄昏の光を受けててらてらと光った。
「俺、俺の見間違いかと思いました。埠頭の近くでちらっとすれ違ったんですけど、いやあ、まさかと思いつつ、夢中で走ってきたんですよ。ははは。お元気でしたか?」
イヒョンの目もとがやわらかくほどけ、微笑みが自然と浮かび上がった。
「エダン。……お久しぶりです」
ライルが、こわばっていた脚をそろりと動かしながら、二人を訝しげな目で交互に見やった。
「アニキ、知り合いなのか?」
「昔、俺が世話になった方だ。ベルティモを紹介してくれた人だよ」
イヒョンは、自分たちを助けてくれた男の来歴を短く紹介した。
エダンはそこでようやく、イヒョンのかたわらに立つライルの存在に気づいたのか、腰をかがめて丁重に目礼した。そうして、ふたたびイヒョンへと視線を戻した。こみ上げる感情を抑えきれないのか、エダンの顔からはなかなか笑みが消えなかった。
「世話だなんて、とんでもない。世話になったのは俺のほうです。いや、世話なんて言葉じゃ足りません。俺の恩人でいらっしゃいますよ」
「奥さんとお子さんは、元気に育っていますか? もう子どももずいぶん大きくなったでしょうね」
「おかげさまで、二人とも健やかに過ごしております。サルエルは一日ごとにぐんぐん大きくなってますよ。ははは。ところで、ベルティモ隊長にはお会いになれましたか?」
「それが、今は隊長どのもお忙しいご様子でしてね。ひとまず警備兵には言伝てをしておきました」
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