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301. 新たな任務

馬蹄が荒々しい石角を踏みつけるたび、鈍い振動が鞍の上までまざまざと伝わってきて、土埃がもうもうと舞い上がった。


ブレサウンを発って3日目。


エペリア大陸西部の交易路へと続く道は、上り坂と下り坂を嫌になるほど気まぐれに繰り返していた。シャツの内側ににじんだ汗の筋が背筋を伝い落ち、べったりとまとわりついた。


イヒョンは胼胝の張った手で硬い革の手綱を握り直しながら、前方を見据えた。稜線の向こうにまた別の稜線が幾重にも連なるなか、乾いた土埃が風に乗って鼻先をつんと刺していった。


「アニキ。マジで。マジで気になって訊くんだけどさ」


ライルは鞍の上で全身をくねくねとよじりながら、呻き声を上げていた。硬い革の鞍と汗に濡れたズボンが擦れて、ぎしぎしと音を立てるのがやけにうるさく聞こえてくる。


「世の中どこの旅人が、楽な船旅を差し置いて、こんなふうにケツが雑巾みたいになるまで山を越えて回るんだよ?」


「川がないだろ」


イヒョンは身じろぎひとつせず前方を見据えたまま、素っ気なく応じた。


「だからさ、俺が言いたいのは……西へちょっと迂回すれば、あの広いリエント川があるって言ってたじゃん。そこまで行って船に楽ちんで乗って、プルベラまで一直線ってのはダメなのかって、そういう話なんだよ、俺の言いたいことは」


ライルがぼやくやいなや、ライルの駆るパボルが疲れたようにぶるるっと鼻息を噴き出した。その息づかいにびくっと驚いたライルが、思わず手綱を引っ張る。


「な、なんだよ。驚いたじゃんか、パボル」


イヒョンは返事をする代わりに、静かに顎を上げて空を見上げた。


雲ひとつなく透き通るほど晴れ渡った空。じりじりと照りつける陽射しは目を細めさせるほど強烈だったが、幸い天気は協力的だった。イヒョンの跨がるブケも、足取りだけは軽かった。


「船に乗ろうと西のリエント川まで迂回するのにかかる時間も、この山道を突っ切ってプルベラへまっすぐ行くのも、大した差はない。むしろ西から船に乗ると流れに逆らって2日も無駄にすることになるんだから、いっそ直接行くほうがマシだ」


「それはそうだけど、もう俺のケツはただれる寸前なんだって!」


「だから今回は、出発する前にちゃんと相談して決めただろうが」


イヒョンの淡々とした小言に、ライルは深々とため息をついた。


「はぁ……そうだよ。確かに相談はしたさ。でもさ、アニキと話してるとさ、なんかこう、いつの間にかアニキの望んでる特定の結論のほうへ、状況をじりじり誘導されてるような気がして仕方ないんだよなあ」


ライルの目が疑いに細められる。イヒョンは眉ひとつ動かさず、馬の尻をぽんと叩いた。


「気のせいだ」


「いや……絶対なんかある。すっげえ引っかかるんだよなあ」


「気のせいだって」


イヒョンはかつて地球で、息が詰まるほど数多の契約と交渉のテーブルを指揮してきた。


利益を最大化するために書類の文言ひとつをめぐって何か月も争い、競合他社の息の根を合法的に断つことなど日常茶飯事だった、冷酷なビジネスの世界。


もちろん、このエペリア大陸での生存交渉とは細かなルールこそ多少違えど、その本質だけは寸分たりとも狂わなかった。


自分の望む絶対的な価値を手に入れるために、いったいどこまで手札を差し出せるのか? そして、いかに合法的かつ精緻な外交的レトリックで商団の目を欺くのか? いつだって熾烈な頭脳戦だった。


まして、説明が少し長くなっただけで本質を取りこぼしてしまうライルを相手に、自分の望む方向へ結論を誘導することなど、イヒョンにとっては朝飯前だった。


結論をあらかじめ定めておいて餌を投げれば、こいつはいつだって好奇心に目を輝かせ、自らの足で歩み入ってきたのだから。


かなり急峻で長い道のりだったが、二人を乗せたブケとパボルはくたびれることを知らなかった。逞しく筋肉をうねらせ、主人たちを乗せたままプルベラへ向かって黙々と歩みを進めていく。この程度の速度さえ保てれば、予想していた日程よりもはるかに早く目的地へたどり着けるはずだった。


『それでも、この山さえ越えれば』


最後の稜線を上る道は、ひときわ急峻だった。


尖って突き立った岩の隙間ごとに、長い年月に磨り減った白色花崗岩の粉が馬蹄に蹴散らされ、四方へ白く飛び散った。切り立った絶壁を伝って吹きつける山風は斬りつけるように鋭かったが、真昼の炎暑の下、シャツの内側までじっとりと流れ落ちた汗の玉を冷ますには力不足だった。


ブケが鼻孔を大きく広げ、荒い鼻息をぶるるっと噴き出した。イヒョンは革の鞍の上で上体を軽く低くし、苦しげに坂道を上るブケの首筋を、精緻でありながら慈しむような手つきで撫でおろした。


「今日ちょっと休んで、明日行くんじゃダメ? マジで下半身が感じられなくなってきた気がするんだよ。俺、いま腰から下の感覚が完全に消滅したんだって」


革の鞍の端にほとんど引っかけるように体をだらりと垂らしたライルが、呻き声を吐き出した。


おしゃべりで散漫な本性はどこへも行かないのか、乾いた風に唇がからからに乾いて裂け、かさぶたが張っているというのに、舌を動かすことは一秒たりとも止まらなかった。太腿の内側の肉が革に擦り剝けた痛みのせいか、ライルの眉間は見事にしかめられていた。


「こんなことになるって知ってたら、ブレサウンで金を少し余計に払ってでも、まともな馬車でも一台仕立ててくるんだった。ケツがもう完全にぶっ壊れたよ」


「馬車?」


イヒョンが首を斜めに向けもせず、低く切り返した。


「馬車じゃなけりゃ、車輪のついた荷車でも」


「機動性が命の旅人が、荷車をずるずる引きずってどうやって山道を行くんだ」


イヒョンの淡々とした黒い瞳が、ライルの胸倉を掴み上げるように重々しく落ちかかった。


「言葉のあやだって、あやだよ。アニキはこの状況で冗談も受けてくれないわけ? マジであんまりだよなあ」


ライルが余計な意地を張ってそっぽを向くと、イヒョンの口元に薄い笑みが、ふっと、刹那よぎって消えた。こいつの軽さが、かえって緊張を鎮めていた。


稜線を越えはじめると、空気の質感が変わった。


生臭くも、重々しい水分。


草葉のざわめきと土埃の乾きを一息に呑み込む、湿った水の匂いが押し寄せてきた。続いて、胸の奥深くに低く響く鈍い振動。はるか遠く、深い渓谷の霧を突き抜け、膨大な水量がぶつかり合うかすかな水音が、イヒョンの鋭敏な聴覚を叩いた。


「もうすぐだ」


「ほんとに?」


ライルが一瞬で鞍の上に背筋をぴんと立てた。ついさっきまで半死体のように死にかけていた面に、ちゃっかりした血色が稲妻のように戻ってきた。


「アニキ、俺マジで街に着いたらまず風呂だからな。このひどい汗の臭いで、俺の鼻が麻痺しそうなんだって」


ライルの大げさな物言いを背に、イヒョンはブケを止めた。


そして視界が完全に開けた瞬間、イヒョンは思わず息を止めた。


眼前に、圧倒的な規模の大地がパノラマのように広がった。


巨大な湖。いや、海と見紛うほど広漠と地平線まで伸びていく水の色と、その湖につながった巨大な三つの流れが、眼前に大地の青い動脈のごとく雄壮に広がっていた。


午後のじりつく陽射しを正面から受け、水面全体が細かく砕ける銀色の鱗のようにまばゆく煌めいた。その巨大な水路に沿って、数十隻の大型貿易船が白い帆をぴんと張らせ、湖を横切って動いていた。風をたっぷりと孕んだ帆が青い湖の上で揺れるたび、まるで巨大な大陸の肺が生きて動き、息をしているかのような奇妙な生動感が四方へと噴き出していた。


プルベラだった。


その荘厳な風景を前にした瞬間、イヒョンの喉の奥底が凍みるほどからからに渇いてきた。顎の筋肉が硬くこわばり、胸の内の深い深淵から得体の知れない重圧が逆流した。


理由は明白だった。


『ここで……あの惨たらしいことのすべてが起きた』


脳裏の最も深い闇の底に沈んでいた記憶の破片が、嵐のように目を覚まして激しく揺れ動いた。


かつての商団の偉大なる長オルディン。彼の死からじつに15年もの間、互いの背にナイフを突き立てながら反目しあったルカエルと、エスベロ。その血なまぐさい混乱の狭間に入り込み、都市の膏血を搾り取って覇権を掌握した伯爵代理ニルバス。


そしてニルバスの監視を逃れ、腐り果てた下水道の泥水のなかを這いずり回りながら復讐の牙を研いだ密輸団の長ベルティモ。その悲劇のただ中で目を覚ました少年イアンの絶叫と、イアンの内側で花開いていた感情の光輝を無残に吸い取り封じ込めたインテルヌムの執行官カルヌス。続いて闇のなかから溢れ出してきた数百、数千のペルトゥス軍団まで。


冷たい夜空と泥沼のなかで血と悲鳴に塗れていたプルベラの真実が、イヒョンの視界の上に赤い幻影のように重なった。


かっ、と胸元のシャツ越しに皮膚へ刻み込まれていた二つの感情の烙印、愛と怒りの痕が、鋭い針で刺すような刺激をともなって激しく疼いた。イヒョンの瞳が一瞬で冷たく重々しく沈み込んだ。


「アニキ?」


ライルが鞍の上で体を前へぐいと突き出し、顔をのぞき込んできた。おしゃべりで軽かった目が、イヒョンの石のように固まった横顔を機敏にうかがう。


「なんで急に呆けてんだよ。顔色がまるで、たった今地獄の門でも正面から見据えた人みたいだけど? まさかまたどこかで危ない匂いでも嗅ぎつけたのか?」


「大したことじゃない」


イヒョンが荒々しく革の手綱を掴み取るように握った。


「さあ、日が暮れる前にいい宿から探そう」


「当然、うまい酒とやわらかいベッドのあるところでな」


ライルが浮かれて切り返すと、イヒョンが低く呟いた。


「もし俺の知るあの男が、まだこの街にそのまま居るのなら……本当に大した酒が飲めるかもしれないな」


「おや? どうしたんだよ? アニキのほうから先に酒の話を持ち出すなんて。いやはや、明日は西から日が昇るぞ」


「その酒には、俺にとってちょっと特別な思い出があってな」


「おお、そりゃとんでもなく楽しみだな? さっさと馬を走らせようぜ、アニキ!」


ブケの脇腹を軽く蹴り、イヒョンはなだらかな下り坂へ向かって馬を駆った。川の下流のほうから吹きつける風が、次第に激しさを増していた。


プルベラは遠目にも、過去の傷痕を拭い去るかのように、はっきりと様変わりした威容を露わにしていた。


———


さく、さくさく。


息の詰まるような沈黙のなか、羊皮紙を掻きおろす羽根ペンの音だけが宿の部屋の中をひやりと満たした。


ライサの瞳が、今この瞬間ばかりは理性的な冷気を放ってこわばっていた。


「イヒョンさん。その話が……本当に事実なんですか?」


ライサがインクの乾ききらない文を見つめながら、低く問うた。声の末尾がかすかに震えていた。


「ええ、すべて事実です」


向かいに座ったイヒョンの答えは平淡だったが、そのなかに込められた重みは決して軽くはなかった。


「プルベラの戦い以前に起きていた数々の裏の出来事……それぞれ別々に繰り広げられていたと思っていた破片が、今にして見れば、すべてひとつの巨大な軌跡へとつながっていたんですね」


「そのとおりです。私自身も振り返ってみれば、あの歯車がずれることなく噛み合って回っていたという事実に、今になってようやく気づきました」


イヒョンは胸郭の深いところからこみ上げる重々しい重圧を感じながら、胸元を軽く押さえた。


ライサがペン先を止めて顔を上げた。鋭い視線がイヒョンの顔の表面を執拗になぞった。


「コランの外れの廃神殿であなたを襲おうとしたあの男は、とうとう正体を明かさなかったんですか?」


「まったくわかりません。当時はただの襲撃だとしか思っていませんでした。ですが……あいつが息を引き取る間際に吐き捨てた言葉の数々は、今あらためて考えてみると、背筋に鳥肌が立ちますね」


イヒョンの低く沈んだ声が、空気を重々しく押さえつけた。


「イヒョンさんがこの世界に亀裂をもたらす、ねえ……ギルドの情報網をもってしても、どうにも腑に落ちないくだりです」


「それは私も同じです。彼らが私になぜそんな大仰な修飾語を付けたのかは、知る由もありません。ですが、『インテルヌム』という組織が少なくとも何を究極の目的として動いているのかは、もう確実になりました」


羊皮紙の上に、ぽつり、と黒いインクが一滴にじみ広がった。ライサが唾を呑み込む音がやけに大きく聞こえた。


「その目的というのが……いったい何なんですか?」


「あらゆる人間の感情を、根こそぎ統制することです」


「……感情を統制する、ですって? そんなことが可能だと言うんですか?」


ライサの顔色が青ざめていった。


「あいつの言葉によれば、人間に極限の苦痛と絶望を注ぎ込んで感情を抽出し、それを凝縮して『結晶』へと精製するのだと言っていました。その結晶を用いれば、逆に人間の内面を完璧に操ることができると確信していましたよ。そして……」


イヒョンが顎の筋肉を固くこわばらせながら、言葉を継いだ。


「あいつは背後の人物を『ベルダク』と称しました。その男が絶対的な畏敬を込めて『あの方』と呼んでいたことから見て、ベルダクという存在がインテルヌムの頂点に立つ首領か、少なくとも大陸の秩序を揺るがしうる高位の人物であることは明白です」


さく、さくさく!


ライサの動きが速まった。羊皮紙の上を荒々しく滑っていた羽根ペンが、ベルダクという三文字にたどり着いた瞬間、かっと音を立てて止まった。ペン先が過度な握力に耐えきれず裂け、黒い痕を押しつぶした。


「これは……」


ライサが細かく震える下唇を、思わず噛みしめた。羊皮紙を破れんばかりにきつく握った指先が、細かく振動した。


「私たちがこれまで旅人ギルド本部で数多くの要員を犠牲にしながら追跡してきた、どんな諜報よりも……はるかに値打ちのある情報です。イヒョンさん、あなたを単に優れた余所者の旅人とだけ判断していたのが、間違いでしたね」


ライサがゆっくりと顔を上げ、イヒョンの底の知れない眼差しを探るように執拗に見つめた。異邦人の奇妙な知識と無表情な面持ちが、今や単なる奇異さを超えて、巨大な嵐の目のように見えた。


イヒョンはその重い視線を淡々と受け止めながら、ティーカップを持ち上げた。


「私もまた、あの出来事がこうしてつながるとは予想していませんでした」


「私はここでの引き継ぎが終わり次第、一時も遅らせることなくギルド本部へ直行するつもりです」


ライサが急いで羊皮紙を巻いて革の保管箱に収め、蝋を溶かした。


「おそらくあなたたちの旅路を追う役目は、私ではなく本部から派遣される別の上級旅人が担うことになりそうです。イヒョン卿、詳細な情報分析とインテルヌムの動向は……ギルド側の整理が終わり次第、認識票を通じてあらためて通報いたしましょう」


革の保管箱の蓋が閉じ、鈍い金属音が響いた。


ライサが部屋を出る前、扉の取っ手を握ったまま立ち止まった。彼女のシルエットの向こうに、ブレサウンの暗い夜空が重々しく垂れ込めていた。



読んでくれてありがとうございます。


本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。

ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。


読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。


お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。



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