299. 戦雲
応接室の窓を通過した陽光が、ルキウス子爵のこわばった顔の上に、刃のように掛かった。
イヒョンは、息遣いすら消したまま、子爵とライサの顔を、代わる代わる見つめた。
「禁じられた地、だと」
子爵が唇を開いた。唾を飲み込む喉仏の動きが、とりわけくっきりと際立った。
「あそこは、過去にも少数の部族が散らばって暮らし、まともな国家すら成せなかった土地だったはず……おまけに、今では人が住めぬほど、過酷に凍りついた土地だと聞いているが、そのような場所に、そんな勢力が生まれるなど、可能なことなのか?」
「はい、さようです。我々は皆、そう思っておりました。ですが、統一戦争以降も、依然として人々が生き残り、小規模の部族を形成して、代を継いでいると、把握しておりました」
ライサの声が、空気を押さえつけた。
「禁じられた地に、まだ人が住んでいたと?」
「はい、さようです。公式な承認はもちろん、正確な規模も、把握できておりません。だからこそ逆説的に、奴らがそこに本拠地を築いたであろうという確信が湧くのです。あの土地は、我々の目が届かない死角ですから」
子爵の握り合わせた手が、わずかに震えているようだった。テーブルを見据える重々しい瞳が、その表面に大陸の地図でも描くかのようだった。
「そうか……この大陸で、国王陛下と旅人ギルドの目を逃れられる場所が、そこだけだ、というわけだな」
「まさしくご明察のとおりです、閣下。そして、私どもが把握したところによれば、奴らは監視の緩い辺境の村々を標的にしています。住民たちを拉致した後、人間の肉体と魂を、何らかの形で変形させているようです」
ライサの声が、氷のように冷たく沈み込んだ。
「すなわち、拉致された者たちは『ペルトゥス』と呼ばれる、残酷な戦闘人形となり、一部は、我々がまだ究明できていない、別の恐ろしい用途へと加工されているものと、推定されます」
子爵が、ゆっくりと目を閉じた。深く刻まれた目尻の皺の間に、計り知れぬ苦悩が滲んだ。
「……ならば、私の領地に属するドルメアもまた……そのやり方で、やられたということだな」
「はい。ドルメアもまた、インテルヌムが企図した大規模な作業の一環と見られます」
「ただ、ドルメアは、これまでの実験の村々とは、比べものにならぬほど、精巧で膨大な規模だと考えられます。そのために、事態の糸口を掴もうとそこへ向かった数多の調査官たちまで、ことごとくその巨大な沼に呑まれたのです。その現場で消えたか、あるいは……加工された可能性が高いのです」
子爵の肩が、目に見えてがっくりと落ちた。固く結ばれた唇の間から漏れ出る声は、からからに乾いた枯れ葉のように、細かく砕けた。
「170名、と申すのか」
「はい」
「ブレサウンが派遣した170名のコグニトルと精鋭兵、そして領地の軍人たち……このすべてが、私のせいだな。領地の辺境にあるという理由で、監視が疎かだったこと……」
「はぁ……私のせいだ」
応接室の中の空気が、鉛を注いだように、重々しく沈み込んだ。息の詰まるような沈黙の中で、子爵は震える両手で、顔を包み込んだ。荒々しい手のひらが髭を撫で下ろす、もの悲しい音だけが、部屋の中を満たした。
「……では、すでにそのペルトゥスに変わってしまった人々を、元に戻す方法はないのか?」
ライサの視線が、重々しく伏せられた。服の裾を握りしめた指先に、力がこもった。
「今のところは、分かりません。ペルトゥスに変わった人々を、再び人間に戻せるのか。それとも……死んで初めて、本来の人間に戻るのか……」
子爵が、乾いた洗顔でもするように、顔を撫で下ろした。指の間から、赤く充血した瞳が、ちらりと覗いた。
「はぁ……」
子爵が、胸の奥底から、こもった息を一度、荒々しく吐き出した。心臓の底で波打つ悲しみと怒りを抑え込もうと、全身をぴんと緊張させていることが、そっくりそのまま伝わってきた。
しばらくして、顔を上げたルキウス子爵の瞳が、きらめいた。凄まじい眼光が、応接室の沈み込んだ空気を裂きながら、ライサとイヒョンの顔を、代わる代わるなぞった。子爵の顎の下の筋肉が、硬くこわばっていった。
「ライサ。私に、イヒョン卿とライル卿を解放せよ、と告げるためだけに来たわけではあるまいな。目的がそれだけであれば、これほど詳しく話しはしなかっただろう」
ライサは、微動だにせず、子爵の炯々とした視線を、真っ向から受け止めた。
「はい、そのとおりです」
子爵が、ゆっくりと椅子から上体を起こした。椅子の座面が軋む音を立て、押さえつけられていた領主の重量感が、再び応接室の中を支配するかのようだった。確固たる気勢が、彼の内からこみ上げてくるようだった。
「私が、いかなる備えをせねばならぬのか、教えてくれ。結局、その言葉を伝えに来たのだろう……」
ライサが、息を短く吸い込んだ後、ゆっくりと口を開いた。調律された弦楽器が鳴るように、彼女の声が1オクターブ沈み込み、音節の一つ一つに、胸を押さえつける鉛の塊のような重みが込められた。
「閣下。インテルヌムは、単なる辺境の反乱勢力ではありません」
ルキウス子爵は、言葉もなく、ただ深く沈んだ目で、ライサの唇を見据えるばかりだった。
「彼らが率いる『ペルトゥス』という戦闘人形。プルベラで動員されたものだけで、およそ千匹あまりでした。そして、イストリルで十数기。それだけではありません。ライレン、ラティベルナ、エルノクなど、エペリア大陸のいくつもの要衝で、その奇妙な作業が、同時多発的に進められています」
ライサが、革の外套の内ポケットから帳簿を取り出し、テーブルの上へ、そっと押し出した。紙の匂いが漂った。
「本部の分析官たちが、全大陸のコルディウムの残響を推算した結果、インテルヌムが今までに表に現した、ペルトゥスの総数は、最低で数千、最大で数万匹に及ぶ可能性があります。これは、私ども旅人ギルドが把握した失踪者の数値にすぎません。まだ表に現れていない数まで加えれば、彼らが保有する軍勢は、想像を絶するでしょう」
「ふむ……」
子爵の胸郭が止まった。吸い込んでいた呼吸が一拍、完全に途切れ、応接室の中に絶対的な静寂が降りてきた。
イヒョンもまた、心臓がそのまま凍りつくような感覚を覚えた。
プルベラの、あの地獄のような港で、彼はペルトゥス一体一体が放つ破壊力を、骨身に染みて味わったことがあった。拳ほどの灰色の紋様という弱点を知っていたとしても、大規模な全面戦で、その狭い急所を集中攻撃するのは、実に難しいことだろう。まして、徹底した統制体系を築いたインテルヌムであれば、すでにその弱点を補う対策を立てている可能性も、無視できなかった。
『もし……奴らがあの紋様を、分厚い鋼の甲冑で覆い隠したなら、それは無敵の軍隊だ』
イヒョンの脳裏が、冷たく冷え込んでいった。
傍らにいたライルもまた、恐怖を隠せなかった。イストリルで、わずか十数기のペルトゥスが村を半ば廃墟に切り刻む光景を目の当たりにした彼だった。ライルの指先が、ぶるぶると震え、全身に立ちのぼる鳥肌を、止めることができなかった。
そんな化け物どもが、数千、数万を超えて、大陸の奥深くに潜んでいるとは。その兵力が整列して押し寄せてきたなら、並の兵士や騎士団では、防ぐ術がまったくなかった。
「そして、これは、彼らが今までに外部に知られた情報に限った、推定にすぎません」
ライサの残酷な言葉が続いた。
「彼らの本拠地、北部の禁じられた地の奥深くに備蓄しておいた真の主力は、それよりもはるかに多い可能性が高いのです」
「……」
「結論として、インテルヌムは、単なる王国の転覆を狙う反乱軍ではなく、大陸全体を丸ごと揺るがし、沈黙させる軍隊を手に入れようとする野望を、抱いているのかもしれません」
ルキウス子爵が、黙々と目を閉じ、背もたれに身を沈めた。指を組んだ手を、ゆっくりとこわばらせては解くたびに、骨の節がぶつかり合う鈍い音が響いた。情報に染みついた血なまぐさい重みを、自らの内で調律し、整える、領主の沈黙だった。
ライサが、一拍、呼吸を整えた後、子爵の顔を、正面から射抜くように見据えた。
「閣下。本部の分析官たちはもちろん、王都の国王陛下におかれましても、この一件が本格的な全面戦へと拡がれば、エペリア統一戦争とは比べものにならぬ、破滅的な大災厄となるだろうと、判断していらっしゃいます」
子爵が、乾いた喉を掻きむしるように、自らの耳に聞かせるように、低く呟いた。
「統一戦争より、さらに大きな戦争、か……」
「はい。まさに、あの大戦争です。100年前のことでしたね。王室では、此度の事態が、あの時よりもはるかに深刻な結果を招くだろうと、予見しています」
子爵が、ゆっくりと頷いた。瞼の下に、深い疲労が滲んだ。
彼は、その血なまぐさい歴史を、実によく知っていた。封建社会のすべてのエペリア貴族が、家門の名誉とともに、骨に刻まねばならぬ、最も基礎的な年代記だったのだから。100年前、大陸を四分五裂に切り裂いていた無数の弱小勢力と領地を統合しようと繰り広げられた、大戦争。その数えきれぬ死の雨を降らせた末に、今の統一されたエペリア王国が立った。
「あの戦争が、数十万の死者を出したと記録されている。大陸の歴史上、最も巨大な戦争だったのだ」
ライサの視線が、子爵を過ぎて、淡々としたイヒョンの顔に触れた。
「……ですが、本部と王室の判断は、ただ一つです。もしインテルヌムとの全面戦が起これば、その魂の収穫の規模は、統一戦争の数倍に及ぶでしょう」
応接室の中に、深く張り詰めた沈黙が、一度、流れた。ガラス窓の向こうに差す夕陽が、固まった血の色のように赤かった。
ライルが、噴き出そうとする悲鳴を飲み込むように、シャツの襟をぎゅっと握ると、イヒョンの袖を引いた。
「……アニキ」
イヒョンは、静かに首を巡らせ、ライルを見つめた。
ライルは、恐怖が全身を侵食してくるのか、下顎を微かに震わせながら囁いた。
「俺、歴史はよく知らないけど、だいたい話には聞いて知ってるんだ。でも、その戦争より、何倍もでかい戦争だって?」
イヒョンが、固く結んでいた唇を開き、低く答えた。
「俺にも、まるで見当がつかない。俺もまた、話に聞いただけだからな。その戦争の惨状がどれほどのものだったか、推し量ることすら難しい」
イヒョンの黒い瞳の奥底で、目に見えぬ巨大な嵐の前兆が、揺らめいた。
「閣下。国王陛下は、インテルヌムをめぐって、二つの断固たる意志を、抱いていらっしゃいます」
ライサの唇から流れ出た言葉が、応接室の沈み込んだ空気を、鋭く切り裂いた。国王の「意志」という巨大な命題が水面へ浮かび上がると、空間を支配していた沈黙は、いっそう張り詰めて締めつけられた。
ルキウス子爵は、微動だにせず拳を握った。そして軽く、しかし重々しい革の悲鳴を引き出しながら、椅子の肘掛けを打ち下ろした。
「その二つの意志というのは、何だ?」
沈んだ老領主の声には、百戦錬磨の将特有の厳格さが滲んでいた。ライサは、テーブルの上の色褪せた羊皮紙の帳簿を指先で押さえながら、言葉を継いだ。
「一つ、戦争が起こるのを事前に防げるのなら、いかなる手を使ってでも、防ぎきらねばならぬ、ということ」
「……」
「二つ、たとえ我々の情報網が遅れ、それを防げずに戦争が勃発したとしても、その戦火が大陸全土へと拡がることだけは、必ずや最前線で遮断せねばならぬ、ということ」
ルキウス子爵の首が、ゆっくりと下へと落ちた。固く結んだ唇の間から、長い息が漏れ出た。妥協なき王令の重みを、そっくりそのまま背負うという、無言の肯定だった。
「そうして、本部と国王陛下は今、二つの方向の歯車を、同時に噛み合わせて動かしていらっしゃいます。一つ目の方向は、インテルヌムの隠された本拠地と、その頂点に座した首魁を、可能な限り早く探し出し、全面戦が始まる前に、その心臓部を無力化することです」
その瞬間、ライサが、ちらりとイヒョンへ視線を投げた。
一拍にも満たない、短い刹那の目配せだった。だが、イヒョンは、その秘めやかで、狡猾なまでに鋭い眼差しの中に、本能的に何かを察知した。
「そして二つ目は、戦争が勃発する最悪の場合に備えて、各領地で軍隊を養成することです」
ライサの宣言が終止符を打つと、子爵のこわばっていた瞳が、深く揺らめいた。
「戦争準備、か……」
子爵の声は、血の色の行く末を予見するように、沈み込んでいた。
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