296. ルキウス・モントセラヴィウス
子爵がまもなく到着するという言葉に、狭い応接室を満たしていたかすかなざわめきさえ、跡形もなく蒸発した。
部屋の中を満たす空気は、鉛の塊のように重く沈み込み、まだ陽が昇っておらず、石で作られた床にはカーペットが敷かれていたにもかかわらず、夜明けの冷気が冷ややかに立ちのぼってきた。
向かいに座ったライサの奇妙な眼差しと、イヒョンのこわばった顔色を、絶えずうかがいながら、そわそわと落ち着かなかったライルが、気まずさに耐えきれぬとばかりに、茶碗をいじくり回した。
湯気がもうもうと立ちのぼる茶を、音を立てて一口飲み下した彼が、茶碗を手にしたまま、目を細めた。視線が届いた先は、煤がまだらにこびりついたイヒョンの顔だった。
「……アニキ。ていうか、アニキの顔、なんでそんな有様なんだよ? ひどいことになってるけど?」
「……ああ」
イヒョンの喉から、掠れた声が漏れ出た。
その無関心な一言に、ライルは状況の把握も忘れて、尻をそろりと前へ引いて座り直した。茶碗をテーブルに下ろす手つきが、せわしなかった。
「……いったいどこで、何をしてたら、そんなふうになるんだよ? さっき、そこのおじさんが、アニキが牢に火を放とうとしたって言ってたけど、それ、本当のことなの?」
「……」
イヒョンは、唇を固く閉ざした。
爪の下が真っ黒にひっくり返るほど掘り返した、じめついて忌々しい藁の山。糞尿桶の腐った臭いと、それを砕き割った後、摩擦熱を得るために皮膚が剥けるほど擦り続けた、粗末な弓錐の感触。
ただ生きてあの扉を出るのだという一念だけで、牢を呑み込む火を用意していた地獄のような死闘を、あの呑気な奴に、いったいどこから打ち明けるというのか?
指の節々に刺さった小さな木の棘と火傷の跡が疼いて、イヒョンには、答える気力すら残っていなかった。
二人の男の食い違った温度を、興味深く観察していたライサが、ついに堪えきれず、淡い笑いを弾けさせた。
茶碗を捧げ持った彼女の白い指先が、陶器の縁を、悪戯っぽく撫でた。
「……牢を、丸ごと焼き払おうとなさったのですよ」
彼女の澄んで冷ややかな声が静寂を裂くと、ライルの顎が、がくんと落ちた。
「え? いきなり、牢をなんで丸ごと焼くんだよ? それも不思議だけど、アニキが牢の中で火を熾したってのも、まったく大したもんだな、大したもんだ。アニキは本当に、見れば見るほど、芸達者だよなあ」
しきりに顎を突き出しながら感嘆詞をこぼすライルを見て、イヒョンは、胸の奥底からこみ上げてくる重々しい疲労を、長く吐き出した。
「ふぅ……ライル。話が長いから、後で説明してやる」
イヒョンは、依然としてあたりの見境もつかないライルの顔を、じっと見つめた。
イヒョンの乾いた顔色と、冷ややかに沈んだ眼差しを目の当たりにして、ようやくライルも、ただならぬ気配を感じ取ったのか、それ以上問い詰めるのを諦めて、顎を掻いた。そして、また特有の間の抜けた顔に戻って、冷めていく茶をちびちびと啜った。
イヒョンは、その呑気な顔色を眺めながら、内心で低い溜息を飲み込んだ。
『そうだ……お前のせいじゃない……』
重い静寂とともに、テーブルの上に、静かな沈黙が、再び降りてきた。
窓の向こう、領地全体を重々しく押さえつけていた紫色の帳の夜明けの霧が、すっかり晴れ始めていた。新しい一日の始まりを告げる、透明で巨大な陽光の輝きが、窓を通して降り注いだ。
薄い亜麻布のカーテンを通過した自然光が、端正で古びた応接室の中の家具を、一つ一つ柔らかく照らし始めた。
黒い埃と煤で汚れたイヒョンの肌の上に、真っ白な陽射しが降り立った、まさにその刹那だった。
がちゃっ。
重々しい鉄製の扉の取っ手が、下へと折れる音が、応接室の静寂を破って響いてきた。
廊下のほうから聞こえていた節度ある靴の音が、扉口のすぐ前で止まった。
続いて、古びていながらも頑丈な樫の扉が、内側へゆっくりと開いた。ブレサウンの支配者が到着したことを告げる、冷ややかな戦慄が、部屋の中の隅々へと広がっていった。
イヒョンは、音もなく席から立ち上がった。乱れなく腰をまっすぐに伸ばし、鍛えられた姿勢を取る彼の眼差しが、静かに沈んだ。
一方、傍らにいたライルは、びくっと驚いて、手にしていた無骨な茶碗を、テーブルにがたんと下ろした。慌てふためいて尻を浮かせ、中腰で身を起こす様は、まさに落ち着きのないものだった。
向かいのライサは、水の流れるように優雅で無駄のない動作で席から立ち上がり、丁重な礼法を整えた。彼女の傍らに立ったルプスもまた、生唾を飲み込みながら、ぴりぴりと緊張したまま、直立不動の姿勢で肩をこわばらせた。
ブレサウンの領主、ルキウス・モントセラビウス子爵が、老いた家令と武装した兵士たちの護衛を受けながら、応接室の敷居を越えて入ってきた。
イヒョンの視線が、扉口に入ってきた男の頭のてっぺんから爪先までを、鋭くなぞり下ろした。
40代半ばと見える領主は、決して武人には見えなかった。
背丈は平凡で、エペリア大陸の武勇伝によく登場しそうな巨大な武将たちの、威圧的な骨格とは、程遠かった。むしろ肩はいくぶん狭く、体の線は、病弱に見えるほど痩せこけていた。
だが、背骨を定規で測ったように一直線にまっすぐ立てた、その端正な姿勢が、彼を取り巻く空気の密度を、奇妙なほど重々しく押さえつけていた。
『修道士……あるいは、禁欲主義者の風貌か』
荒々しい戦場を転げ回りながら研ぎ澄まされた、武人の殺気ではなかった。
長い歳月にわたって、内面の衝動と感情を徹底的に抑え込み、精錬してきた者だけが漂わせられる、氷のように冷たく静かな、静寂のカリスマだった。
きちんと梳き上げられた淡い茶色の髪の間には、白髪混じりの歳月の痕跡が垣間見え、短く整えられた髭は、鋭い顎の線に沿って、一寸の狂いもなく整えられていた。
落ち窪んだ目元と、黒ずんだ顔色の上には、長い思索と不眠が残した疲労が、濃い影のように垂れ込めていた。彼もまた、昨夜イヒョンが起こした騒動のせいで、一睡もできなかったことは明らかだった。
その疲労の痕跡の中には、享楽と怠惰に浸りきった、他のエペリア貴族たちの忌々しい倦怠の類など、塵ほども混じってはいなかった。
不毛な領地の暮らしと、貧しさに喘ぐ領民たちの生活を背負う者。日夜、苦悩と責任を骨に刻んだ統治者だけが持ちうる、崇高なまでにもの悲しい重みが、彼の全身に染みついていた。
男の装いもまた、この倹しい城塞の雰囲気と、完璧に軌を一にしていた。贅沢な金糸の刺繍や、煩わしい絹の装飾の類は、見当たらなかった。
体にぴたりと合った暗い紺色の外套、そして左胸に質素にあしらわれた、ブレサウン子爵家の紋章のブローチが一つ、それがすべてだった。よく見なければ見過ごすほど、袖口が擦り切れてほつれた姿は、彼に仕える老いた家令の古びた服と、奇妙なほど似通っていた。清潔に手入れされて塵一つなかったが、歳月の手垢のついた、古着だった。
子爵が応接室の中へ完全に歩み入ると、狭い空間の内部の酸素が、一瞬にして凍りつくような圧迫感が漂った。
ライサとルプスが、頭を深く下げて、領主への敬意を表した。イヒョンもまた、上体をかがめて格式にかなった礼を整え、ライルも慌てて頭を下げた。
子爵の透き通った茶色の瞳が、部屋の中に立つ者たちへと、機械的な軌跡を描きながら、ゆっくりと動いた。やがて、その視線が、イヒョンの顔の上で止まった。
地獄のような牢の床でこびりついてきた、濃い煤と煤汚れ、汚物桶をもぎ取るために汗と埃にまみれた見すぼらしい服の裾、そして粗雑に巻かれた包帯の隙間から、赤く膿の滲んだ手のひらの火傷の跡まで。
領主は、何の叱責も、一言の言葉も投げかけぬまま、イヒョンとライルの風体を、じっくりと見つめた。
凍りついた沈黙が続いた、まさにその刹那。
固く閉ざされていた子爵の唇の端が、緩やかな弧を描きながら、淡く開いた。
それは、相手を押さえつける貴族特有の傲慢さでも、嘲りを交えた冷たい嗤いでもなかった。
自らの予想を完璧に裏切った、奇想天外な脱出劇に対する当惑。そして、あの凄まじい環境の中で、意地でも火を熾して生き延びた者の、無謀なまでの生存力に対する、隠しきれぬ知的興味の入り混じった、奇妙な微笑みだった。
子爵は、ゆっくりとテーブルの上座へと足を運んだ。
「……イヒョン、と申したか?」
節度ある空気を裂いて流れ出たルキウス・モントセラビウス子爵の声は、低く冷ややかだった。
大げさな威圧感や、華やかな飾り言葉は、一片も混じっていなかった。だが、長い歳月、感情を研ぎ、精錬してきた者特有の、清らかな声は、それだけで狭い応接室の空気を重々しく掌握する力があった。
イヒョンは、胸の前へ視線を落としながら、端正に頭を下げた。
「……はい。さようでございます、閣下。取り繕う間もない有様でお目にかかることになり、恐縮するばかりでございます」
「公式の謁見の場ではないのだから、そう堅苦しく振る舞う必要はない。わが牢を丸ごと灰の山にするところだった化け物が来たと聞いて、内心緊張していたのだが……思っていたよりも、ずっと平凡で、まともに見えるな」
子爵の口ぶりには、皮肉る気配がなかった。
イヒョンは、短い呼吸を整えながら、淡々と言葉を継いだ。
「私の状況判断が、未熟でした。閣下の領地で過度な騒ぎを起こし、被害を及ぼし、申し訳ございません」
「はははは。謝るほどのことでもない」
子爵の乾いた唇の間から、低く柔らかな笑いが広がった。
「私はただ、あの凄まじいドルメアから生きて帰ってきたと聞いて、もっと荒々しく凶暴な野蛮人を想像していただけだ。だが、これはブレサウンの歴史上、前代未聞の事件として記録されるだろうな。投獄されてわずか一晩も経たぬうちに、火を熾して脱獄を企てた者など、私の生涯、どこでも聞いたことがないのだからな」
子爵の淡々とした視線が、イヒョンの手へと向かった。
荒々しく裂けた藁くずと汚物桶の破片を掴み、粗末な木の棒を皮膚が剥けるほど擦り続けた痕跡。弓錐の凄まじい摩擦熱が刻み込んだ手のひらの赤い火傷の跡に、領主の目が留まった。
イヒョンは、息を殺したまま、子爵の目を見据えた。
「閣下。外で一人残された仲間の身が危うくなったかもしれぬという焦りから、一線を越えてしまいました。大変な無礼を働きました」
その告白に、子爵は咎める代わりに、空気を撫でるように手を軽く振った。
「いや。突き詰めれば、ルプスが状況をあまりに一方的に、過酷に追い詰めたせいだ。これほど理性的な対話の通じる知性人であるとは察せず、軽率に拘束の命を下した私の失策だ。領地の主として、詫びはむしろ、私がすべき役目だろうな」
淡白に過ちを認める子爵の態度に、イヒョンの胸の底から、妙な負い目がじわりと湧き上がってきた。
目の下に濃く垂れ込めた、疲労の影。
それは、自らの実利と権力を守ろうとする貴族の貪欲ではなく、不毛な領土と、飢えた民たちの明日を背負った君主だけが抱きうる、崇高で、なおかつもの悲しい重みだった。その真摯さが、イヒョンの鋭い警戒心を、ゆっくりと崩していった。
「さあ、立っていないで、皆、席に着きなさい。予定にはなかった会合ではあるが、我々が今日、向かい合って交わさねばならぬ話が、かなり長くなりそうだからな」
子爵が、上座に身を沈めた。老いた家令が近づき、銀の盆の上に載せた茶碗を、領主の前の席へ慎重に下ろした。
もうもうと立ちのぼる、ぴりっとした薄荷の香りと、ほろ苦い薬草の匂いが、冷たい応接室の空気を温めた。
子爵は、杯を握り、ゆっくりと唇を湿らせた。ただ唇の端だけを軽く湿らせる程度の、ごくわずかな量だけを含むと、テーブルの上へ、杯を再び下ろした。陶器のぶつかる音すら立たない、完璧に制御された振る舞いだった。
「さて、では、この絡まりに絡まった糸玉を、どこから解いていくのがよいだろうか? 一晩のうちに私の耳に入ってきた情報が、あまりにも膨大でな」
領主の透き通った茶色の瞳が、ゆっくりと動いた。
彼の視線が、応接室の中に座った四人の顔を、一人ずつ、正確に一拍ずつ見据えながら、なぞり下ろし始めた。
牢の煤と灰を全身にかぶったまま、無表情に座っているイヒョン。
その傍らで、領主の眼差しと目が合うや否や、息遣いすら飲み込んだまま、石膏人形のようにがちがちに凍りついてしまったライル。
いかなる緊張感も見せず、口元に特有の秘めやかで余裕のある微笑みを浮かべたライサ。
そして、その傍らで、ひどく緊張した顔色で、分厚い羊皮紙の書類の束を胸にぎゅっと抱えているルプスまで。
視線が届くたびに、空気の質感が変わった。
それは、一寸の狂いも許さぬチェス盤の上の勝負師が、盤上に載せられた駒の重みと使い道を最終点検するかのような、静かで、なおかつ厳格な君主の眼差しだった。
やがて、子爵の乾いた視線が、ライサの顔の上で止まった。
領主とライサの眼差しが、冷たい虚空で正面からぶつかり合った。刹那の静寂の中で、張り詰めた緊張感が、糸玉のように絡みついた。
ライサは、その視線に込められた無言の信号を、一片の動揺もなく受け止めた。軽い顎の仕草と丁重な会釈で沈黙を引き継いだ彼女の唇の間から、静かで優雅な声が、水の流れるように流れ出た。
「閣下。此度、領地の境の検問所で発生した騒動と、彼らがドルメアの残骸の中で目撃した惨状の実体……そして、そのすべての悲劇の裏側で動きながら、王国を脅かす問題についての、全般的な整理が、まず必要かと存じます」
ドルメアという地名が言及された瞬間、応接室の空気が、目に見えて冷たく沈み込むようだった。
子爵は、彼女の声に反応するように、顎を頷かせた。紺色の外套の下から覗いた、彼の細い指の先が、膝の上を規則的に叩き始めた。
とん、とん。
拍子の音が、静寂を細かく刻んだ。深い苦悩に沈んだ子爵の瞳に、暗い影がよぎった。
「……そうだろうな。ルプスから、昨夕と今朝方にかけて領地の地下で起こった、おおまかな報告は、すでに受けている。だが……それがすべてではない、と聞いたが。私に上がってきた報告によれば、ドルメアの失踪事件の背後に、想像以上に巨大な何かが潜んでいる、というのだ」
子爵は、指の動きを止め、ライサをまっすぐに見据えた。
「そなたが先に始めるのがよかろうな。おそらく、この部屋の中で、ギルドの情報網を握るそなたが、最も多くの情報を持っているだろうからな」
ライサは、微笑みを収め、子爵に向かって、もう一度端正に頭を下げた。
彼女の眼差しから悪戯っぽさは綺麗に拭い去られ、その場所には、ただ研ぎ澄まされた刃のような冷徹さだけが、残っていた。
「はい、閣下。それでは、これまで旅人ギルドで把握した一連の事態を、時系列に整理して申し上げます」
読んでくれてありがとうございます。
本業の都合により、小説の投稿時間が不規則となっております。
ご迷惑をおかけし、誠に申し訳ございません。
読者の皆さまの温かい称賛や鋭いご批評は、今後さらに面白い小説を書くための大きな力となります。
お読みいただき、楽しんでいただけましたら、ブックマークやコメントをお願いいたします。




