302. 指令
宿の部屋の中に、じっとりと湿気を吸い込んだ、かび臭いむっとする匂いがやけに重々しく漂っていた。
卓の上には、ついさっき届いた旅人ギルド本部の封緘された封筒がぽつんと置かれていた。油ランプの危うげに揺らめく火を受けて、分厚い赤い蝋の印章が、まるで固まりはじめた血のように赤黒い光を放っていた。
イヒョンが封筒を慎重に破り開けると、丈夫な上質紙の裂ける音が部屋の中の静寂を鋭く切り裂き、細かく震えていたライルの神経の糸をぴりっと弾いた。
ライルはベッドの隅にかろうじて尻を引っかけるように腰かけたまま、いらだたしげに右脚をかたかたと貧乏ゆすりしていた。今回ばかりはこいつの瞳も刃のように細く狭められ、イヒョンの動く指先を執拗に追っていた。
「そこ、なんて書いてあるんだ? アニキ、今度は本部がまたどんな厄介で奇っ怪なことをやらせようってんだ?」
ライルがからからに乾いた唾をごくりと呑み込みながら訊いた。
イヒョンはすぐには答えず、ただランプの灯りの下、崩し字の文字を一行ずつ黙々となぞり読んでいくだけだった。
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旅 人 ギ ル ド 本 部 ・ 指 令
宛先:セルティウム等級受験者 ソ・イヒョン・ライル
本指令は一読後ただちに破棄せよ。
第1条 — 既存の指令をこの時刻をもって全面的に破棄する。追加の調査は不要であり、受験者は関連任務の一切をただちに中止せよ。
第2条 — 北部情勢:大陸最北端の禁じられた地にて、巨大な力が蠢動している。任務遂行地域は北西辺境である。
第3条 — 任務対象:受験者は次の北西部の四領地を極秘裏に巡回せよ。
・バルネリオン公爵領傘下 デュセルバイン侯爵領
・バルネリオン公爵領傘下 ベルズ伯爵領
・ルベンハルト公爵領傘下 フォルカレン伯爵領
・国王直属封臣領 ペンダーマーク子爵領
第4条 — 任務の実体:国王陛下はすでに当該辺境の領主たちに、密かに軍備増強の命令を下されている。受験者の実質的な任務は次のとおりである。
命令が実際に履行されているか、兵力と要衝の整備がどこまで進捗しているかを直接確認せよ。あわせて、辺境の領主のうち、国王陛下を裏切りインテルヌムと手を結ぶ可能性のある者がいるならば、その反逆の痕跡を探り出せ。
第5条 — 隠密遂行:受験者は任務が終わるまで、身分を徹底して隠さねばならない。
第6条 — すべての報告は監督官を通じて報告するものとする。
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「今度は北西部か」
その言葉がイヒョンの唇の間から低く漏れ出た。
「北西部? そこって禁じられた地といちばん近い国境付近じゃんか!」
ライルの貧乏ゆすりが嘘のようにぴたりと止まった。真っ白に血の気の引いた顔色だけで、こいつがどんな感情を抱いているのか透けて見えるようだった。
「領地をひとつずつ回りながら……監察しろ、とさ」
イヒョンは微塵の揺らぎもなく、羊皮紙の指令書をライルに手渡した。
ライルは震える手で指令書を受け取り、文字を読み下していった。こいつの瞳が左右へ容赦なく転がっていく。
「こ、これを俺たちにいったいどうしろってんだよ? いくら上級旅人になるための試験だからって、本部が俺たちの命を担保に詐欺を働いてるに決まってる!」
「ギルド本部も、それに王政も、インテルヌムの危険性を深刻に受け止めているようだな」
イヒョンは頬杖をつきながら、卓の上の灯火を見つめた。
「考えるも何も、正式な監察官の身分でもなけりゃ、身分すらまともに証明できない一介の受験者の分際で、貴族領主どもの機密を探り出せだと! 尻尾を掴まれた瞬間、死刑なんだぞ!」
ライルの顔から、軽くていたずらっぽい笑みが跡形もなく消え去った。
「お前の言うとおり、はるかに厄介で骨の折れる仕事なのは間違いない」
「……アニキ」
ライルの声が、地獄の底から響くように低く重々しく沈み込んだ。
「これって、一言で言えば……機密を盗むスパイじゃんか」
「似たようなもんだ。だが、単なる情報収集や諜報活動で終わる話じゃなさそうだ」
イヒョンは相変わらず素っ気なかった。
「俺はいっそ大陸を歩き回って剣を振るったり、森で血を流しながら盗賊どもと正面切って戦うほうが、百倍は性に合うっての! これって、下手すりゃ貴族の近衛隊やお偉方に見つかった瞬間、首から飛ぶ話じゃんか!」
ライルが髪をかきむしりながら、荒く息を切らした。
イヒョンはこいつの大騒ぎを無視して、無造作に応じた。
「見つからなけりゃいい」
「……この世でアニキのその素っ気ない眼差しと、その台詞がいちばん怖いんだよ、マジで」
ライルが額を押さえ、深いため息を吐き出した。
「試験の任務が変わった以上、本部だってただ手をこまねいて見てるだけじゃないだろうな」
イヒョンの低い声が、宿の部屋の空気を低く沈めた。揺らめく油ランプの灯りが、彼の無表情な顔の上に長い影を落とした。
「ライサさんがブレサウンを発つ前に言っていたことがすべて事実なら、本部でもある程度は地上勢力を支援するか、以前よりはるかに積極的な介入に乗り出すはずだ。お前の言うとおり、これはもう、ただ等級を付けようっていう単純な試験の域を、とっくにはるかに超えた話なんだからな」
「積極的な介入なんて、どこがだよ……」
ライルが古びたベッドのマットレスをかきむしりながら、ぶつぶつこぼした。
「それに、ここの第6条を見ろ。途中で領地を通過するたびに封緘報告書を作成することになってるが、以前の試験とはまるで違う。正式な監察官のラインを通さず、じかに俺たちを専任で担当する監督官へ直接接触して報告を上げることになってる」
「そうだな。確かに」
ライルが、イヒョンの指さした指令書の下段を食い入るように見つめた。
「この言葉の意味は、結局ひとつだ。あのベールに包まれた監督官とやらが、俺たちに必ず自分から直接接触してくるっていう意味だ。もう分かっちゃいたが、監督官が俺たちの後をずっと追ってきて、常に確かな味方が俺たちの後ろにいるって意味でもある」
「アニキ」
ライルが急に貧乏ゆすりを止め、ぼんやりと虚空を見つめた。
「俺たち、いつからこんなでかい大陸の大騒動に、自分から飛び込むことになってたんだ?」
「そうじゃないだろ」
イヒョンがきっぱりと線を引いた。
「それに、いつだってその監督官がそばにいなくて、俺たちがあの死ぬような苦労をしたか? ただ黙って見てるだけだったから、問題がはじけたんだろうが」
「……それはまた、お前の言うことが正確に当たってるな」
ライルが力ない笑いを漏らし、両手で顔をごしごしと拭った。
「それでも上級試験を続けて受けたいなら、俺たちに打つ手はなさそうだけどな?」
「あー……ほんとにまいるぜ。俺はなんでいつも、何かやろうとするたびに、こんな妙なのばっかり選んで引き当てるんだよ」
ライルがベッドの上に完全に大の字にひっくり返った。
「考えてもみろ。この試験を完璧に通過して北部の戦乱を食い止めれば、お前があれほど毎晩わめいていた莫大な富と名誉が、どっと降ってくるんじゃないか?」
「アニキ……俺がもともと夢見てた暮らしって、まさにそれなんだよ。貴族どもの宴に招かれて、金貨の袋をベッドの下に積み上げる暮らし。なのに……今はそんな華やかな望みすら、いっそ投げ出しちまいたくなるっての」
「で、本当に全部投げ出すのか?」
「……いや。それはしないけど……」
ライルが消え入るような声でもごもごと呟いた。
「なら、俺たちに選択の余地はないな」
「あはは……ほんと、うんざりするほど嫌だぜ、マジで」
「それでも、俺の頭の中に考えは全部あるから、そう心配するな」
イヒョンが平穏を通り越して確信に近い口ぶりで答えると、ライルが首をかしげながら体を起こした。
「アニキってほんと不思議だよな。普通の人間なら、こんなむちゃくちゃな無理難題の任務を受けたら、あらゆる罵詈雑言をまくし立てて文句のひとつも言いそうなもんなのに、俺がアニキと一緒に旅するようになってから、アニキが口に出して文句を言うのを、ただの一度も見たことがないんだよなあ」
「俺には、どうしても最高位の上級旅人にならなきゃならない絶対的な理由があるんでな」
「それ、なんなんだよ? 俺にだけこっそり言ってみろよ、アニキ」
ライルがいやらしく目を光らせながら近づいてきた。
「秘密だ」
「ちぇっ、ご立派なこって、ほんと」
ライルがぷいと寝返りを打って鼻を鳴らすと、イヒョンはこいつから返してもらった指令書をふたたび広げて調べた。ざらついた紙のかさついた質感が指先に伝わってくる。
イヒョンはランプの下に沈み込んだ残酷な文言を、ひとつずつ、まるでメスで切開した患部を検分するように、執拗に噛みしめて読み下していった。
任務の本質は明確だった。だが、その裏側をなぞればなぞるほど、中央本部と王政の首脳部でさえ、北部の禁じられた地から広がってくるこの未知の脅威をどう相手取ればいいのか、糸口を掴めずに彷徨っているという証左として読み取れた。
『内部の結束。裏切り者の炙り出し。密かな戦争準備』
イヒョンの冷徹な脳裏のなかで、断片化した情報が歯車のように噛み合いながら再構成された。これは単なる国境監察でも、一方的な諜報活動でもなかった。インテルヌムという正体不明の相手に対し、国家単位の巨大な物理的防衛線を、領主たちに知られぬまま水面下から凄絶に構築しようとする計画だった。
深刻な面持ちで、赤い蝋の印章の下に刻まれた行間を一条ずつなぞり読むイヒョンに向かって、ライルがベッドをきしませながら、こっそりと顔を突き出してきた。
「まだ調べることがあるのか?」
いつも散漫に揺れていたライルの視線が、今日ばかりは、石のように固くこわばったイヒョンの眉間に触れて止まった。
「これは……中央でも確信がないってことだ」
「え?」
ライルの瞳が目に見えて大きくなった。
「こんな作戦を打つということ自体が、相手が正確に何者なのか、またどんなやり方で攻めてくるのか、まるで糸口を掴めていないということを物語ってもいる。敵について分かっていることがほとんどないというのが、この指令書に滲み出ている。だからこそ、こんな漠然とした任務を、俺たちみたいな昇級試験の受験者に密かに投げてよこしたんだろうな」
ライルが乾いた唾をごくりと呑み込んだ。
「つまり俺たちが……あの偉大な国王も、ギルド本部も知らない未知の何かを、辺境で代わりに探り出さなきゃならないってことですか?」
「そういうことだ。監察は表向きの試験の内容にすぎない。俺たちが監察のために領地を巡り歩くうちに裏切りの兆候を見つけ出したなら、自然とインテルヌムとの接点が生まれる。おそらく本部はそれを狙っているのかもしれん。インテルヌムに接近しろと大っぴらに命じるのは不可能な任務だから、ひとまず監察を表向きの任務として与えておいて、そこで得られるインテルヌムに関する情報を取りまとめるのが、本当の第二の目的だろうな」
イヒョンは指先で羊皮紙をゆっくりと折りたたんだ。
「イカれてる」
ライルがどさっと音を立てて額を押さえ、ベッドのマットレスの上に稲妻のように伸びた。
「俺はほんとに、ほんとにこの過酷な大陸を巡りながら、ただ可愛い女でも眺めて、これ見よがしにキメて格好よく生きたかっただけなんだって! なのに、なんでしょっちゅうこんな国家的なでかい陰謀に、俺の背中がぶっ裂けなきゃならないんだよ?」
ライルが革の毛布を頭のてっぺんまでかぶりながら、もごもごと呟いた。
イヒョンは卓の前へ上体をかがめ、揺らめいていた灯火の芯をふっと吹き消した。
古びた窓の隙間を突き抜けて吹き込む荒涼とした山風が、これから相対することになる密やかで残酷な北西部戦争の序幕を告げるかのように、イヒョンの冷たい頬をかすめて過ぎていった。
橙色の灯火が消える間際、網膜にくっきりと焼きついた一覧の文言。焦げついたように霞んだ書体が、大地の上に切り裂かれた深い傷痕のように、イヒョンの脳裏をよぎった。
デュセルバイン侯爵領。ベルズ伯爵領。フォルカレン伯爵領。ペンダーマーク子爵領。
「北西部の四か所。国王の命令が届いた領地を巡りながら監察をして、裏切りの痕跡を調査しろ……ってわけか」
「……どこから行くんだ?」
布団の山のなかから、ライルが腕枕をしたまま、生気を失った声でぼそぼそと呟いた。
「それは大して関係なさそうだ。本部が下した指令書には、その領地の内部情報も細かい事項もないからな」
ライルはその言葉に驚愕して、罪もない布団を蹴り飛ばした。
「じゃあ、ただやみくもに辺境の領地へ行って調査しろってことか? 何かしら手がかりくらい投げてよこさなきゃ、何ひとつ備えようがないだろ! まったく、ギルド本部のジジイどもも、まるっきり正気じゃないぜ!」
ライルが駄々をこねるようにぶつぶつこぼした。
イヒョンは淡々と闇のなかを見据えた。ライルの言うとおり、情報が絶対的に不足しているというのは、否定しようのない事実だった。
指令書に記された家門は、いずれも大公領の強力な軍事力を後ろ盾にしているか、好戦的な気質で武装した北西部辺境の盟主たちだった。彼らの家門内部の力学関係や、インテルヌムと絡んでいるであろう水面下の動向に関する情報ひとつなしに接近するのは、自殺行為も同然だった。
『誰か、エペリア首脳部の歴史と、北西部の領主たちの秘めた恥部までも完璧に見通していそうな人物から、まず情報を引き出さなきゃならない』
イヒョンの精緻な思考回路が、巨大な機械の歯車のように素早く噛み合って回りはじめた瞬間、彼の頭のなかに、最も適した一人の顔が自然と浮かび上がった。
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