297. 顛末
ライルは、応接室を押さえつけるこの重々しい知的緊張感を、どうにもついていけないという表情で、目をきょろきょろさせた。
ついに耐えきれぬとばかりに、ライルがイヒョンのほうへ、そろりと上体を寄せて座った。そして、イヒョンの耳の下に口を寄せ、蚊の鳴くような声で囁いた。
「……アニキ、これさあ。王国を脅かす問題だなんて、俺、一つも聞き取れないんだけど?」
イヒョンは、首を巡らせなかった。その視線を、依然として子爵と、その向かいのライサに固定したまま、静かに口を開いた。
「ひとまず、聞いてろ」
「はい……」
ライルが、イヒョンのそっけない返事に、しょんぼりした顔で唇を尖らせた。彼は再び視線を落とし、揺らめく橙色の茶の水面ばかりを、罪もなく覗き込んだ。
まさにその時、薄いカーテンを突き抜けて差した夜明けの光が斜めに降り注ぎ、ライサの瞳を、青みがかった宝石のように染めた。
ライサが、しばし呼吸を整えた後、ゆっくりと口を開いた。
「7ヶ月前のことでした」
低く沈んだライサの声が、テーブルに沿って、凍りついた冷気のように、重々しく流れた。
「ドルメアから、奇妙な報告が入りました。正確には、ドルメアの行政官が税を取り立てようと使令を送ったのですが、いざ使令が現場に到着してみると……村全体が、いかなる人為的な痕跡もなく、がらんと空っぽになっていた、という報告でした」
ブレサウンの領主、ルキウス・モントセラビウス子爵が、深く刻まれた眉間をしかめながら、ゆっくりと頷いた。
子爵の瞳が、深く暗い深淵のように揺らめいた。
「初めは、局地的な自然災害か、小規模な山賊の群れの仕業を疑いました。普通、そうした場合であれば、領民たちが災難を避けて一時的に住まいを捨てて避難した可能性が高いですから。それゆえ、閣下が領地レベルの精鋭調査団を派遣なさいました。調査と尋問に長けたコグニトル2名に、領地の警備兵15名。総勢17名がドルメアへと向かいました」
瞬間、テーブルの向こうに立っていた子爵と、護衛のルプスの顔色が、同時に硬くこわばった。
いまだ解決されぬ脅威を前に、二人は表情を隠しきれなかった。消えた領地の兵士たちとコグニトルは、子爵の忠実な腹心であり、ルプスにとっては、坑道の底で生死を共にした仲間だったからだ。
「ですが、最初に税の徴収のために訪れた使令を除いて、その後は、ただの一人も帰ってはきませんでした」
凄まじい沈黙が、四方を締めつけてきた。
子爵が、短く目を閉じ、また開いた。
「……そうして、閣下は間髪入れず、二度目の調査団を派遣なさいました。今度は、単なる失踪事故や盗賊に関わる問題とは見なせないという判断のもと、兵力の武装を大幅に強化しました。歩兵1個小隊に、実戦経験の豊富な山岳騎兵隊、そして軍需補給部隊まで含めた、総勢57名の相当な兵力が、ドルメアへと向かいました。……彼らもまた、ただの一人の生存者も残さぬまま、蒸発しました」
イヒョンは、椅子の奥深くに背を預けたまま、じっと腕を組んだ。そして、彼女のブリーフィングに込められた力学関係を、頭の中に精密に整えていった。
昨日、尋問室でルプスを通じて、断片的にではあれ聞いた内容だった。だが、旅人ギルド所属のライサの口を借りて、順を追って復元される真実の圧迫感は、その重みがまるで違った。
「事態が思っていたよりも危険だと判断なさった閣下は、王都へ正式な書簡を上げられ、王室でも事態の深刻さを認識しました。そうして、感情能力を武器として操れる強力な存在たち、カレオストラの精鋭コルディアルを含む、100名に及ぶ部隊を、この辺境へ追加派遣しました。そして、彼らまでもが……ただの一人の兵士も、ただの一行の伝言も送れぬまま、ドルメアで完全に消し去られるように、姿を消したのです」
「……100名、ですって……?」
隣の席で、ライルの驚いた声が、糸筋のように細く漏れ出た。
「ええ。訓練を受けた王国の精鋭コルディアルと、兵士100名です」
ライルの顔が、瞬く間に血の気を失い、屍のように白く染まった。両手でかろうじて握りしめていた茶碗が、危なっかしく揺れた。
ライルは、そこでようやく、事件の重みを全身で実感していた。自分たちが何気なく通り過ぎてきたドルメアという土地が、子爵領と王国で、どれほど恐ろしい呪いの区域として通っているのかを。そして、そこから生きて帰ってきたイヒョンと自分を、人々がなぜ、あれほど奇妙な目で眺めたのかを。
「その時点で、ドルメア事件は、単なる辺境領地の失踪を超えて、エペリア王国全体を脅かす、前代未聞の『未解決の脅威案件』へと格上げされました。国王陛下がじきじきに情報網を稼働させ、注視なさるほど重大な、国家機密となったのです。実のところ、旅人ギルドに情報のかけらが共有されたのも、この時でした」
ライサの青い瞳が、今度はイヒョンの黒い瞳を、正面から見つめた。
「そして、ギルド本部が情報を集める中で、遅ればせながら知り得た事実なのですが、この奇怪な失踪事件は、ドルメア一箇所だけに限られた、単発の災厄ではありませんでした」
その言葉に反応するように、イヒョンが、微かに閉じられていた目を、短く鋭く見開いた。
「……エペリア大陸全土で、これと似た不吉な兆候が、同時多発的に報告されていました。ライレン、ラティベルナ、エルノク、そして報告される間も、記録される間もなく消滅した、数多の小さな村々。村落単位で人間の痕跡が完全に蒸発してしまうか、あるいは内部で、奇怪なコルディウムの負の感情の逆流と暴走と思われる異常現象が起こって、自ら自滅する、という出来事が起きていたのです。その破滅の様相は、地域の気候によって少しずつ違いましたが、たった一つの、巨大で明白な共通点が発見されました」
静寂の流れる応接室で、ルキウス子爵が乾いた唇を開いて、ライサの言葉を受けた。
「……そのすべての現象が、決して自然に発生した事件ではなかった、ということ。そして、王政を転覆させようとする、ありふれた反乱の形でも、決してなかった、ということだろうな」
ライサが、残酷なまでになめらかな微笑みを浮かべながら、答えを完成させた。
「はい。神の天罰でも、制御不能の奇怪な現象でもありません。何者かが意図的に、こうしたことを企てている可能性が高い、という結論に到達しました」
個別に見れば、それぞれ離れて見える事件の数々。だが、そのささやかな出来事が、そろって一つの地点へと集まってくるような感覚が、背筋を伝って上ってきた。
まだ漠然としてはいたが、自分がエペリアに到着してから経てきた数々の事件が、巨大な悪の流れから枝分かれした、小さな渦のように感じられた。
「……そこでギルド本部は、この奇怪な事件の数々を、本格的に追跡し始めました。徹底して慎重に、それでいて迅速にです。そうして、此度の一件を、上級旅人の昇級試験の任務として割り当てることになったのです」
ライルが、ライサの言葉に、喉元までせり上がった疑念を堪えきれず、勢いよく口を開いた。大きな瞳が、混乱に耐えきれず、激しく揺れた。
「……えっ、ちょっと待ってください、姉さん。その、大陸全体が吹き飛びかねないほどの巨大な脅威を調べるのが、なんでよりにもよって『上級旅人の昇級試験』の形で進められるんですか? どう考えても、辻褄が合わないじゃないですか」
イヒョンが、硬い指先で、ライルの脇腹を、そっと突き押した。
「ライル、静かに聞こう」
「……いや、アニキ! 俺、本当に悔しいし、気になるんだって。大陸全体がひっくり返るほどの巨大な陰謀があって、迅速な調査が必要なんなら、本部の上級旅人たちが直接行って解決するほうが、百倍は速いんじゃないの? なんでわざわざ、俺たちみたいな受験者が……」
ライサは、いつもそうだったように、ライルの尖った不平にも、平穏な気配を崩さなかった。むしろ、柔らかな微笑みを浮かべてみせた。
「大丈夫ですよ、イヒョンさん。ライルさんのその質問は、至極合理的ですから」
イヒョンが、ライルに向かって、深く、そして淡い溜息を一つ漏らした後、再びライサの青い瞳へと、視線を固く据えた。
「……ライルさん。本部に所属する『上級旅人』たちは、すでにある程度、身元が露見している可能性が高いのです」
「……身元、ですか?」
「ええ。上級旅人とは、必ずどこかの巨大な領地や、高貴な貴族家門の強大な資本的後援を受けて動くものですから。旅人ギルドの実体は秘密に覆い隠されているかもしれませんが、大陸を闊歩する実戦の上級旅人たちの足跡だけは、何者かがすでに把握している可能性が高いのです」
「上級旅人は、皆、国王陛下の直属ではないのですか?」
「いいえ。いくつもの部類があります。本部に所属して国王陛下の命を受ける旅人がいるかと思えば、支部でギルド長として後学の育成と支援の任務を担われる方々もいらっしゃいますし、上級旅人として地域の領地に所属して活動なさる方々もいらっしゃいます。ですが、皆に一つ、共通点があるのですよ。上級旅人になる前には、全員が地域の領主や貴族の後援を受けて成長した、という事実です。したがって、すべての上級旅人には縁故があり、彼らの足跡は、追跡されうるのです」
「ああ……」
「もし此度の連鎖失踪事態の背後勢力、その組織が、そうした旅人たちの情報を手に入れた瞬間、その動きを、手のひらを覗き込むように追跡したことでしょう。つまり、本部が正式な旅人を派遣した途端、敵は痕跡を消して逃走するか、あるいは罠を張って、我々を待ち構えることができる、という意味です」
ライルの唇が、間抜けたように開いた。
「一方、昇級試験の受験者たちは、まだギルドの正式な高位の位階には、まだ入っていない者たちがほとんどです。たとえ後援者がいたとしても、試験の内容を知らぬ限り、彼らはただ試験を受けに来た受験生にすぎず、本格的な任務を遂行するとは、誰も思わないでしょう。そして、注目されず、名が知られていないということは、別の人物に偽装しても、疑われる余地が少ないという意味でもあるのですよ」
ライサのなめらかな説明は、止まることなく続いた。
「そして、最も重要な点があります。試験の受験者たちの背後には、身元を完璧に消し去った本部の精鋭監督官が、密着してついて回るのです。国王陛下の直属の旅人、その中でも特に、正体がほとんど露見していない者たちですね。つまり、あなたたちは単独で動くのではなく、常に監督官の精密な監視と統制のもとで任務を遂行する構造なのです。介入が必要だと判断される瞬間が来れば、監督官たちが即座に出ます。慎重さという盾と、迅速さという槍を、同時に手に握れる設計だったのですよ」
ライルは、完全に息を殺したまま、今になってすべての脈絡が噛み合ったという表情で、口を半ば開けて、ライサを見つめた。背筋に鳥肌の立ったライルが、慌てて尋ねた。
「ちょっと待ってください。じゃあ、ライサさんが俺たちの後を、ずっとつけて回っていたってことですか?」
ライサが、首をわずかに頷かせた。
「ええ。そのとおりです」
その答えが応接室の空気の中へ音もなく降り立った瞬間、イヒョンは、じっと目を閉じた。
「ちょっと待ってください」
ライルの心臓の底から、悔しさと呆れが、炎のように激しくこみ上げてきた。
「……じゃあ、あの死ぬかもしれない戦いを繰り広げている間、ライサさんは、ただ見物してただけってことですか?!」
低く沈み込んでいた応接室の空気を裂いて、ライルの声が、一気に天井へと鋭く跳ね上がった。
突然の反応に驚いたイヒョンが、傍らで彼の肩を掴んで落ち着かせようとしたが、ライルの激憤は、すでに理性の制御を、はるかに越えた後だった。
「イストリルで、カルヌスと、ベナロトと、ペルトゥス十数匹と、いっぺんに戦ったんですよ! 俺たち、本当に死ぬところだったんですからね! それに、あの忌々しいタルコス山を、三日も這い上がったんですよ! 氷壁は切り立った絶壁だし、豪雪は降り注ぐし! 絶壁から落ちて縄にぶら下がった時なんか、本当に死ぬところだったんですから!」
「……ライル!」
イヒョンが、低く重々しい口調で、ライルの言葉を遮った。
だが、ライルはすでに、目のひっくり返った暴れ馬のように、鼻息を荒くして止まらなかった。
「アニキ、ちょっと待って。本当に悔しくてさ。その間、俺たちがあれだけ苦労してる間、ライサさんは、いったいどこで何をしてたんだって話ですよ! 苦労しただけならまだ言いませんよ。本当に、命が十個くらいは吹き飛ぶところだったんですからね」
イヒョンとルプスは、当惑の色ありありの顔で、ライサと子爵を代わる代わる見つめるばかりだった。
「大丈夫ですよ、イヒョンさん。ライルさんのその質問もまた、至極合理的ですから」
ライサは、いつもそうだったように、ライルの怒りさえも、手のひらの中の玉を扱うように、しなやかに受け流した。
「介入を決定する基準は、試験の原則として定められています。受験者の命がかかっているか否かが、基準ではありません。旅人とは、常に戦闘や突発的な状況で命を落としうる、というのが前提とされていますから。私どもが介入する基準は、明確です。まさに、今のような状況ですね」
「いくらそうだとしても……」
ライルが、悔しさに喉を詰まらせながら口ごもると、ライサの表情が、妙に変わった。イヒョンを見つめる彼女の青い瞳に、奇妙な悪戯っぽさが宿った。
「……ですが、タルコス山を、あんなに無茶に、素手で這い上がられるとは、思いませんでした」
瞬く間に、応接室の空気が凍りついた。
「……何ですって?」
ライルの声が、再び大きくなった。
「……山を越えられるだろうとは、予想していましたが、ドルメアへ行く別の経路があったのですよ。山裾を緩やかに沿って迂回する道です。時間は三日ほど余計にかかりますが、物資さえ十分なら、はるかに安全な道ですね。合理的な知性をお持ちの受験者であれば、常識的に当然そちらを選ばれるだろうと思っていました」
タルコス山を越えずとも済む、安全な迂回路が、初めからあったという言葉に、ライルの目が、卵ほどに丸く見開かれた。
彼は、古びた木の人形のように、こわばって、ごくゆっくりと首を巡らせ、呆れ返ったという表情で、イヒョンを見つめた。
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